2話

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2 「まぁ、なんとかなったわね……」  なんとかなど、なんにもなっていなかったが、ドレスの裾は直され、ジャケットの袖とズボンの丈は直せた。リュカのウエストはベルトを一杯まできつく締めて固定し、エリーヌはこれが新しいニューレトロだという顔を作ることで「なんとかなって」いることにした。 「本当にその恰好で行くのか」  自分は誘われなかったことにほっとしている様子のオノレが心配げにエリーヌに訊ねる。 「もちろんよ!」 「注目の的だろうな……」 「そこが狙いよ」  ウインクをして見せたエリーヌ。招待状の中から選んだのは、屋敷から一番近い、伯爵令嬢の誕生日の宴。オノレがいっそう険しい顔になる。 「そこにするのか」 「なにか問題でも?」 「いや……」 「ここから一番近いもの。帰りはこっそり歩いて帰って来られるわ」  馬車は家を売った僅かなお金で雇うことに決めているが、往復の余裕はない。帰りはパーティーの盛りにこっそりと抜け出せば、「酔い覚まし」だなどと使用人に言い訳すれば歩くことも変には思われないだろう。 「まぁ、なにごとも当たって砕けろって言うからな……」 「そういうことよ」  そこへ着替えたリュカが現れた。綺麗に髪を梳かし、リボンで髪を縛り、無精髭を整えれば、見違えるほどエレガントだ。しかし――ぶかぶかな黒い夜会服はどこか滑稽で、リュカの美しさを損なっていた。エリーヌは、自分が正しいことをしているのか、正直分からなくなって胸が痛んだ。それでもリュカ自身は笑顔だ。 「久しぶりの外出だ」 「嬉しい? それとも怖い?」 「嬉しい。エリーヌが一緒だから……本当はもっと早くにそうするべきだった。そうすれば、エリーヌを煩わせなくて済んだのに」 「わたしのことはいいわ。さあ、行きましょう」  馬車が恐る恐る幽霊屋敷の前に停まり、衛兵たちが信じられないものを見るように口を開けたまま固まった。 「も、もしかして出かけるのか」  中でも黒髭を貯えた恐れ知らずの兵士がエリーヌに声をかける。 「ええ。パーティーにね」 「パーティーに……」  無礼にも衛兵はエリーヌとリュカの恰好を上から下まで眺めてから首を横に振る。 「止めておいた方がいいんじゃないか」 「なぜ? 社交は必須よ」  エリーヌは兵士たちを無視して御者が開けてくれた馬車の中の踏み台に片足を乗せた。リュカが手を貸してくれて中に入ると、香水匂いか、甘い香りが充満していて、少しリッチな気持ちになった。 「久しぶりの馬車だ」  リュカは窓を開けて、夜風に吹かれた。髪が揺れて物憂げに見える。 「リュ――」  名前を呼びかけて、彼は視線を街灯が煌々と焚かれる石畳の通りを見つめたまま、エリーヌの手を取った。 「なにも心配はないよ」  こちらを向き返った時のリュカはいつもの温和な顔で、エリーヌは少し安心した。そして彼は胸ポケットから小さな箱を取り出すと、彼女の前で開けて見せた。 「母の指輪なんだ。結婚する人にあげようと思って金には換えずにずっと取っておいた」 「…………」  赤いルビーの指輪だ。亡き王妃のものとしては少し華奢であるが、ルビーの左右に小さなダイヤモンドの石がつき、若々しいデザインであるので、きっと結婚前につけていた思い入れがあるものに違いなかった。 「可愛い」 「つけてくれるかな?」  ええ。  エリーヌは手袋を嵌めた手を差し出した。リュカは一度、それにキスをしてから、ゆっくりと指に嵌める。 「正式な婚約者として紹介していい? 本当は花嫁だといいたいけど、それはもう少し我慢する」 「ありがとう。嬉しい」  エリーヌはもっと話をしていたかった。カボチャの馬車に乗ったような気分だったからだ。でも馬車は豪邸の前に止まり、御者がドアを開けてくれた。 「あれは――」  驚きを通り超して玄関前で雑談していた紳士淑女たちは絶句してこちらを見た。皆、絹の服に身を包み、ぴったりと体にあったジャケット、ドレスを着ている。リボンどころか、真珠や宝石をドレスに縫い付け、手の込んだレースの袖が美しいが、彼等は場違いなエリーヌたちが幽霊屋敷の住人だということに気づくとさらに言葉を失っていた。 