3話

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3  とりあえず、引っ越し後、初めての仕事はエリーヌの部屋の掃除となった。 「やはり夫婦の部屋は隣でなければ」  物語を好む女の子のようにリュカは当然とばかりに部屋を選んだ。が、ドアを開けると、最低十年は掃除していないかと思われる場所で、窓の開閉もままならない。なんとか力ずくで男たちが開け、舞い上がった埃で三人は一斉に勢いよく咳き込んだ。 「す、すまない、エリーヌ……。侍女も侍従も逃げてしまって、屋敷はオノレと二人だけで、自分たちが使う場所しか掃除していないんだ」  リュカは申し訳なさそうに箒を握り、率先して部屋を掃除し始める。いい夫になりそうだ。 「あと夕食も心配しなくていい。今夜は正餐だ……僕が飼っている鶏を絞めるから……」  リュカはにこりとしたが、その顔はどこか辛そうだ。家族同然に鶏を育てて来たのかもしれない。餌を自らやっているところからして、そうとしか思えない。エリーヌは首を振る。 「心配しないで。肉は少しだけど、買って来てあるから。簡単に焼くだけしかできないけど、牛よ。きっと美味しいわ」  エリーヌにとっても久しぶりの肉だった。それに貧乏が染みついてしまっているせいか、掃除さえすれば、すぐに部屋を気に入った。 「さすがは王家の建物ね」  夏のためか、冬のためか知らないが、王族が別荘としていたものだろう。部屋の数は明日、数えてみるとしても、エリーヌが住んでいた外見だけが立派で中が安普請の建物とは違って、水色のマグノリアの壁紙もマフォガニーのサイドテーブルも立派なものだ。悲しいかな、暖炉に焼べる薪がないが、エリーヌの実家でも暖炉を使ったことはほぼない。布団は多めに持参してあるから、顔まで被って寝ればいい。 「よしっ!」  室内のいらないものを捨て、エリーヌがもって来た布団にシーツを掛ければ、なかなかいい部屋となる。呪われてさえいなければ、ここはいい引っ越し先だ。エリーヌは首を傾げながら訊ねた。 「でも、どうして呪われているなんて言われるの? 屋敷が汚くて手入れがされていない以外は別に普通なのに」 「それは――」  リュカが言いかけて、オノレが憤慨した様子になった。 「七年前、新しい神官が就任したときに、殿下を見た第一声が『呪われている』だったんだ」  七年前といえば、リュカが十三、四くらいのころのことか。『新しい神官』とは神官長のドーク卿のことだろうか。大聖堂で行われるミサに参列できるほどのドレスを持っていないので、間近で見たことはないが、六十くらいの浅黒い顔の人物なのは遠くから見たことがあるからエリーヌも知っている。現在は、病弱な王を支える摂政君で、国の権力者でもある。 「あの人がねぇ」 「あいつが『呪われている』と言って以来、殿下の周辺の幾人かが死んだり行方不明になったりした。だから下らない噂を信じるヤツらが出て――」  ――それでリュカがここに追い出されたわけね……。  エリーヌは信心深くも迷信深くもないから、呪いなどどうでもよかった。それにリュカの人柄を知れば、呪いなどが嘘であるのは分かる。それでも――。 「結婚式は――」  と言いかけたが、二人の男が黙ったので、屋敷内にあるおんぼろ礼拝所で永遠を誓うのはさすがに体裁が悪いし、神官を誰か呼んで正式に結婚すべきだとは理解する。信心深くなくとも、手続きは踏まなければ結婚したとは認められない。 「じゃ、結婚式はまた日を改めてってことで」 「ああ。そうした方がいいと僕は思う。少なくともしっかりとした結婚式をエリーヌのためにも行いたい。今日は忙しかったし、今夜は休んだ方がいい」  だからその夜は、エリーヌが持参した肉を三人で頬張り、少し硬いパンを食べただけで、婚礼らしいことは行われなかった。 「部屋まで送っていくよ、エリーヌ」 食後、デザートも食御酒もないまま、リュカはランプを片手にした。