人よ、夜闇を恐れよ

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こつ、こつ……と革靴の音が響く。 仄暗く湿っぽい街は寝静まったように静かだ。廃れた路地にはネズミの足音と猫の鳴き声が、不気味に響くだけ。人の気配なんてものは、何処にもない。 不意に、革靴は水気のある何かを踏みつけびちゃっ…と音を立てた。 ぶわりと立ち込めたのは、鉄の香り……なんて王道の展開なんかではなく。 「チッ……誰だよ、クソッタレ。こんな所に油撒きやがって。」 毒吐く彼の言葉通り、どろりとした油は革靴にへばりつき足取りを重くさせる。辺りに立ち込めた匂いは、間違えようもなく灯油のそれである。いらだちを抑えることも無く男は煙草を咥え、ライターを取り出した。ダークシルバーのそれにはゴブレットに蛇が巻き付いたような模様が彫られている。男らしいかち、かちとライターを鳴らす。ぼっ……とライター特有の着火音が、やけに大きく響いた。 ………………。 直後。いきなり大きな銃声が聞こえた。男はそれに驚いたのかライターをカラン、と落とす。 ぶすぶすと嫌な臭いのするそれを、男は拾おうともしない。いや、拾う気すら起きなかったのかもしれない。 何故なら、彼の肩を、急所を的確に外して打ち抜かれていたから。 男は怯える。組織が自身の命を狙おうとしているのだと、そう確信していた。幸いにも、足は無事だ。2発目を撃たない辺り、ただの威嚇射撃に過ぎなかったのだろうと思うと恐怖で胃がひっくり返りそうになる。自分の血の匂いとオイルの臭いで吐きそうになりながら、重い足を何とか持ち上げて男はその場から走って逃げ去った。 その頃。銃を撃った本人はくすくすと笑い声を立てる。対象が落として行ったライターは、そこそこ上物らしい。かち、とライターを鳴らしお気に入りの煙草にそっと火をつけた。ポゥ……と淡い火が先端で燃える。灯油の臭いに混じり仄かに香る硝煙と紫煙の匂い。銃を持った男は機嫌良さげに悪趣味な模様が描かれているライターを放り捨て、暗闇へと消えていった。
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