2話

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2話

2  そして綺麗に剪定された垣根の間の道を進み、巨大な白亜の建物に向かった。エリーヌが聞いたところでは五百を上る部屋があるといい、従者、侍女だけでなく、貴族や神官まで住んでいるという。ちらりと見れば、迷路や薔薇園、温室などもある。怨霊屋敷とは雲泥の差だ。 「第一王子だ!」  誰かが言って、エプロンをした侍女たちがさっと左右に道を空け、侍従の一人は震える手でリュカが渡した帽子を受け取った。エリーヌは高い天井を見上げた。フレスコ画が描かれており、天使が天上世界を指差しながら縦横に飛んでいる。そこに薔薇が舞い、花片がいまにもここにも落ちてきそうだ。初めて来たが、圧倒的に美しい。 「こっちだ、エリーヌ」  リュカは噴水のある中庭を回る廊下を進んだ。しかし、なにか催し物があるのだろうか。貴族たちも大勢いた。昨日と違うのは、そこに摂政君のドーク卿の姿があったことだ。もちろん、娘のアラベラも。 「なんの御用か、リュカ殿下」  リュカの代わりにオノレが低い声で答える。 「まるでここがお前の家のようだな」 「王から部屋を賜って、三年前より、ここで住まっているのでね。それより、リュカ殿下はなんの用で我が家に?」 「殿下に無礼だろう! それにここは王宮だ!」  それほど大きな声ではないが、オノレの声は怒声のように響き渡った。 「オノレ」  リュカが静かな声でオノレの肩に手を置いた。言い足りないとばかりにオノレはリュカを見たが、彼が頷いて見せたのでオノレは黙った。 「ドーク卿。僕は父上に会いに来た」 「陛下は療養が必要です。誰にもお会いになりません」 「七年ぶりに帰ってきた息子にも?」 「陛下は殿下に大変失望されておられます。ご病状が悪くなるといけませんのでお会いするのは難しいかと」  それでもリュカは回廊から庭に一歩、階段を下りた。エリーヌも彼の腕を掴んだままそれに続く。目の前には七十名ほどの貴族の男女と、美しい白い飛沫を上げる噴水があった。 「お父さま、リュカ殿下は危険ですわ」  アラベラが輪の中心で、こちらを指差して言った。 「わたくしとフェミリオ殿下の婚約を邪魔する気なのです」  なるほどとエリーヌは思った。今日のこの中庭での催しは、アラベラとフェミリオの婚約披露パーティーだったのだ。アラベラは明らかに動揺し、父親の腕を揺すぶっている。 「皆下がれ」  まるでこの宮殿の主のようにドーク卿は貴族たちを一喝で追い払った。彼等も呪われ王子と関わりを持ちたくないのだろう。お辞儀をすると、蜘蛛の子を散らすようにすっと消えて行った。  残ったのは幽霊屋敷の三人と、ドーク卿、アラベラ、そしてリュカの弟、フェミリオだ。 フェミリオは呆れた顔で言った。 「呪われ者がなんの用だ」 「呪いを解きにきただけだ」 「呪いを解くことなど、どんな強い神官とてできないとドーク卿も言っている。諦めろ」  フェミリオは、自分の婚約披露に忌まれている兄が現れて不吉だと思っている様子だ。 「帰ってくれ」 「父上に会いに来た。帰るつもりはない」  リュカは冷静に答え、もう一歩階段を下りる。するとアラベラが今度はフェミリオの腕を掴んで懇願した。 「お願い、殿下。あの人を追い払って。お願いよ!」  しかし、フェミリオはただ突っ立って見ているだけでリュカにそれ以上なにも言わなかった。アラベラはまた父親に戻って両手で父親の手を握りしめる。 「前もしてくれたじゃない。皆の前で第一皇子は呪われているって言って。そうすれば、ここはわたくしの家になるの。わたくしが王妃になるのはあともう一歩なのよ、お父さま!」  アラベラ。まだ十八くらいだから思慮がないのは仕方がないとはいえ、あまりにも愚かだ。エリーヌは初めて口を開いた。 「あなたに王妃はふさわしくないわ」 「なんですってっ!」 「利己的で欲深い。それは父親に似ているからかしら?」 アラベラはエリーヌに詰め寄ろうとしたが、フェミリオにとめられる。ドーク卿が代わりに黒く長い絹の上着を引きずってゆっくりと近づいて来た。赤い靴の靴先が黒い裾から時々見え隠れするのは、彼の欲望がちらついているようだった。 「これはなにか分かるかな?」  取り出したのは一枚の紙。 「フェミリオ殿下が王太子になるという閣議で決まったことを示す文章だ。あとはご病気の陛下にサインしていただくだけなのですよ」 「だから?」 「だから、もうここはあなたの居場所ではない」 「…………」 「私の場所なのです」  やはり王家の乗っ取りがドーク卿の目的だったのだ。