幽霊屋敷は蝋燭が貴重なのか、真っ暗だ。転ばないように腕を貸してくれた。 ――もしかしたら、これは悪くない結婚話だったのかも……。  エリーヌはそう思い始めた。リュカは温和であるし、掃除、洗濯、料理もできる。しかも、率先してやるのだ。これ以上の夫はいるだろうか。  ――お父さま、くそじじいなんて呼んでごめんなさい。天国でお幸せに。 「どうしたんだ?」  リュカが廊下で訊ねる。 「ううん。お父さまに感謝していただけ。こんないい人を結婚相手にしてくれたって」 「それならよかった。僕はてっきり、父上を恨んでいないか心配だったんだ」 「はははは……」  エリーヌは穴の開いた扇子で煽いで誤魔化す。  ――バレバレだった……。気をつけないと。  それでもリュカは微笑み、エリーヌの部屋のドアを開けてくれた。ランプを手渡される。リュカは部屋に入ってこないのも紳士的で◎、少し名残惜しそうに彼女を見つめた。 「もし、気が変わって今夜出ていってしまっても僕は君を恨んだりしない。エリーヌの好きなようにしてくれ」 「わたしはもう自分の屋敷も売ってしまったから、行くところなんてないもの。明日の朝、朝食を一緒に食べましょう」 「ああ。そうしよう。なにか作って待っているよ」 「ありがとう」  正直、エリーヌは疲れはてていた。朝から荷造りをし、荷車をウエディングドレスで引いてこの屋敷に越してきた上に、掃除までした。だからベッドに横たわると、枕に吸い込まれるように眠りについた。  そしてどれくらい経っただろうか。  エリーヌは古い屋敷の床が軋んで目が覚めた。ギィ、ギィという足音はドアの前で止まり、僅かに立ててノブが回る音がした。  ――まさか! リュカ⁈ 禁書なんか読んだから、真に受けたの⁈  エリーヌは慌ててきつく目を閉じた。起きなければ諦めて帰ってくれるかもしれない。たとえ、名前を呼ばれても甘い言葉を囁かれても、まだ神に夫婦となることを誓っていない身、ここで体など許してはならない!  ――死んだふり。死んだふり。  熊にでも出会ったかのようにエリーヌは身動き一つするのを止めた。  ところがだ。  気配はエリーヌのベッドの横に止まったまま動かなかった。セリーヌはだからそっと片目だけ開けてみた。まだカーテンはないから、月明かりが斜めに差し込んでそこに立つ男を照らしていた。リュカとは背丈が違う。もっとがっちりとした大男だった。わし鼻で唇が厚い。見知らぬ男。無表情にこちらを見下ろし、手にはロープがあった。  ――な、なにを……。  エリーヌは状況が分からなかった。もしかしたら、この幽霊屋敷に住む下働きの男なのかもしれない。ここがエリーヌの部屋だとまだ知らなくて入って来てしまった――。  ――そんなわけない!  エリーヌは半身を起こして叫ぼうとした。  が、それより先に男の手がゆっくりと近づき、首を絞められる。両足をばたつかせ、両手でロープを解こうとしたがそれはきつくなるばかりだ。必死に動いたため、ベッドサイドに置かれていた消えたランプが振動で落ちた。  ガシャンという音がして、隣の部屋から物音がした。リュカが目覚めてこちらに来るようだ。エリーヌは僅かな希望が湧いて足をさらにばたつかせた。古いベッドは揺れてミシミシと音を立てる。  ――お願い、助けて、リュカ! 「エリーヌ? 大丈夫?」  しかし、リュカはリュカである。  この状況にあっても、ドアがノックされて、優しい声で声がけがあった。  ――なにが、紳士で◎よ! さっさと助けてよ!  こういう時は扉を蹴り開けてでも中に入るべきなのに、ノックして訊ねるなど馬鹿らしい。エリーヌは渾身の力をもってフットボードを蹴飛ばした。  さすがにその音にリュカはドアを開けた。  エリーヌの首を絞めていた男は、それにはっとして手を離すと、リュカを突き飛ばして廊下へと出て逃げて行く――。 