其の四:冷たくて優しい人

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 自動車はとても高価な物だ。街には馬車に代わってタクシーが増えてきていたけど、自家用で持っている人はほとんど居ないだろう。海を見下ろす山手の坂をあっという間に降っていくと、遠くに見えていた海は、五分とたたずに間近に迫ってきている。  彼の運転する自動車の助手席に乗せられて、私はあまりの緊張で身を強張らせていた。これ以上彼の機嫌を損ねたくない私にとって、二人きりの空間は最早、試練とも言うべき苦行だ。恐ろしくてほとんど言葉を発せられぬまま、車はどうやら目的地に着いた様だった。 「降りるぞ」  彼が車を停めたのは、若かりし頃一緒に寄席を見に行った、伊勢佐木町に設けられた駐車場だった。 (あ・・なんかまた、嫌な記憶が・・)  過去を思い出し自己嫌悪に苛まれていると、彼は一つの店の暖簾を潜った。 (ここ・・呉服屋?)  案の定、店の中には棚に所狭しと反物が並べられていた。『福田屋』に比べると店の大きさはかなり小さく、どちらかというと綿や麻などを使った、安価な着物を中心に扱っているようだ。 「買ってやるから選べよ」  ・・え?  唖然として彼を見た。 「あ・・でも、流石にそこまでして頂くわけには・・」 「碌に着替えも持っていないのに?」 「・・・・」  ば、ばれてるか、そりゃ・・。 「あ、あはは・・」  引き攣った苦笑いを向けると、彼はまたあの人を小馬鹿にしたような薄ら笑いで、こんな嫌味を言った。 「福田屋の上等な着物じゃないと着られないと言うなら、連れて行ってやるが?」  ものすごい意地悪・・!  私は青ざめた。この人なら本当に福田屋の周りを彷徨かせるくらいさせそうだ・・。 「け、結構です! では、お言葉に甘えて」  買って貰うからにはなるべく安価な、綿織物を・・と、普段なら選ぶところなのだけど。 "あまり見くびるなよ"  あまり下級のものばかり選ぶと、また機嫌を損ねてしまうかもしれない。 「あの・・その銘仙(めいせん)の反物を見せて下さい」  善次さんは本当に気難しい人だわ。  あんなに意地悪を言ったかと思えば、結局はこうして気遣って下さる。  私は嫌われている筈なのに。  この厚意を、私はどう捉えたらいいのだろう・・?  注文を終えて、店を出た。店の連なる表通りを歩いていると、そこに色鮮やかな洋服を飾った、洋服店を見つけた。  明るい水色や橙色を使った水玉模様の、紺地のワンピース。和服ではなかなか見られない力強い色味と、大胆な柄。つい目が追ってしまっていた。  呉服屋の女将が洋服を着る訳にはいかない。だから洋服を見に行ったことは無い。綾はよく色鮮やかな洋服を着て、街へ繰り出していたけれど・・。 「欲しいのか?」 「え?」  びっくりして振り向くと、そこに待ち受けていた青い瞳に、視線を絡め取られてしまう。  真っ赤になった。内心を見透かされたみたいで。 「ち、ちが・・」  違います、そう否定しようとした。  だけど彼は────それに構わず私の手を引いた。
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