フェミリオが多少驚き、そして目を見開いてアラベラを見ると、彼女はしなを作った。 「殿下。私たちの子が王になったら素敵だと思いませんか。きっと立派な王になります」  フェミリオの顔から血の気が引くのが見て取れた。 「フェミリオ。どうして僕が呪われていると言われたか知っている?」  フェミリオは石のようになったまま答えなかった。 「あれは七年前、いや、八年前か、幽霊屋敷に移る前のことだ。十二歳の僕はアラベラがドーク卿に言われて父上の紅茶になにかを入れているのを見た。僕は子どもだった。怖くて誰にもいえなかった……それから僕自身も命を狙われ、大切な人が次々に死んだ――」 「嘘、嘘を言わないで。わたくしは陛下に毒なんて入れていないわ」  エリーヌはすかさず言う。 「リュカは『毒』なんて言ってないわ。『なにか』と言っただけじゃない!」 「…………」 「僕は父上に言おうとした。でも、ドーク卿は僕を呪われた子だと皆の前で言った。そして僕の侍女や侍従が次々と死んで――僕は本当に呪われた王子に仕立て上げられたんだ」  リュカはもう一歩階段に下り、ドーク卿は一歩近づいた。 「僕は呪いを解きにやって来た」 「殿下は天の思し召しで呪われているのです。それを解くのは簡単なことではありません」 「さあ、どうだろうか」 「フェミリオ殿下が次の王です。あなたは――幽霊屋敷に戻るか、それとも、それよりももっと冷たく暗い場所に行くかのどちらかでしょう」  フェミリオが慌てた。 「ドーク卿どういうことだ。兄上は――」 「なにも案じることはありません、フェミリオ殿下。私が殿下をお支えします」 「つまり――俺が王となっても摂政するつもりなのか……」 「殿下はお若い。お支えするのは当然かと存じます」  エリーヌは歩みを止めそうになったが、リュカはそのまま階段を下り、中庭に足をつけた。そしてすぐにドーク卿と同じ視線の位置となった。 「お気の毒なリュカ殿下」 「…………」 「父上とお別れすることも叶わないとは――」  そう言ったかと思うと、ドーク卿はリュカの首を掴んだ。暴れたからか、両手で押さえる。エリーヌは慌ててその手を押しやろうと叩いてみたり、掴み振るってみたりしたが、ドーク卿はびくりともしなかった。その顔を見上げれば、殺意が込められ歪んでいて、ぐっと歯を食いしばっている。エリーヌが今まで恐れたものはそれほどないが、こんな恐ろしい目の人は初めてだった。 「リュカ!」  オノレが慌てて剣を抜いたが、どこに隠れていたのか、ドーク卿の手下と思われる兵士たちに捕まって殴られたり蹴られたりしている。エリーヌはフェミリオ見たが、相変わらず彼は動揺し、まったく動くことはなかった。それに比べ、アラベラは父親似なのか、エリーヌの背を強く押した。 「あっ!」  エリーヌはあわや転ぶところで、とっさに噴水の手すりを掴まなかったら、頭を庭石に打っていたかもしれない。彼女は起き上がるためにアラベラの腕を掴んだ。彼女には思わぬことだったらしく、ぐらついたが、辛うじて身を立て直した。  一方、リュカも負けてはいなかった。  いつのまにか、ドーク卿の腕を振り払い、胸を押した。彼はがっしりとした体型だ。細身のリュカとは違う。押されてもそれほど衝撃はなかったらしく、にやりとしたが、リュカは負けずにドーク卿の襟を掴み、噴水の方へと追いやる。 「僕には呪いなどない。そうだろう⁈」 「…………」 「呪われていると偽って僕を王太子にさせまいとした。そうだろう⁈」 「王太子はもうフェミリオ殿下と決まっている。私がそう決めたのだ!」  リュカはドーク卿を冷たく見下ろし顔を拳で殴ろうとしたが、そうはしなかった。ドーク卿が腕で顔を庇おうとして石に躓き、よろめいても、リュカはもうなにもしようとはしなかった。睨み合う二人――。一方、エリーヌはアラベラと髪をひっぱり合っていたから、側に寄ることもできなかった。 「リュカ」 しかし、そこに寝衣の男が現れた。  黒髪の男だ。髪を梳かしてもいない。青白い顔で朦朧とした目をしている。痩せこけ、頬はくぼんでいるほどだ。 「父上……」 「リュカ……」  エリーヌはそれで男がこの国の君主であることを悟った。子どもの頃、パレードで一度だけみたことのある揚々とした雰囲気はもうどこにもなく、歩くのもままならず、手すりに両手を掴まって階段を下ってきた。ドーク卿が先ほどの書類を取り出す。 「陛下。この文章にご承認を」 「…………」 「もうすぐ、お薬の時間でしょう?」  エリーヌはそれを脅しと感じた。薬がなにを意味しているのかは分からないが、ドーク卿はそれによって王が自分に従うのを知っているように見えた。  