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 女は人の身ではない。悠久の昔から、この世の調和を図ってきた。人の心はない。  冷静に観察し、これまでにあらゆる生きものの繁栄と衰退を調整した。ただ、人間だけがうまくいかない。何度調整しても、やがては無益な争いを起こす。  その中で男の存在に気づいた。百年の間、男は千におよぶ哀しみをその身ひとつで抑えていた。女はそれを使うことを考えた。この世の調和のために。  男の信頼を得ようと、己の一部を切り離し人を模した生きものを作った。女の持つ知識を与え、人の心の代わりに植物の感情を与え、男のそばに置いた。  植物は雪柳だった。雨に陽の光に喜び、やせた土地にも育つ丈夫さを表すようにしなやかな緑の葉を持ち、春にあふれる白い小さな花を咲かせる。  植物の持つ静けさで男の心に触れた。男の心にほのかな明かりを(とも)したようだった。十年、男とともに歩き、さまざまなことを男に教えた。男の近くで人の心を映し続け、いつしか人の心を持っていた。  想定外のことだった。人の心は不要。女は雪柳を自分の中に(かえ)した。雪柳の記憶と心は溶けた。二度と同じものは作らない。  三年、哀しみを抱えて歩く男を遠くから眺めた。なぜか時折、体の奥が痛んだ。  還って溶けたはずの人の心が、女の奥底に残っていたのかもしれない。わずらわしく、どこか哀れでもあった。無用なはずの、どこにもいけない人の心。 「あれはおまえだったのか」  呆然と男がつぶやく。 「わたしの一部だったもの。今のわたしとは違うもの。  もういない。もう生まれない」  女は涼やかに言い切った。 「それなら、」男は女の手にある水の(まり)を指差した。 「それを返してくれ」  女は黙って薄青く透ける球体を男の胸の中へと戻す。 「これでようやく、違う心だ」  男が笑う。  女は初めて戸惑った。 「俺とは違う心を持つ相手に出会いたい、とも言っただろう。おまえがそうだ」  不意を突かれて言葉が出ない。 「同じでなくていい。今のおまえの話を聴かせてくれ」  語らう相手など女にはいなかった。かつて出会ったこともない。  どうしたらいいかわからなかった。  この戸惑いが、女の奥底に残る人の心のせいなのか、男と十年ともに歩いた雪柳の記憶によるものなのか、今の自分に笑いかけられたからなのか、確めようもない。  ただ、人びとの間に望んだ恐慌を今はまだ起こせそうにないことだけが知れた。
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