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な────。
ま・・またとんでもない事を言った、この人・・?
「この娘と・・? また何の冗談を」
「冗談ではありません。彼女とは同じ尋常小学校へ通っていた幼馴染でして。なあ、志乃」
「え?」
今まで一度も見せたことのないような満面の笑顔を向けられて、なんとなく口裏を合わせるよう言われている気がして、私は言葉を詰まらせる。
な・・何を考えてるの善次さん? なんて答えたらいいのかしら、これは・・。
「いいのか井ノ原君。君にとっては家柄を上書きできる、良い機会と思うが」
「ご冗談を、先生。私のこの目の色では、異人の血を引いていることは明確です。隠し立てすれば尚更、出生を暴いて私を攻撃しようとする者が現れる。私の様な者を一門に引き入れたとなれば、足元をすくわれるのは先生の方ですよ」
そして彼はどこか冷たい目の色で────笑った。
「人は皆、出る杭を打ってやろうと木槌を担ぎ待ち構えている。世間とはそういうものですから。私にはこの程度の娘の方が釣り合いが取れて、しっくりくると言う事です」
◇◆◇◆◇◆◇
「どういう事ですか! 突然あの様な嘘をついて!」
席はお開きとなり、工藤先生がお帰りになられた後、私は彼を問い詰めた。憤慨する私に、彼は特別悪びれる事もなく、けろりと言ってのけた。
「断る口実に決まっているだろう」
・・でしょうね・・!
「せめて先に一言相談をして下さるのが、筋というものではありませんか?」
「お前だって奴の誘いを断る、良い口実だったろう?」
「!? き、気づいていたのですか?」
「あれだけこの世の終わりみたいな顔をしていたら、嫌でも気づくだろう」
「そ、それは・・お気遣い頂き、どうも有難うございました」
「奴はお前の様な素人臭い女を泣かせて楽しむ、趣味の悪い好色狸だ」
「し、素人くさ・・?」
「あいつは次の知事選に出馬するのに、金をばら撒きたいのさ。そこで金蔓として白羽の矢を立てたのが、俺だ。家柄を餌にすれば俺が食い付くと踏んでいた様だが、誰があんな狸の養子になどなるか」
彼は吐き捨てるようにそう言った。あんなに低姿勢な善次さんを初めて見たけど、どうやらそれは上辺だけのようだ。
「そ、そうですか・・。お付き合いも大変でいらっしゃるのですね。それでは、私はこれで」
お客様に頼まれたと説明すれば、工藤先生の誘いを無下にした件も許して貰えるだろうか。私が礼をして立ち去ろうとすると、彼の声がそれを止めた。
「お前、俺に言うことがあるんじゃないか」
────言う事・・?
何だろう。まさか未だに彼の事を気にしていたってこと・・勘づかれているだとか?
当惑した私に、彼はどんどん、近づいてきて・・。
(な・・なに?)
じっと私を見つめる、あの透けるような青い瞳。
こんなに近くで彼の顔を見るのは、彼が進学のため東京へ出てしまって以来のことだ。
勝手に頬が熱くなってしまって。私は彼の青い瞳から目を逸らした。
「な、何もありません、言う事なんて」
すると彼は、またしてもこんな、突飛な事を言う。
「本当に俺が拾ってやろうか」
え────・・
それはどういう意味だろう。
『拾ってやる』って・・それって、もしかして────。
心臓が高鳴り、顔全体が熱を帯びる。
だけど彼が次に見せたのは、あの嫌味な笑顔。
「お前が俺に面倒を見て欲しいと乞うならな」
それを聞いたとき────やっとあの時の彼の気持ちを理解できた気がした。
"人を見下していい気分か"
憐れまれるという事は、これ程に屈辱的な事なのか。それが焦がれた相手であれば、尚更。
貧しくとも誇りまで失ってなるものか。
この人の前で情け無い姿など見せたくはない。この先どんな辛酸を舐める事になろうとも、彼の記憶の中でくらいは・・凛としていたいのだ。
「ご心配には及びません。お気持ちのみ、有り難く頂戴致します」
敬礼をし、彼に背を向け私は歩き出した。突然私の前に現れた、初恋の人。もう彼と顔を合わせるのは、今生では最後になるかもしれないけれど。
玄関で見送りに立っていた女将さんと女中達に「井ノ原様がお帰りです」と伝え、その列に加わる。
「ご利用ありがとうございました。またのお越しをお待ちしております」
女中達の一斉の礼を受け、彼は玄関の敷居を跨いだ────・・
・・と、思ったのだが。
ぐいと、腕を引かれた。
「女将。悪いがこいつには店を辞めさせる」
そして彼は私の身体を、まるで荷物の様に抱えあげた────。
「また改めて詫びに来るから、これは貰って帰るぞ」
な・・
女将さん達が仰天している。
だけどその中の誰より仰天していたのは私。
(な・・なんでぇぇ────善次さん!?)
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