「大丈夫か⁈ エリーヌ!」  リュカがエリーヌを揺すぶった。彼女はげぼげぼと息をし、そして大きく空気を吸い込んだ。リュカが背を撫でてくれたおかげで苦しい呼吸は収まったが、閉められた首の痛みが後から来て、エリーヌはたった今、起きたことに震えた。 「もう少しで殺されるところだったわ……」 「無事でよかった……エリーヌ」  リュカが彼女を抱きしめてくれた。エリーヌは急に怖くなって彼の背に腕を回して震えたまま涙を流す。嗚咽は喉が痛くて出なかった。リュカはそんなエリーヌを優しく包み込み、泣き止むのを待ってくれていた。 「大丈夫か!」 そこに灯りを持ったオノレも騒ぎを聞きつけてやって来たが、賊をとらえることはできなかったのだと口惜しそうする。 「キッチンの壊れた窓から逃げて行きやがった!」 オノレの手には剣があるから、心得はあるのだろう。エリーヌが無事だと知ると剣を腰の鞘に収めて駆けよる。 「大丈夫か?」 「エリーヌ?」  少し泣き止むと、リュカもオノレもエリーヌの顔を覗き込んでいた。そしてリュカは肩を掴んで彼女を真剣な面持ちで見つめた。 「やっぱり、僕は呪われている。僕と一緒にいたら、君にも禍が訪れる。明日の朝、ここを出ていった方がいい」 「…………」  エリーヌは頷きかけた。  こんな恐ろしい目に遭うくらいなら、どこかで家庭教師の職でも得て安穏に暮らした方がいい。家庭教師など、お金にもならないし、男爵令嬢たる名誉も傷つけられる。しかし、それよりも安全な毎日の方が大事なのではないか――。  でも――。  エリーヌは床にロープが落ちているのを見つけると、これがなんの呪いでもなく、人間によって殺されかけたことに気づいた。つまり――呪いなど存在せず、何者かがリュカに危害を加えようとしているというだけの話なのではないか。 「リュカ……」 「うん?」 「これは陰謀よ……」 「…………」 「誰かがあなたを孤立させようとしている。だからこれを呪いなどと言わないで」  エリーヌは静かに言った。  リュカはなにも言わなかったが、彼とて分かっているはずだ。これが呪いなのではなく、何者かが彼を王宮から追放し、この幽霊屋敷でさえ、不幸せに暮らさせようとしていることは。 「リュカ?」  リュカはベッドサイドに座ったまま、エリーヌの両手をきつく握った。 「僕は君になんて謝ったらいいのか分からない。これは全て僕のせいだ。エリーヌは一大決心をして僕のところに来てくれた。それを……なぜ、こんな惨いことをするんだろう……」  オノレが彼の背に言った。 「犯人は分かっている。宮殿のヤツらだ」 「許せない……僕は許せないよ……」  エリーヌは逆にリュカの手を掴んだ。彼は震える瞳でエリーヌを見た。 「呪いの真相を暴きましょう!」 「…………」 「あなたは呪われてなんてない」 「エリーヌ」 「呪われてなんてない。だから、この黒幕を見つけましょう。わたしだって、殺されかけて黙ってなんていられないもの」  このまま放置すれば、また刺客は現れるだろう。ならば、こちらから行動をする必要があるのではないか。七年もの間、引きこもっていたリュカには孤独と陰謀は日常だろうが、外からやって来たエリーヌにはこの状況を受け入れるべきではないと分かっていた。  リュカはしばし黙ったまま何も言わずに、エリーヌの手を握っていたが、息を一度、大きく吸って吐くと低い決意めいた声で言った。 「わかった。やろう、やってみよう。エリーヌ、君のことは僕が守る」 「そうでなくっちゃ!」 「僕は当代一の花嫁をもらったようだね」 「そういうことね」  エリーヌは震えている指先を背中に隠してリュカに片目を瞑って見せた。本当は怖いなど悟られたくなかった。ただ、縁あった人を助けたい。それだけなのだ。
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