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もう一度だけ、あなたに会いたかった。
それも今では儚い願いに、なっていたなんて。
「そういえば彼、二年前に亡くなったそうよ」
共通の友人から聴かされた。
彼のお父様も、三十代で亡くなったと彼から聴いた事がある。看護師をされていた賢明なお母様に育てられたと。
私が彼に出会った時、既に聡明な奥様も可愛い男の子もいらして……。
私のあなたへの想いは一度も言葉にすることもなく……。
でもあなたは、気付いていたんでしょう?
江戸前のお鮨屋さん、ピアノバー、割烹。二十代の私が、とても一人では行けない場所に連れて行ってくれた。
あなたは何も言わなかったし、何もしなかった。
一度だけ彼に言ったことがある。
「私は、たぶん奥さん向きではないと思う。恋人のままで一生終わっても構わない」
その時、彼は「いや、君は必ず良妻賢母になるよ」そう言った。
私は悲しかった。私の想いは受け取ってももらえない。
それからも彼と私には何もなく。
でも、美味しい天ぷらを食べに連れて行ってくれたり、お豆腐を食べに冬の京都まで車を走らせてくれたことも……。
どうして? って聴きたかった。でも聴いてしまうと全てが終わってしまいそうで、結局、最後まで聴けなかった。
最後……。
私は耐えられなくて彼の傍から姿を消した。
本当に指一本、触れてももらえなかった。
彼は知っていたのかもしれない。自分の死期を……。
今でも彼の笑顔と私を呼ぶ優しい声は想い出せるのに……。
彼は私には想い出以外、何も……。写真一枚でさえ残してくれなかった。
それが彼の最大限の優しさだったんだろうか?
今となっては聴く事もできないけれど……。
そして私は、彼の言うとおり結婚して母親になった。
あなたは遠い空の上から見てくれているんだろうか?
『良妻賢母』は、間違いだったかなと、あの笑顔で……。
了
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