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自動車に乗せられ連れて来られたのは、山手の坂の一画の、大きくて立派な洋館だった。
「お帰りなさいませ」
玄関で出迎えたのは、まだ若い、少年と呼べる程の年の、袴姿の男性だった。彼は善次さんの後ろに立つ私を見て、一瞬だけど驚いた顔をした。
「光太郎。こいつに何処か、部屋をやってくれ」
「かしこまりました」
光太郎と呼ばれた彼の後に付いて行くが、これだけ立派で広い屋敷の割に、人気が全くと言っていい程感じられない。
「あの、他の使用人の皆様は、もうお休みですか」
「住み込みの使用人は私しかおりません。他は通いで、掃除や庭の手入れなどを担当しております。善次様は海外へ出られている事が多いので、抱えの料理人もおらず、普段は私が食事の世話をしております。人を招くときは、仕出しを利用しております」
「そ、そうですか」
「お名前をお聞かせ頂けますか?」
「あ・・志乃と申します」
「私は光太郎と申します。どうぞ宜しくお願いします、志乃様」
「こちらこそ、よろしくお願い致します」
案内された部屋は、ベッドにソファを備えた、洋風の部屋。豊田の家はもちろん和室だったから、異国情緒溢れるこの部屋には、正直なところ心踊るものがある。ベッドに腰掛けると、布団とは異なる独特の弾力が珍しく、二、三飛び上がってみる。
「わ、わあ〜。ベッドって、こういう感触なのね」
その時、コンコンと扉を叩く音がして、私はベッドの上から飛び上がり、慌てて部屋の扉を開けた。
「風呂の用意ができました。ご案内致します」
案内された風呂場は、湯を張った湯船と風呂桶の置かれた、実家と左程変わりないものだったが、渡されたのは浴衣と、ふわふわと柔らかいたおるだった。実家では手拭いを使っていたから、この柔らかな感触には感動を覚えた。
「あの、光太郎さん」
「はい」
「その・・このお屋敷の使用人には、制服のようなものはあるのでしょうか。あるようでしたら、私にも一つ、お貸し頂きたいのですが」
「ございますが、何にお使いに?」
「あ・・私はその、路頭に迷っていたところを見かねた旦那様に拾って頂いた身で・・せめてここに居させて頂く間は、下働きをと思いまして」
それに・・荷物を置いてきてしまったので、着替えが無い。
「・・かしこまりました。お部屋にお持ちしておきます」
光太郎さんはそう言って、風呂場から出て行った。久々にゆっくり浸かった湯船は、とても気持ちが良い。ぼーっと風呂場の天井を眺める。
突然家を追い出され、料亭に流れ付き、善次さんと再会して、何故か彼の家に・・
あまりに急に色んな事が起こり過ぎて、こうして風呂に浸かっていると、何だか悪い夢でも見ていたかの様に思えてくる。
「・・善次さんはどうして、私を拾ってくれたのかしら・・」
やっぱり・・昔の馴染みのあまりの落ちぶれぶりが、惨めで見ていられなかった────?
◇◆◇◆◇◆
当面の宿を得た安心からか、慣れないベッドにも関わらず、久しぶりに良く眠れた。
光太郎さんの用意してくれた制服は、上衣とスカートが一つなぎとなっている、ワンピースと呼ばれる型の黒い洋服だった。白い襟と、フリルの付いた白い腰巻きが付いていて、普段洋服を着た事がない私にとって、このふわりと軽いスカートは、制服でも心踊らせるものがある。廊下の硝子窓に映り込んだ自分の姿を、くるりと回転して確認してみてから、光太郎さんを探して厨房へ向かった。食事の世話をしているのは彼だと言っていたから、きっと朝食の準備をしている筈だ。
「おはようございます、光太郎さん」
「おはようございます」
彼はやはり忙しく包丁を動かしていて、私に気がつくと、素っ気なく挨拶を返しただけだった。
「私も何か、お手伝いします」
「では、味噌汁を作って頂けますか。葱はそこに、味噌は向こうの樽の中にありますので」
「はい、わかりました」
「善次様は海外で外国の食べ物を食べていらっしゃるので、日本におられる間は特別な事が無い限り、日本食をお召し上がりになります」
「はい、わかりました」
豊田の家では家事は使用人がやっていたので、正直料理には自信がない。女学校で習った割烹の授業を思い出しながら、出汁をとり葱を刻む。その間に光太郎さんは、手早く目指しと卵を焼き、糠漬けを切って、盆へと載せていく。善次さんを起こしてくるよう言われて、私は少し戸惑いつつ、彼の自室の扉を叩いた。
「・・・・」
二度程叩き声もかけたが、出てくる気配が無い。恐る恐る、扉を開け中を覗いてみた。
「・・善次さん・・」
それでも中から返事はない。
「・・入りますよ・・」
何か後ろめたい事をしている悪党のように、部屋の左端に置かれたベッドの方へ、そろりと足を踏み入れる。そしてそこに、布団に包まる彼の姿はあった。私はそれを一目確認すると、くるりとそれに背を向ける。
ね・・寝ている。
布団で眠る善次さん。浴衣はだけてるし。なんて色を感じる、耽美な寝姿なんでしょう。彼のこんな姿を盗み見て胸を高鳴らせるとか、なんだかいけない事をしているみたいで、思わず背を向けてしまった。
「落ち着くのよ志乃。これは仕事よ。光太郎さんに言われた仕事。決して助平な気持ちで忍び込んだ訳ではないわ・・」
「何を一人でぶつぶつ言ってる」
後ろでした声に仰天して、飛び上がって振り向いた。するとそこには、ベッドから起き上がり、胸元をはだけさせた善次さんが・・
(はわわわわ! 乱れてる!!)
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