其の三: 初恋ノ君

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 な────。  ま・・またとんでもない事を言った、この人・・? 「この娘と・・? また何の冗談を」 「冗談ではありません。彼女とは同じ尋常小学校へ通っていた幼馴染でして。なあ、志乃」 「え?」  今まで一度も見せたことのないような満面の笑顔を向けられて、なんとなく口裏を合わせるよう言われている気がして、私は言葉を詰まらせる。  な・・何を考えてるの善次さん? なんて答えたらいいのかしら、これは・・。 「いいのか井ノ原君。君にとっては家柄を上書きできる、良い機会と思うが」 「ご冗談を、先生。私のこの目の色では、異人の血を引いていることは明確です。隠し立てすれば尚更、出生を暴いて私を攻撃しようとする者が現れる。私の様な者を一門に引き入れたとなれば、足元をすくわれるのは先生の方ですよ」  そして彼はどこか冷たい目の色で────笑った。 「人は皆、出る杭を打ってやろうと木槌を担ぎ待ち構えている。世間とはそういうものですから」 ◇◆◇◆◇◆◇ 「どういう事ですか! 突然あの様な嘘をついて!」  席はお開きとなり、工藤先生がお帰りになられた後、私は彼を問い詰めた。憤慨する私に、彼は特別悪びれる事もなく、けろりと言ってのけた。 「断る口実に決まっているだろう」  ・・でしょうね・・! 「せめて先に一言相談をして下さるのが、筋というものではありませんか?」 「お前だって奴の誘いを断る、良い口実だったろう?」 「!? き、気づいていたのですか?」 「あれだけこの世の終わりみたいな顔をしていたら、嫌でも気づくだろう」 「そ、それは・・お気遣い頂き、どうも有難うございました」 「奴はお前の様な素人臭い女を泣かせて楽しむ、趣味の悪い好色狸だ」 「し、素人くさ・・?」 「あいつは次の知事選に出馬するのに、金をばら撒きたいのさ。そこで金蔓(かねづる)として白羽の矢を立てたのが、俺だ。家柄を餌にすれば俺が食い付くと踏んでいた様だが、誰があんな狸の養子になどなるか」  彼は吐き捨てるようにそう言った。あんなに低姿勢な善次さんを初めて見たけど、どうやらそれは上辺だけのようだ。 「そ、そうですか・・。お付き合いも大変でいらっしゃるのですね。それでは、私はこれで」  お客様に頼まれたと説明すれば、工藤先生の誘いを無下にした件も許して貰えるだろうか。私が礼をして立ち去ろうとすると、彼の声がそれを止めた。 「お前、俺に言うことがあるんじゃないか」  ────言う事・・?  何だろう。まさか未だに彼の事を気にしていたってこと・・勘づかれているだとか?  当惑した私に、彼はどんどん、近づいてきて・・。 (な・・なに?)    じっと私を見つめる、あの透けるような青い瞳。  こんなに近くで彼の顔を見るのは、彼が進学のため東京へ出てしまって以来のことだ。  勝手に頬が熱くなってしまって。私は彼の青い瞳から目を逸らした。 「な、何もありません、言う事なんて」  すると彼は、またしてもこんな、突飛な事を言う。 「本当に俺が拾ってやろうか」  え────・・  それはどういう意味だろう。  『拾ってやる』って・・それって、もしかして────。  心臓が高鳴り、顔全体が熱を帯びる。  だけど彼が次に見せたのは、あの嫌味な笑顔。 「お前が俺に面倒を見て欲しいと乞うならな」  それを聞いたとき────やっとあの時の彼の気持ちを理解できた気がした。 "人を見下していい気分か"    憐れまれるという事は、これ程に屈辱的な事なのか。それが焦がれた相手であれば、尚更。  貧しくとも誇りまで失ってなるものか。  この人の前で情け無い姿など見せたくはない。この先どんな辛酸を舐める事になろうとも、彼の記憶の中でくらいは・・凛としていたいのだ。 「ご心配には及びません。お気持ちのみ、有り難く頂戴致します」  敬礼をし、彼に背を向け私は歩き出した。突然私の前に現れた、初恋の人。もう彼と顔を合わせるのは、今生では最後になるかもしれないけれど。  玄関で見送りに立っていた女将さんと女中達に「井ノ原様がお帰りです」と伝え、その列に加わる。 「ご利用ありがとうございました。またのお越しをお待ちしております」  女中達の一斉の礼を受け、彼は玄関の敷居を跨いだ────・・  ・・と、思ったのだが。  ぐいと、腕を引かれた。   「女将。悪いがこいつには店を辞めさせる」  そして彼は私の身体を、まるで荷物の様に抱えあげた────。 「また改めて詫びに来るから、これは貰って帰るぞ」  な・・  女将さん達が仰天している。  だけどその中の誰より仰天していたのは私。 (な・・なんでぇぇ────善次さん!?)
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