「第一王子殿下だ……」  そして誰かがそう囁くと、まだ玄関を潜っていない者たちは一目散に馬車に戻っていった。エリーヌは言った。 「行きましょう、リュカ」 「あ、ああ」  リュカは少し及び腰だったが、エリーヌは努めて平気な顔をしていた。さもなければ、二人してこの状況に怖じけずいてしまっただろう。  そして玄関ホールに入ると、コートを預かる従者がいたが、コートなどそもそも着ていない。白髭の七十くらいの執事が現れ、二人の恰好に驚きつつ、伯爵家の執事らしい上品さを持って訊ねた。 「失礼ですが、招待状はお持ちですか」  リュカがポケットから白い封筒を手渡す。その宛名を見た途端、老人はままでの礼儀正しさを忘れてリュカを凝視し、そしてもう一度、間違いがないか、宛名を見てから言った。 「で、殿下……」 「リリィ嬢はご機嫌いかがだ? 誕生日とはめでたいね」 「…………」 「大広間はこっちか」 「は……はい……」  案内する様子もないから、リュカはエリーヌの腕を自分の腕に巻き付けると、背を正して歩き出した。すると、中でワルツが聞こえる。楽団がいて、弾いているのだろう。笑い声と軽やかな衣擦れの音もした。  ただ、それもつかの間。  エリーヌたちが広間に入ると、貴族たちの動きが止まる。奇妙な恰好をしていたせいもあるが、それだけで注目を集めたのではない。七年と月日は経ったが、誰も第一王子の顔を忘れてはいなかったのだ。 「で、殿下……」  皆の注目に、部屋の中心にいた人が蹴り出されるようにして前に出た。  リリィ嬢の父親のガゼール伯爵だ。パウンドケーキのような体にボールのような丸顔のこの人はほんの少しだけ口髭を伸ばした顔をこちらに向けた。 「で、殿下……今日はどういったご来訪で……」 「おかしいな。リリィ嬢の誕生日パーティーの招待状を受け取っていたんだけれど。間違えだったのか?」 「…………」  すると、取り巻きだろうか、男性たちに囲まれてちやほやされていた少女がグラスを落とし泣きだした。 「お父さま!」  まるで死神でもやってきたかのような騒ぎだ。彼女の取り巻きたちもあっという間にその場から消えて行く。しかし、ガゼール卿はなんと言えよう。招待状を出したのは間違いないし、娘が泣き叫ぼうが、相手は一応、王子である。帰れとはいえない。 「で、殿下……」  なんとかなだめようとガゼール卿が一歩前に出た時だった。 「兄上」  もう一人の男が人垣から出て来た。若い男だ――年齢は二十歳前後で、どこかリュカに似ている。栗毛色の髪に緑の瞳。六フィートはありそうな背丈に体に合った夜会服は誰よりも素敵に見えた。ただ、少しだけ唇の端をあげているのが嫌みな印象を与える。  ――これがリュカの弟の第二王子、フェミリオ殿下……。 「兄上、そんな恰好で社交の場に出て来て恥ずかしくはないのですか」 「別に恥ずかしいことなどなにもない。僕は引きこもるのは止めようと思って、これからは社交界に頻繁に出て来ることにした」  その言葉に第二王子がエスコートしていた美しいブロンドの巻き毛の少女が鼻で笑った。エリーヌと変わらぬ十六、七くらい。お姫様風のふわりとしたピンクのドレスを着た人物で、青い瞳に潤んだ唇は黙っていれば美しいのに、小馬鹿にした表情は第二王子にそっくりだ。 「あれは誰?」 「ドーク卿の一人娘だ、アラベラだ」  つまり王の代わりに政治を司っている摂政君の娘ということだ。神官も妻子が持てるのがこの国の習わしなので、子どもがいても不思議はないが、エリーヌは会ったことがなかったので驚いた。リリィ嬢の友達なのだろう。オノレはそれを知っていたから「そこにするのか」などと言ったのだ。 アラベラはくいっと顎を上げた。 「殿下、お帰りになったら? あの幽霊屋敷に」 「僕は王宮に戻ろうと思う。父上のことも心配だし」 「陛下のことは、すべてフェミリオ殿下が取りはかっているので心配はご無用ですわ。それより、こんな場所に連れて来られた、その令嬢を可哀想だと思いませんこと? もうお帰りになる時間なのでは?」   アラベラは扇を口にかざして笑った。 エリーヌは気づいた。きっとリュカはこんな風に弟に扱われ、そのために周りからも軽んじられるようになったのではあるまいか。そして追い詰められ、助けてくれる者もなく幽霊屋敷に追いやられ、呪われているなどと言われて引きこもった――。 