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 男は昔、争いを嫌う小国にいた。実り豊かな国だった。王と民は草木を愛し歌と舞を愛した。人が生きる中で出合う数々の喜びと悲しみを、いくつもの歌にのせた。男も歌った。  二十代の頃、離れた大国から戦を仕掛けられ火を放たれた。すべてが燃えた。  父を失い、母を失い、子を失い、伴侶を失い、友を失い、王を失い、民を失い、故郷を失い、人の身でありながら体を流れる時が止まった。歌える歌はなにもなかった。悲しみの歌でさえ。帰るべき場所はなく行くあてもなかった。百年、荒れ地をさすらい歩き続けた。心に慟哭(どうこく)を抱えたまま。  その先で、春の芽吹きのような人と出会った。  十年、ともに歩いた。ひとつひとつ、指を差して教えてくれた。  抱える悲哀は消えずとも、心にかすかな明かりが生まれた。  三年前、その人を失った。  わが身を呪わず世を呪わず、歩いてほしいと言い(のこ)された。哀しみだけが残った。 「それを返してくれ」  男は固い声で言った。 「俺の嘆きも悲しみも、叫びも、凍えるような孤独感も、痛みもぜんぶ俺のものだ。俺だけのものだ。  だれとも分かち合いたくなんかない。  それを抱えて生きていきたい。  同じ心が欲しいんじゃない。  俺とは違う心を持つ相手に出会いたい。  俺とは違う、希望を抱いて生きる相手に出会いたい。  雨が降れば歌い、陽が出れば舞い、花の咲く姿に美しいと微笑む相手に出会いたい」  女は視線を上げて男を見た。 「残念ね。あなたの心、とても素敵だったのに。  世界で一番、哀しく叫ぶ心だったのに。  この美しい水の(まり)をいくつも複製して多くの人びとの中にひとつずつ入れたなら、狂乱の中でみな鬼のように()いたでしょうに。  だれも彼もが同じ痛みを抱えれば、肩を寄せ合うようにして生きていけたかもしれないのに。  それは(たい)らかな調和でしょう?」  そこで女は哀しく笑った。 「そう、でもあなた、ずっと待っているのね。  雨が降れば歌い、陽が出れば舞い、花の咲く姿に美しいと微笑む、かつてのわたしを。  もういないのに。  再び生まれるのを待って、出会えるまで痛みを抱えて歩くのね」  
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