其の四:冷たくて優しい人

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"俺の妻として"  その言葉に反応して、全身が一気に熱を帯びる。  な、なにそれ・・それって、どういう・・ 「この間の古狸もそうだが、俺の金目当ての縁談の勧めが後を絶たなくてな。いい加減断るのも面倒になってきた。一度妻が居るとでも紹介しておけば、皆諦めるだろうよ」  ────え・・? 「あ・・そう・・ですか」  つまり私は、煩わしい縁談を避けるための盾、というわけ・・。    そりゃそうだ。初めから分かっていることよ。こんな年増の傷モノを、いくら昔のよしみだと言ったって、本気で妻になんか迎えるわけが無いじゃないの。  心の中で必死で自分に言い聞かせた。  だけどまるで肩に乗る空気の重みが変わったのではないかというほどの焦燥感が・・自分がどれだけ期待していたのかという本音を、露呈している様で・・。  もう二度とあらぬ期待をしてはならない。  彼の一言一言にいちいち舞い上がったり、こんなに落胆したりしていたら・・多分そのうち、私の心は壊れてしまう。 ◇◆◇◆◇◆◇  横濱大桟橋近くに位置する造船所にやって来た私達。海沿いに作られた山下公園とは目と鼻の先で、ここからもその姿を臨むことが出来る。山下公園近くで『海運王』を目にしたという噂を度々聞くのは、一般車両を停める駐車場が工業地帯の入り口に設けられており、山下公園からほど近い為だったのだろう。   「うわぁ・・大きいですねぇ・・」    上を見上げても視界に収まりきらない程の大きな船に、私は思わずあんぐりと口を開けた。これ程に大きなものを、一体どうやって作っているのだろう。向こうの方を覗くと、そこでは埠頭に設置されたクレーンが、大きな鉄板を吊り下げて、豪壮としてゆっくりと動いているのが見えて、私は目を輝かせた。 「あれはどうやって動かしているのですか?」 「クレーンか? 『油圧の原理』というものを利用しているらしい。空気中では物を上へ持ち上げる際には重力がかかるが、液体の中での圧力は上部も下部も一定なのだが」 「なるほど。確かに、井戸から水を汲み上げるとき、桶が水から出ると急に重みを感じますね」 「荷を持ち上げる鉄管の中に油を満たすことで圧力を一定にし、地上に繋いだ細い管を小さい負荷で操作できる様に工夫しているらしい。・・楽しいか? こんな話」 「ええ、とても」  興奮に頬を上気させてそう頷くと、彼は呆れたような視線を向けた。 「相変わらずお前は変わった女だ。好きなだけ見て回るといい。機械には勝手に触るなよ」  彼が重油で汚れた作業着を来た職員らと、書類を手に難しい話をしている間、私は造船所内をうろうろとしていた。見た事もない大きなタンクから繋がる管。赤や緑の豆電球の付いた操作盤は何の機械だろう。外国語は女学校のときに勉強していたが、操作版に書かれた文字の意味は理解することが出来なかった。おそらくは英語ではなく、仏語か何かで書かれているのではないだろうか。向こうの方では、荷物をいっぱいに背負った箱形の車が、歩くのと変わらぬ速度で埠頭から荷物を運んでくる。 「この船は何処へ売りに出すのですか?」 「これは、英国だな」 「お幾らくらいするのでしょう」 「まぁ、まず百万は下らない」  福田屋の番頭達の月の給金が三十円とか四十円とかいう世界だ。百万という桁違いの金額に、途方もない思いで、私は海の向こうの世界へと想像を巡らせる。 「今の船の売り先はほとんど西洋諸国だ。向こうでは今戦争が起こっていて、現地で品薄になっているものを、この国や支那から調達している。船だけではなく、今の好景気を紐解けばその原因は戦争に繋がっている」 「そうなんですね。勉強になります」 「・・まあ、始まりがあるなら、終わりもあると言うことだ」  彼は海の向こうを眺めながら、そう言った。私の頭の中では夢物語の想像も、彼には具体的な映像として頭に浮かんでいるのだろう。私は彼の隣で、彼の瞳と同じ青色以外は何も見えない海の向こうを、じっと見つめた。 「広い世界で生きれて羨ましい・・」  ふと溢れた本音。  もしも私が男に生まれていたならば、私もこの海の向こうの世界へ、足を踏み出すことも可能だったのだろうか。  そんな想像を今まで、何度も・・何度も。 「今度お前も一緒に行くか?」 「え・・?」  あまりにも思いがけない言葉に。  遠慮とか、女は控えめにとか、植え付けられたそんな体面は何処かへ飛んで行ってしまっていて。 「よろしいのでございますか!?」  世界が急に色付いて見えた。天にも昇る気分とはこういう気持ちを言うのだろうか。胸は高鳴り、頬は熱を帯びて、こんな子供のように心が躍るのは、一体いつぶりの事だったのだろう。  いつかこの国を出て、海の向こうの広い世界を見てみたい。叶わぬと分かっていながら、夢見ずにはいられなかった。  そんな私の様子を見て、善次さんは微笑を浮かべた。意地悪そうな笑みではなく。 「ただ、戦争が終わってからな。一般人が巻き込まれぬという保証など何処にも無い」  いつだって構わない。  ただ一つ懸念があるならば、その時に私は貴方の近くに居られるのかという事。    居てもいいって・・事なんですか?  そんな風に取るのは、都合が良すぎますか? 善次さん────・・  先程、二度と期待してはならぬと、あれほどに言い聞かせた癖に。  もう期待してしまっていた。  またすぐに傷付くのに。どうして分からなかったのだろう。
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