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自動車はとても高価な物だ。街には馬車に代わってタクシーが増えてきていたけど、自家用で持っている人はほとんど居ないだろう。海を見下ろす山手の坂をあっという間に降っていくと、遠くに見えていた海は、五分とたたずに間近に迫ってきている。
彼の運転する自動車の助手席に乗せられて、私はあまりの緊張で身を強張らせていた。これ以上彼の機嫌を損ねたくない私にとって、二人きりの空間は最早、試練とも言うべき苦行だ。恐ろしくてほとんど言葉を発せられぬまま、車はどうやら目的地に着いた様だった。
「降りるぞ」
彼が車を停めたのは、若かりし頃一緒に寄席を見に行った、伊勢佐木町に設けられた駐車場だった。
(あ・・なんかまた、嫌な記憶が・・)
過去を思い出し自己嫌悪に苛まれていると、彼は一つの店の暖簾を潜った。
(ここ・・呉服屋?)
案の定、店の中には棚に所狭しと反物が並べられていた。『福田屋』に比べると店の大きさはかなり小さく、どちらかというと綿や麻などを使った、安価な着物を中心に扱っているようだ。
「買ってやるから選べよ」
・・え?
唖然として彼を見た。
「あ・・でも、流石にそこまでして頂くわけには・・」
「碌に着替えも持っていないのに?」
「・・・・」
ば、ばれてるか、そりゃ・・。
「あ、あはは・・」
引き攣った苦笑いを向けると、彼はまたあの人を小馬鹿にしたような薄ら笑いで、こんな嫌味を言った。
「福田屋の上等な着物じゃないと着られないと言うなら、連れて行ってやるが?」
ものすごい意地悪・・!
私は青ざめた。この人なら本当に福田屋の周りを彷徨かせるくらいさせそうだ・・。
「け、結構です! では、お言葉に甘えて」
買って貰うからにはなるべく安価な、綿織物を・・と、普段なら選ぶところなのだけど。
"あまり見くびるなよ"
あまり下級のものばかり選ぶと、また機嫌を損ねてしまうかもしれない。
「あの・・その銘仙の反物を見せて下さい」
善次さんは本当に気難しい人だわ。
あんなに意地悪を言ったかと思えば、結局はこうして気遣って下さる。
私は嫌われている筈なのに。
この厚意を、私はどう捉えたらいいのだろう・・?
注文を終えて、店を出た。店の連なる表通りを歩いていると、そこに色鮮やかな洋服を飾った、洋服店を見つけた。
明るい水色や橙色を使った水玉模様の、紺地のワンピース。和服ではなかなか見られない力強い色味と、大胆な柄。つい目が追ってしまっていた。
呉服屋の女将が洋服を着る訳にはいかない。だから洋服を見に行ったことは無い。綾はよく色鮮やかな洋服を着て、街へ繰り出していたけれど・・。
「欲しいのか?」
「え?」
びっくりして振り向くと、そこに待ち受けていた青い瞳に、視線を絡め取られてしまう。
真っ赤になった。内心を見透かされたみたいで。
「ち、ちが・・」
違います、そう否定しようとした。
だけど彼は────それに構わず私の手を引いた。
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