一度だけ、報われたい。

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一度だけ、報われたい。

先生が死んだのは四十二歳の春。空が流れて私も四十二歳になってしまった。 「フィリン、遊びに来てくれてありがとう」 「いいよエリック。ここは私達が育った場所だ。資金援助くらいなんてことない」 「でも君は・・・」 「そろそろ幸せになった方が良いって? 何度目の台詞だ。聞き飽きたよ」 ここは私とエリック、他にも沢山の子供達が育った孤児院だ。エリックには薬学の、私には魔法の才があった。二人には裏の名前がある。『クラゲのエリック』と『黒きフィリン』。エリックは孤児院の院長になる前は毒による暗殺で、私は魔法によるテロで国に奉仕してきた。孤児院の子供達の中で秀でた才を持つ者は、孤児院出身の秀でた才を持つ者に師事を乞い、そうやって技術は受け継がれていく。 「・・・もう、僕達が人を殺す必要はないんだよ」 「そうかもしれないね」 「先生のことが忘れられないの?」 「そういうわけじゃない」 「もう危ない生き方はやめるんだ、フィリン。燃やすんじゃなくて温める。溺れさせるのではなくて潤す。切り裂くのではなく種を運ぶ。地震を起こすのではなく豊かにする。君の魔法はそうやって使うべきだ」 「この指輪が外れたらそうするよ」 エリックが淹れたハーブティーを飲み干し、私は孤児院をあとにした。狭いオンボロアパートで粗末な寝床に横になる。 『右手の薬指に嵌めろ』 握り拳をずいと突き出して、先生が言う。私が両手を差し出すと、先生はアメジストが光る銀の指輪を私の手の平にぽとりと落とした。 『嵌めたな? それは死ぬまで外れない。この国を治めるアリス女王への忠誠の証だ。毎日その指の重みを感じて眠りに就け。いいな?』 先生はアリス女王のことしか考えていなかった。そうわかっているのに、私はどうして先生のことを今でも愛しているのだろう。先生に振り向いてほしい一心で魔法を学んだ。血の小便が出るほど肉体を鍛えた。拷問の訓練も受けた。性的な訓練だって。子供が産めない身体になってでも、先生に、ほんの僅かな時間で良いから、私を見てほしかった。先生は私に微笑みかけてはくれなかった。一度だけ、先生の弟子として王宮に行き、舞踏会に参加したことがある。王家も参加する盛大な舞踏会だった。先生はアリス女王に微笑みを向けていた。アリス女王は先生に視線を送ったのだろうか。わからない。私は、夢を見ていた。夢の中でどうしてこんなことを考えているのだろう。アリス女王のことを考えるように言われているからか。そうだ、私は、夢を見ていた。 『おい』 先生は滅多に私の名前を呼ばない。おい、とか、お前、とか。 『寝ているのか?』 確かあの日は、訓練を受けてくたくたで、先生の声に起き上がることもできなかった日だ。そういう日は何度かあった。 『フィリン、よく頑張っている。よく・・・』 そして、わざと起きない日も何度かあった。先生が静かな声で言う。 『全てはアリス女王のために』 面と向かって褒められたことはない。でもこれで良かったのだ。私は、都合の良い夢を見ていた。 『フィリン、愛している・・・。お前になにもできない私を許してくれ・・・』 先生が両手で包むように指輪を持ち、握り、跪き、祈る。そして手を開いた。アリス女王への忠誠の証の指輪。先生の瞳と同じ色の静かなアメジスト。銀の円環を親指と人差し指で挟み、先生が、そっと、石に口付ける。 ごめんなさい先生。 私はアリス女王殺害計画に加担しました。 圧政に苦しむ民を救おうと立ち上がったレジスタンスに、クラゲのエリックと黒きフィリンも所属していたのです。この国は随分と良い国になりました。貴方の望まない結末でしょう。もし先生が生きていたら、アリス女王の仇である私を殺したでしょうか。あれからもう十年になります。レジスタンスのリーダーであり、新しい王であるオルフェレウスは、アリス女王の弟は、熱き人だ。それでもいつか、私は邪魔者として、不要な存在として、口封じにギロチンで首を飛ばされるかもしれない。私はそれを受け入れます。 目が覚める。 天井に手を翳すと、暗闇の中で僅かな光を反射してアメジストがきらりと輝いた。先生の瞳に見つめられているような気がして、良い気分になって、どうしようもなく沈み込む。 一度だけ、一度だけ報われたい。 アメジストの指輪にキスを。 パリン、と音が鳴って、石が割れた。 