「わたしは平気よ」  エリーヌは顎をあげて答えた。 「まぁ、どこの令嬢ですの? 呪われた殿下に尽くす、令嬢の鏡ですこと」 「誰でもいいだろう? それより、ワルツの音楽はどうして止まってしまったんだ。皆踊ればいいのに」  しかし、見渡せど、客はない。主役のリリィ嬢すら泣きながら部屋から去ってしまった。 「では、わたくしたちももう行きましょう、フェミリオ殿下」 「ああ。パーティーはお開きのようだからな。では、また、兄上。今度はパーティーではなく、あなたの葬式の時にでも」 「ま! 待ちなさい!」  エリーヌは叫んだが、二人もまた笑いながら広間を後にした。残ったのは、飲みかけのワイングラス、放置された楽器、急いで逃げたのか、ハンカチや扇子が床に落ちたままだった。 「ごめんなさい、こんな風になるとは思っていなかったの。もう少し、パーティーを楽しめると思っていた。少なくとも会話できるくらいには――」  リュカが肩をすくめる。 「僕はこうなることは分かっていたし、こういう結果を望んでいた」 「どういうこと?」 「貴族たちは改めて思い出したんだ。第一王子の僕という存在にね」  エリーヌにはそれがどういう意味か分からなかったが、リュカが手を握ってくれたから、なんの恐れもなくなった。 「僕は負けない。エリーヌのために――」  リュカがエリーヌの掌にキスをした。  その夜、リュカは夕食も食べずに寝てしまった。心配したオノレが眠れぬエリーヌをキッチンに引っ張って成り行きを訊ねた。 「いったい何が起こったんだ?」 「パーティーは行っただけで終わり。第二王子とアラベラ嬢とかいう摂政君さまの娘がわたしたちを馬鹿にした。それだけ」  エリーヌが思っていた計画とは少し違った。人々は恐れるとは思っていたが、リュカは噂のように口が裂けているわけでも目玉が取れてぶら下がっているわけでもない。貴族たちと少しくらいは話ができるかと思っていたのだ。それなのに、完敗と言っていい散々な状況だった。 「アラベラはもともとリュカと結婚したがっていたんだ」 「へぇ?」 「リュカは第一王子で次の王だからな。でも、リュカは嫌がった。まだ子どもだったこともあってアラベラと結婚するなら、アヒルと結婚すると言ったくらいだ」  エリーヌは笑った。たしかにアヒルの方が可愛くていい。あの気位の高そうな令嬢と結婚したら大変なことになりそうになる。 「その言葉にアラベラだけでなく、摂政君も怒った。結局、第二王子のフェミリオと摂政君は手を組んだのさ。アラベラは第二王子の婚約者におさまった」 「じゃ――王太子の座はフェミリオ王子ってわけ?」 「それは分からない。この国は長子相続が原則だ。王も病気とはいえ、リュカを見捨ててはいない。リュカ自身が、自分を忌み嫌う王宮を捨てたというだけだ」 「だから――皆はリュカのことが邪魔なのね?」 「そういうことだろう。何度も刺客にあった」  オノレはパンを一つエリーヌに投げた。彼女はそれを片手で受け取り口に入れた。食べるというより噛み切ると言った方がふさわしい食感だが、パーティーで食べ損ねたエリーヌにはありがたいものだった。 「リュカは王宮に帰ると言っていたわ」 「リュカもついに腹を決めたんだ。エリーヌが来てくれたのはいい機会だったんだ」 「でも、リュカも王宮に帰ったら命を狙われない?」 「狙われるかもしれない。でも、ここにいても死を待つだけだ。なら、打って出るしかない。そうリュカだって気づいたんだ」  エリーヌは頷いた。  そして彼女は状況を理解した。リュカは王宮で、何度も命を狙われただけでなく、大切な人も失った。ならば、ここにいない方がいい――そう思ってこの幽霊屋敷に越してきたというわけだ。呪いなど初めから存在しない。リュカを王太子にしたくない勢力が邪魔をしているだけなのだ。 「許せない!」 「きっと、もうリュカも許しはしないよ。君に危害を加えようとしたのだからね。さあ、お休み、エリーヌ。夜も遅い」 「お休み、オノレ」  二人はキッチンを後にし、エリーヌは月影に照らされた廊下を奥へと向かった。 「お休み、リュカ」  エリーヌな彼の静かな部屋のドアに向かって囁くような声で言った。
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