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2話
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カルニア国皇帝第一王子、リュカ。
彼に関わって死んだといわれる人間は十人を下らない。侍女、護衛兵、宦官、友人、親しい文官。乳母で井戸の中で浮いていたとなると、呪われた王子として有名だ。それをエリーヌが知らなかったのは、たぶん父親の情報操作のせいだろう。
街の噂で呪われた屋敷があり、化け物が住んでいるとはエリーヌは知っていたが、その理由が周囲を巻き込むほどの、呪われ王子だったとは! 娘をそんなのに嫁がせて短命だったらどうする! エリーヌは最近繰り返さずにはいられない言葉を脳裏で叫んだ。
――くそじじい!
拳を握りしめ、父への恨み言で頭が一杯のエリーヌの前にリュカが掌を振った。
「エリーヌ?」
「あ、ごめんなさい」
「そんな畏まらなくていいよ。普通に話して」
「分かった。もともと敬語は苦手なのよ」
微笑まれて、エリーヌも思わず微笑み返してしまった。他人に不幸をもたらす人にはエリーヌにはとても見えなかった。少し情けないような雰囲気はあっても、今日の空のように彼は澄んだ笑みをする。
「ああそうだ、父上が持参金代わりに本を持って行けって」
「本?」
エリーヌが荷車を指さすと、リュカは破顔した。本が好きらしい。荷車に乗った本を一つ一つ触れながら、なかなか手に入らない珍しい書だとか、ずっと以前から読んでみたかった本だとか言いながら手に取る。
「なによりの贈り物だ」
「中に禁書もあるから気を付けて」
誰もいない屋敷なのに、彼女はそっと囁いて鍵をリュカの手に握らせた。
「禁書? どんな? 教会が禁じられて教えとか?」
「たぶんそうだと思う。見つかったら没収どころか捕まる書物らしいの」
エリーヌが、禁書が入っているという箱をリュカに手渡すと、リュカは中にエリーヌを案内してくれた。
おんぼろの屋敷の割に小ざっぱりとした玄関で、高価な飾り物はないにしろ、自分で描いたのか、庭の絵や、動物画が飾られている。犬や猫、馬ではなく、鶏や鼠であるけれど、動物愛に溢れている絵は好感が持てる。
「良い屋敷ね」
「まさか本当に花嫁が来てくれると思っていなかったから、祝いの飾りもしていなかった。本来なら白い薔薇で部屋を飾っておくべきなのにすまない」
「気にしないで。わたしだって身一つで引っ越してきたし」
古びた東方の絨毯が敷かれた居間に通されると、オノレが欠けたティーカップを二人の前に置いた。茶かと思ったが、白湯だった。そして気付けば部屋には暖炉があるが、使われたことがある様子はない。内も外も変わらない気温の部屋で、王子が寒そうに湯呑を両手にして白湯を飲む。エリーヌは心苦しくなった。王子という高貴な貴人が、こんな風に苦労をしなければならないなど、どれほど辛いだろうかと。
「エリーヌ、禁書の箱を開けて見てもいい? とても興味がある。博士が禁を犯してまでどんな思想を学ぼうとしていたのか」
「もちろん。それはもうリュカのよ」
エリーヌは口を付けながら、リュカが箱を開けるのを見ていた。その横で興味津々にオノレが開かれた本を覗き込む。それをじっと見つめた男二人。まじまじとそれに見入ったかと思うと、ぱっと本を閉じた。
「博士からは何か伝言は?!」
「え? よく学ぶものだけが真理を得るって……。真理を得るには、その本が必要だって」
そう言われて、再び二人の男は本を開いた。今度はオノレも釘づけだ。エリーヌは訝って眉を寄せた。
「ねぇ、何の本? わたしも見ていい?」
「あ、いや、これは真理を求める者が読むものだから……」
しどろもどろになったリュカは本をオノレから取り上げると箱にしまった。勢いよく閉めたからオノレの指が箱に挟まったが、そんなことどうでもいいようにリュカは彼の背を押して禁書は見つかるといけないから隠しておくように命じた。ところが気が動転した様子のオノレが、慌てて敷居に躓いた。そして『あっ』いう間もなく、彼は転げ禁書をあたりにぶちまけた。
エリーヌは様子のおかしい男ふたりが止めるのも聞かずに、一冊を手に取った。そして、この家に来て何度目かの硬直状態に彼女は陥った。何しろそこには男女が絡み合う春画があったのだから。禁書であるには違いはないけれど、これは期待していた禁書とは違う。
――く、くそじじい……。
どこの世界に嫁入り道具に春画をもって行かせる親がいるのだ。彼女はどうしようもなく恥ずかしくなり、慌てて部屋を出た。
テラスに行くと外は相変わらず気持ち良い青空。そこに鶏が長閑に歩いている。