先生に拒絶されたか、と自虐し笑う。次の瞬間、黒い煙が指輪から立ち上り、銀の円環までがひび割れ、砕け散る。煙は狭い部屋の中を優雅にくるくると回ると、しゅるりと先生に姿を変えた。私は吃驚してベッドから起き上がる。 「フィリン」 先生の声。ああ、私はまだ夢を見ているのか。下らない夢だ。 「動じないのだな、お前らしい」 私は唇を少しだけ開けて、口の中で夢から醒めるための魔法を唱えた。それでも先生は目の前に存在している。 「フィリン、夢ではない」 まやかしを打ち滅ぼす魔法も唱える。それでも先生は目の前に存在している。他に思い付く魔法を全て唱えても先生はそこに居た。 「受け入れたか?」 私は混乱した。 「私に身体は無い。魂だけの存在だ。死後、その指輪に魂が宿るように呪いをかけておいた」 「・・・そう、ですか」 「私が憎いか?」 「憎いです」 私はそう答えてしまった。愛しているのに憎たらしい。今更出てこられても、なんと言えばいいのか、どんな顔をすればいいのかわからない。困る。それが正直な気持ちだった。 「もう私を愛していないのだな?」 お見通しだったのは知っている。私は俯くことしかできなかった。 「どうして私には嘘を吐けないんだ、フィリン。寝たふりもいつも下手くそだったぞ」 先生はベッドの下で跪き、私の手を取った。体温は感じない。薄い布を撫でているような感覚はある。先生は私の手の甲に口付けた。まるで、忠誠を誓うように。意味を理解して、私は握られていない手で震える唇をおさえるが、遅かった。胃の中のものがビチャビチャと汚い音を立てて床に広がる。嫌だ、理解したくない。先生が私を愛していたかもしれないだなんて。先生も、先生の師匠も、アリス女王の先代、先々代と、古くから続くこの国のために奉仕してきたはずだ。先生も、私と同じように師匠に師事を乞い、学び、鍛え、拷問の訓練を受け、己を殺して生きてきたはずだ。 「お前達が忌まわしき歴史に終止符を打ったのだ。自分を誇れ、英雄」 私の背中をさすりながら先生が言う。 「もう私達を阻むものは無い、フィリン。お前を愛していると言わせてくれ」 吐き気が止まらない。 「吐きながら泣きながら笑うやつがあるか」 抱きしめられても、体温も無い。匂いも無い。魂を包む魔法の薄い膜だけ。死後も亡霊となって私を縛る愛しの先生。夜が明けても、私は先生に愛していますとは言えなかった。 「フィリン! 君から遊びに来てくれるなんて! 連絡の一つくらい寄こせよ」 私は右手を顔の横に掲げるようにして見せる。エリックは一瞬、ぽかんと呆け、そして私の右手を指差した。 「あっ! 指輪が無い!」 「国を出ようと思う」 「ええっ!?」 「ふざけた理由だ。本人に聞いてくれ」 「ほ、本人・・・?」 するりと私の後ろから黒い煙が現れ、先生の形になる。エリックは目も口も盛大に開いて驚き、後退った。 「あ、貴方は・・・」 「久しいな、エリック」 先生が説明を始める。私が『黒きフィリン』として育ちきれば、反乱分子になりかねない先代である先生は殺処分される。国は自分達がしていることが悪いことだと、十分にわかっていたのだ。恐怖では心を縛ることができないことも、十分にわかっていたのだ。先生は指輪に特別な呪いを込め、死後は魂となって指輪に宿り、私の傍に在り続けることを考えた。そして殺処分を甘んじて受け入れ、私のことを見守り続けた。先生が考案した一代限りの大魔法だ。私は先生を信じて呪われた指輪をずっと嵌め続けていたのである。 指輪が死ぬまで外れないなんて嘘だ。 私が外そうと思えばいつでも外せるものだったそうだ。先生の大魔法も死後暫くすれば先生の魔力が消え、魔力の供給が必要になる。その供給源は指輪を嵌めている私。私の指から指輪が外れたが最後、供給源を失った呪いは効力を失って消滅し、先生の魂も無に還る。先生は一つだけ我儘な願いをした。もし私が先生を愛しく想ってアメジストの指輪にキスをしたら、私の魔力を源にこの世に蘇り、私に愛していると告げたいと考えたのだ。しかし先生の魔法も完璧ではない。生きものを蘇らせようだなんて土台無理な馬鹿げた話を先生は成し遂げようとしたが、私の魔力では足りず、魂だけの存在となった。 「フィリンの馬鹿! さっさと幸せになれば良かったのに!」 エリックが叫ぶように言う。 「それでフィリン、国を出てどうするんだよ?」 「この国はボスではなくリーダーが導いてくれる。私はもっと貧しい国に行って、魔術で平和に奉仕しようと思う」 「先生も一緒に?」 