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小学校も三学年へ進むと、男女は教室も授業内容を分けられ、別学が基本となる。女子には勉学よりも、裁縫等を中心とした『良妻賢母』となるべく教育が施されるのだ。彼がその秀才ぶりを開花させていく一方で、私は針を刺し刺繍を縫っていた。
その頃私は学校が終わると決まって、家ではなくある教室を目指して歩いた。誰も居なくなった教室で、彼が一人勉強していることを知っていたからだ。
私が前の席に腰を下ろすと、彼はそれを一瞥してすぐに、視線を手にした本へと戻す。
「今日は授業で何をやった?」
「論語の書き取り。そっちは?」
「相変わらず裁縫ばっかり。退屈で頭がおかしくなりそう」
私のぼやきに、彼が答える事はなかった。それでも、彼がめくる本の紙擦れの音を聞いているのが、私は好きだった。
「それ、英語の本?」
「そう。知り合いに貰った」
今考えると、彼はこの頃から帝大を見据えていたのかもしれない。国立の帝国大学は、国が高い金を払って雇った外国人講師による講義が外国語で行われる、国の人材養成機関。小学校では全く触れない外国語だが、帝大に入学するには外国語が出来ないと話にならないのだった。私が男に生まれていても、結局は彼に太刀打ちなど出来なかったのだろうけど。
「善次の住んでるところの周りは、外国人ばかりだって本当?」
「・・まぁね」
「へぇ・・。私はまだ一度も、外国人と話した事が無いの。今度、善次の家に遊びに行ってもいい?」
十歳に満たないこの時の私は、『遊女』や『遊郭』という言葉は知っていても、その意味を正確には理解していなかった。私のこの言葉を聞いて、彼は余程驚いたのか、やっと本から視線を外して顔を上げ、私の方を見た。
「い、いや・・。あそこは・・女は入れない」
「え? でも善次のお母さんは、そこに住んでるんじゃないの?」
「そ、それは・・働いてる女だけだ」
「遊びに行くだけでもだめなの?」
「だめだ! 絶対、黙って着いてなんか来るなよ!あそこは危ないところなんだ」
彼はそう怒って、それから少しもこちらを見なかった。釈然としなかった私は家に戻ってから、よく構ってくれていた家の番頭さんに「遊郭」とはどんなところかと聞いてみたところ、番頭さんは善次と同じような表情をした。
「ゆ、遊郭・・ですか?」
「そう。女は中に入れないって、本当なの?」
「そ、そうですね。お嬢さんの行くような場所じゃ、ありませんね・・」
「男はそこへ行って、何をするの?」
番頭さんはなにやら口篭ったあと、私にこう説明してくれた。
「お嬢さん。遊郭ってところは、口減らしの為に親に売られた娘たちが暮らしている場所です。男達の色々と、身の回りの世話をさせられているんですわ。それはもう、惨い仕事です。間違っても冷やかしで、遊郭なんかに近づいちゃぁいけません」
番頭さんの諭すような真剣な表情が、何か恐ろしいことが行われているのだと、なんとなく理解させてくれた。
善次のお母さんは親に売られたのだろうか。
そんなところで暮らしていて、善次は大丈夫なのだろうか。学校でもあんなに酷い仕打ちを受けているのに、家でも酷いことをされているのではないか。
その日は眠れなかったのを覚えている。
◆◇◆◇◆◇
その日も私は善次に会いに、放課後の教室を訪れていた。しかしその日そこに居たのは彼ではなく、彼をいびっているあの悪餓鬼達だった。黒板に書かれた『外人は出てけ』の文字を見つけて、私は一瞬、目を疑った。
善次は・・いつもこんな事をされているのだろうか。
善次の住んでいるところは惨い仕事をさせるところなのだと、聞いたばかりだったから・・余計に胸が痛んで、私は激昂した。こんな事をされて彼はどんな気持ちなのかと。何故放っておいてあげないのかと。
「何考えてんのよ、あんた達! どうして何もしてない善次が、あんた達にまでここまでされなきゃならないの! いい加減にしなさいよ、この馬鹿!」
「ば、馬鹿とはなんだよ!」
「志乃、なんであんな奴庇うんだよ。あいつは半分外人なんだぞ。福田屋の娘は外人とつるんでるって、お前まで悪く言われるぞ?」
「はぁ? 半分外人だから、なんだっていうのよ。あんた達が言うような、悪いこととは思えないけれど。だって善次は、あんた達の誰よりも頭が良いじゃない」
「な、なんだと!」
「本当のことでしょう。悔しいならこんな卑劣な手を使わないで、勉強で負かしたらいいじゃないの。それが出来ないからそうやって、他のことを持ち出して虐めているんでしょう?」
「志乃・・! 俺たちを馬鹿にするのもいい加減にしろよお前!」
「格好悪いのよ。あんな可哀想な子を、寄ってたかって虐めてさ。苦労してても善次は、弱音なんか吐かずに頑張ってるじゃない。あんた達もそんなくだらない事してる暇があるなら、善次を見習って勉強に精を出したら────」
「おい」
聞き覚えのある声がして、私は振り返った。そこに立っていたのは、やはり善次だった。
だけど彼はその憎々しげな瞳を、いじめっ子達ではなく、私へと向けていて・・
「もう俺に構うなよ。目障りなんだよ」
「・・え?」
「人を見下してそんなに良い気分か。この偽善者」
────私へと向けられた、あまりに冷たい和硝子の瞳。
私が彼を守ってあげなきゃ。
その時のそんな薄っぺらい私の正義感が、彼を傷つけた。
それから放課後のあの教室に、彼の姿は消えてしまった。
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