ところが、王はそんなドーク卿に目もくれずにリュカを両腕で抱きしめると、 「リュカ、戻ってきてくれたのだな」と涙声で言うではないか。 「やっと勇気が出ました、父上」 「こちらの令嬢は――」 「僕の妻となる人です。エリーヌと言って、僕の恩師の令嬢です。僕に勇気をくれた人です」  エリーヌはアラベラを突き飛ばすと、乱れた髪を撫で、ドレスの裾を掴んでお辞儀した。 「おお、おお、それはめでたい」  しかし、その横でドーク卿が憎々しそうに親子の対面を見ていた。 「この書類にサインを」  ドーク卿はペンを王に握らせようとしたが、王はペンを投げ捨て、大理石が引きつめられた中庭をカランと音を立てて転がった。 「薬の時間が迫っていますよ、陛下」  もう一度、にやりとドーク卿が言った。だが、王は笑い飛ばす。 「もう解毒剤などいらぬ。死も怖くはない! リュカが帰って来たのだからな!」  王の声は力強かった。  しかし、ドーク卿はリュカの首根っこを掴むとその頭を噴水の中に突っ込んだ。 「呪われた王子は死ね!」 「止めて!」  両手でもがいて必死に逃げようとリュカはするが、アラベラが父親を助けたので、リュカは二人がかりでは逃げられない。エリーヌはすぐにアラベラを殴った。彼女はそれでも狂気を宿した目で、父親と一緒にリュカを噴水の中に鎮めようとした。 「リュカ!」  リュカはなんとかそれを振りほどくと、ドーク卿を殴る。しかしかわされ、顔ではなく肩に当たった。間髪を入れずに相手はリュカの顔を殴り、彼は口から血を流したが、それを拭うと、リュカはエリーヌが見たこともない闘争心を見せた。 「リュカ、右よ!」  リュカの拳がドーク卿の腹に入ったが、あまり深く入らなかったのか、ドーク卿は一睨みすると、リュカの襟を掴んだ。もみ合った二人――しかし、アラベラはどこまでも執拗でエリーヌを放さずドレスの袖を引き裂いた。エリーヌも勢いよく地面に彼女を押し倒して転がるようにもみ合っていたので、リュカを助けられない。 「リュカ!」  リュカは再び、噴水の水の中に顔を埋められていた。  フェミリオ王子は状況に怯えるばかりで、リュカを罵った時の威勢はもうない。妻となる人、舅となる人に従い、王となるべきか、あるいは仲がいいとは言えない兄を助けるべきか決めあぐねている様子だった。  ところがとっさに動いた人物がいる。病気の王だ。彼は婚約披露のパーティーのため花が飾られた白磁の大きな花瓶を掴むと、躊躇なくドーク卿の後頭部に投げつけたのだ。 花瓶が割れる大きな音がして、それから静けさが訪れたかと思うと、大きなドーク卿の体はバタンと真横に倒れた。鮮血がドーク卿の頭から流れだし、血の海が地面に広がった。 「お父さま!」  アラベラだけが彼に走りより、目を見開いて頭から血を流しているのを見ると、歩みをとめて、俄然と立ち尽くす。息絶えているのは明らかだった。  リュカが水から顔を上げ、咳き込んでから呼吸をすると、エリーヌと目が合った。彼は塗れた髪のまま彼女に走り寄る。 「大丈夫か、エリーヌ?」 「ええ、それより陛下を」  リュカはまずエリーヌを気遣い、次に王に近づくと、もう一度抱きしめた。 「父上、会いたかった……」 「私もだよ、大切な息子よ……苦労をかけた。すまなかった」 「僕こそ……勇気がなくて申し訳ありません」 「勇気がなかったのは私の方だ。そなたではない」  二人は熱い抱擁をし、再会を喜び会う。そして王はエリーヌも抱きしめてくれた。 「息子を支えてくれてありがとう」 「わたしはなにもしていません」 「呪いを解いてくれただろう?」 「呪いなんてそもそも存在しなかったのです」  王は微笑した。 「呪いは存在した。恐れという呪いだ。ドーク卿に立ち向かう勇気を失わせる呪いだ。私もまたその呪いにかかった一人だったのだ」  幽霊屋敷の呪われ王子。  その真相は、実に複雑な政治だったのだ。だが、勇気ほど得がたいものはない。エリーヌはリュカの背中に腕を回して頼もしくなった彼に心惹かれた。それはウエディングドレスを着て荷物を運んだ時のような仕方ない気持ちではなく、心のそこからの愛おしい気持ちからだった。 「エリーヌ。僕の側にいてくれてありがとう」 「好きって言ったら信じてくれる?」 「エリーヌが僕に嘘をついたことがある? それに僕も好きだから、きっとそれは本当に気持ちだろう」 「そうね。わたし、リュカが好き」 「僕もだよ。エリーヌ」  二人はどちらともなく接吻した。
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