でもエリーヌの今の惨めな心により添ってくれる風景は一つもなかった。どこにも行く宛もないのに、こんな恥ずかしい目にあったら、ここにもいられない。怨霊屋敷が最後の砦であったエリーヌは、これからどこに行けばいいのかと悲嘆にくれた。
「エリーヌ」
顔を合わせるのも恥ずかしいリュカの声が後ろからした。エリーヌは振り返るのさえ怖かった。が、彼は黙って彼女の手を取ると庭の階段に座らせた。
「エリーヌ?」
「ごめんなさい。父上は厳格な学者だとばかり思っていたのよ。いつも何だかよく分からない真面目腐った物ばかり読んでいるんだと思っていた。ちゃんとした本とばかり思って持ってきてしまったのよ……。本当にごめんなさい」
「いや、いいんだよ。ここに入ってくるものにはすべて検閲がある。博士は娯楽のないこの屋敷のことを考えてくれたんだろう」
「慰めてくれなくたっていいのよ。父上は単なる変態じじいだったんだから」
「エリーヌ」
リュカは困ったように肩をすくめてみせた。そして戸惑いながら、彼女の手の平に自分のを乗せると、少し迷ったような顔を見せてから口を開いた。
「僕には三人の花嫁がいた。一人目は婚礼の前の日に姿をくらまして、二人目は門の前で逃げて行った。最後の一人は門を潜ったけど暗くなると、塀を乗り越えてここを去った。だから何というか……」
エリーヌは初めて聞くリュカの嫁取りの話に耳を傾けたが、彼の方は言い淀んでいるようで、そこから続きがなかなか始まらない。エリーヌはじれったそうに口をはさむ。
「えっと、それと何がうちの変態じじいと関係が?」
「だから、僕は十三からここに閉じこもっているわけで、妻を娶ったことがないんだ。だから、たぶん博士は僕の師でもあるから、そういうことも学ぶようにとおっしゃったんだと思う」
エリーヌはリュカの告白にこれ以上もなく恥ずかしくなって顔を染めた。そしてどうしてこの人はこんなに正直なのだろうかと思った。きっとそれで損している。
「他にも持参したものはあるのよ。あなたのために縫った服とか、屋敷を売ったお金で買った竪琴とか……」
「実は服は三枚しかないんだ。助かる」
「綿入りなの。少しは温かいと思う……」
「竪琴も嬉しい。今まで使っていたのは壊れて使えなくなったんだ」
「よかった」
それで二人のぎこちない会話は救われ二人は笑みを交わした。リュカの人柄にエリーヌは心底救われたと思った。彼女はこういう人が夫であってよかったとも思った。噂など信じるに値しない。よい婚礼相手を見つけて来てくれた父に『じじいっ』なんて言ってごめんねとエリーヌは天を仰いだ。
しかし、そんな父への感謝もすぐに彼女は忘れてしまった。野菜しか食べたことがないような男が、ようやく恥ずかしさから解放されたエリーヌを振り出しに戻したのだ。
「じゃ、エリーヌ。僕は急いで勉強してくるよ」
「は? 何を?」
「今夜が婚礼だから、急がないと」
いやいや、ちょっと待て! 慌ててエリーヌはリュカの袖をとった。
「そ、そんなに急がなくても! 真理はじっくり学ぶべきじゃないの?!」
「なるほど。そうかもしれない」
彼は指で顎を触れると考える素振りをみせてから、頬を緩ませてエリーヌを見た。
「師は多くの禁書を贈って下さったのだから、全てに目を通してからの方がいいね。真理を軽々しく扱ってはならない」
「…………」
「でも、エリーヌ。真理とは一体なんなのだろうか。真理を説く書物は多いけれど、アベラール博士は何を僕に教えようとしていたのか。僕はずっと真理とは何かと考えてきた。それが分かるのならどんな努力も僕は惜しまないと思っている。だから禁書もちゃんと学んでからエリーヌに向かい合う方がいい。それが真理を学ぶ者の姿勢というものだから」
エリーヌはこの人はずれていると思った。絶対、真理など変態くそじじいが考え出した方便にすぎないのに、信じているところがおかしい。そして真面目に学ぼうとしている点がおかしい。
しかし考えてみれば、リュカは十三からこうした暮らしをしているのなら、七年はひきこもっていることになる。世間とはどこか違っても仕方がないのかもしれなかった。エリーヌは心の中で吐息した。
――やっぱりうちのくそじじいが持ってきた縁談だけあるわ……。
まじまじと自分の夫となる人を見上げて、彼女はそう思った。
そして父が婚礼の話をした時、リュカのことを『高貴な貴人だ』と言ったとエリーヌは思っていたが、正しくは『高貴な奇人だ』と評していたのだとはたと気が付いた。なにしろ学者である父が重語を使うはずなどないのだから。
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