「離れてほしくてももう無理だ。黒い煙になって素早く移動できるからな。火炙りの刑になんてするもんじゃない」 先生は火刑に処されたため、黒い煙に姿を変えることもできるようだ。 「ひ、火炙り・・・」 凄惨の一言では形容できぬその死刑を理解しているエリックが閉口する。先生は私の肩に手を置いてにこりと笑った。その笑みは、アリス女王に向けられていた笑みとは全く違う。作りものの石像の笑みではなく、皮膚の下に血が通った生きものの笑みだ。 「奪われた時間と、失った時間を、これからフィリンと取り戻していく」 「だとさ」 「『だとさ』って君、嬉しくないの?」 「死んだ人間に求愛されて嬉しいやつが居るか?」 「フィリンの馬鹿! ひねくれもの!」 「餞別に馬を一頭くれ」 「好きな子を選んで連れて行くといい。さよならフィリン、お幸せに!」 私は白い馬を一頭選び、自分の指を噛み、血を舐めさせる。他者を眷属とし使役するための魔法だ。この国では禁止されている魔法でもある。 『フィリン様』 「名前は?」 『エスメラルダでございます』 「行くぞ」 『はい』 エスメラルダを愛馬とし、私は国を出た。 二十年後。 貧しい国を再建した英雄として私は崇められていた。 「魔女さん! 林檎を貰ってください!」 「ありがとう、少年」 「魔女さんはどうしてお名前を教えてくださらないのですか?」 「気まぐれ」 「えー! もう、魔女さん恰好良い!」 無邪気な少年が親の元へ駆けていく。僅かな草を争っていたこの国で実った林檎だ。巣にしている小さな家に帰り、明かりを灯す。 「そろそろ潮時かな・・・」 黒い煙が先生の形を作る。 「次の国へ行くのか?」 「はい。私はもう必要無いでしょう」 「ここから西も荒れた土地だ」 「では西に」 私はベッドに腰掛けた。先生も隣に腰掛け、そっと手を重ねてくる。私はまだ、先生とそういうことはしていない。二人共拷問の訓練を受けた身だ。先生はしたがっているが、私の気持ちが整うまでは待つとのことだった。それでも小鳥が啄むようなキスはするようになった。この国を再建するまで二十年。その間に私達の関係も変化した。 「今夜は冷える。同じベッドで寝よう」 「貴方、体温無いじゃないですか」 「気持ちだけでも温かくなるだろう?」 「は、なに言ってんだか」 私から頬にキスをすると、先生は嬉しそうに笑って私の頬にキスを返した。 「デートしないか?」 「いいですね」 指を一振りして明かりを消す。 「エスメラルダ、少し夜の風を浴びてくる」 『わかりました、フィリン様。お身体を冷やしませんよう』 エスメラルダはこくりと頷いてそう言った。サクサクと草を踏む音が一人分鳴る。先生が私の手を握る。私は指を絡め返した。魔力の膜の感触。それでも嬉しい。 「先生は感覚は生きている時と変わりないんですよね」 「そうだ」 「寒くないですか?」 「いいや」 「・・・寒くないですか?」 意味を理解したのか、先生は苦笑する。 「少し寒いな」 「私が温めてあげても良いですよ」 「頼む」 腕を絡める。 「フィリンは本当に可愛いな」 「そうですか」 「少女のような顔立ちをしている」 「魔力で若い姿を作っているだけですよ」 「青い宝石の瞳に白く透ける肌が綺麗だ。私と揃いの黒髪が嬉しい」 「そうですか」 「月が綺麗だな」 「そうですね」 「フィリン、キスをしよう」 私は立ち止り、先生を見上げる。目蓋を閉じると、ちゅむ、と妙に可愛らしい音がした。唇に当たるのは柔い布のような感触だ。それで満足してしまうのだから、私は途方もない馬鹿者だろう。 「あっ!? 魔女様!?」 後方から青年の声が響いた。 「あの、すみません、偶然見かけて好奇心で着いてきてしまいまして・・・」 青年が顔を赤くして気まずそうな顔をする。 「いけませんよ」 「す、すみません・・・」 「魔女の恋路を邪魔するやつは私の愛馬に蹴られます」 「あはは! 魔女様はお茶目ですね。ところでそちらの方、お見かけしたことがありませんが、最近この国に来た人ですか? なんだか服装もここいらのモンとは違いますし、顔立ちも・・・」 「彼は私と一緒にこの国に来たんです」 「ああ、成程! それで異国の雰囲気がしていたんですね」 「素敵な人でしょう?」 「ええ、とても!」 人懐こい笑顔を浮かべる青年に、先生がお辞儀をした。 「恋人のダシェルです。どうぞよろしく」
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