其の五:恋に焦がれて

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 横浜ブライトン・ホテルは本町通の元町寄り、横浜港の海を臨む通沿いに作られた洋風建築のホテルだ。裏手には外国人が多く居住している山手を背負い、外国人の利用を強く意識して作られているのだろう、舞踏会用の大ホールも設けられており、日々豪華な宴が繰り広げられている。レストランで振る舞われる本格的な洋食のフルコースはまだ日本では珍しく、全国から日本人の美食家達も訪れているという。 「初めて? 近いのに来たことないのか?」  建物の中へ入るなり、きょろきょろと辺りを見回す私を不審に思ったのか、善次さんはそう聞いた。このホテルは私達が生まれた時には既に建てられていたし、豊田は落ち目とはいえ名家ではあるので、食事くらい当然に行っていると思っていたらしい。  お父様や尚弥さんは付き合いがあるから当然、よく足を運んでいたけれど・・私とお母様は基本、お店の切り盛りがあったから、それに同行する事は無かった。店には住み込みの従業員が多く居たし、そうそう家を開ける訳には行かなかったから。 "お父様、そろそろまたブライトンホテルにでも連れて行って下さいな。私あそこのハヤシライス、昔から大好物なのよね!"  ・・綾は昔からよく、お父様に連れて行って貰っていたみたいだけど・・。 「・・仕事がありましたもので・・」  二階にあるレストランの中へ入ると、まず目に飛び込んできたのは、外にいるのではないかと錯覚するほどに大きな硝子窓。黄昏の空の紅を映した海には、小さくなった船が幾つか、夕日の前を行き来している。食事をしながら横浜の海の風景を楽しめるよう出来ているみたいだ。日本の会席では外から見えない個室で楽しむのが一般的なので、この開放感には少し圧倒された。  私は善次さんが料亭から回収して来てくれた御召(おめし)の着物を着ていたのだが、周囲を見回すと同じく和服を着た女性が多く見られ、白い布のかけられた円卓を囲んでいるのは半分以上日本人客の様に見える。卓の上にはナイフ・フォークと呼ばれる西洋の銀食器とは別に、お箸もちゃんと用意されていた。  しかし私の視線は既に、別のものに釘付けとなっていた。  目の前に出された大きな白い皿の上には、彩り鮮やかな一口程の大きさの料理が幾つも並べられ、淵には赤と緑の、これまた鮮やかな色の調味液が、まるで絵画の様に模様を描いている。おそらく日本の会席料理でいう、先付というところなのだろう。きらきらとして花の様に美しい皿に、私は目を輝かせた。 「わぁ〜・・美しいですね」 「そうだな」 「食べる順番とかはあるのでしょうか?」 「特にない。好きなやつから食え」 「お、お箸で食べても、よろしいので?」 「用意してあるのだから、問題ないだろう」  意を決して、白いものを桃色の膜で包んだ何かを口へと運ぶ。  ん・・何かしらこのむにゅむにゅとした食感は・・弾力はあるけど、餅ほどではないわね・・この桃色の膜、お肉の様な味がするけど、当たっているかしら・・?   何だろう。食べても全然、何が入っていたのか分からないわ。とりあえず美味しいという事しか。さっきのお店の人の説明は緊張でほとんど頭に入らなかったけど、もう少しよく聞いておくんだった。次のやつを食べてみましょう。ん・・? こっちは恐らく、魚ね。この上に乗っているさくさくと軽い触感のものは、一体何の食べ物なのかしら・・? やっぱり全然分からない。  分からないながらも一つ一つを噛み締めていると、スーツを着た給仕の男性が、次のお料理を手にやって来た。 「じゃがいものポタージュでございます」  洋風のカップに入った、白く滑らかな液体。  じゃがいも・・? 今絶対に、じゃがいもって言ったわよね。芋が、こんなに見事な液状に・・?  一緒に置かれた匙ですくい、口の中へ持っていくと、さらりと口内に広がったのは、今まで全く経験した事のない濃厚な味わい・・  あまりの美味しさに、思わず頬に手を当てた。 (うわぁぁ・・。すっごく美味しいぃぃ。なんなのこれぇ・・) 「ぷっ」    我に返って、声のした方へ視線を向けた。  彼は笑っていた。口元に手を当て、大笑いしたいのを堪えているみたいに。 「あははっ・・悪い、あんまり目を白黒させているから」  私はその彼の様子に、釘付けになった。  善次さんが────笑ってる。  意地悪な笑みじゃなくて・・本気で。  私が滑稽だったんだろう。でもそんな羞恥心より、彼が無邪気に笑っていることへの喜びの方が、遥かに優ってしまっていて。 「そんなに美味かったか。お前は分かりやすいな」 「はい。美味しくてびっくりしました」 「そうか。連れて来た甲斐があった」  彼は穏やかな笑顔で、自分も匙で『ポタージュ』をすくった。  胸が────締め付けられる。  皆は大成金となった貴方を安直に羨んでいるけれど。  ずっと辛い思いをしてきた貴方を知っているから。どれほどの苦難を乗り越えてきたのかを知っているから。  ただ貴方が本気で笑ってくれただけで・・泣きたくなるほど嬉しい。 ============ スター特典追加しました。スター25以上と条件厳しいですが、サポーターの方優遇という趣旨なので、ご理解のほど宜しくお願いします🙇 ソラソラさん、無理してスターギフトを送って頂かなくても、いつも毎日欠かさずスターを送って頂き、お気持ちは十分届いております😊あと数日スターを送って頂きましたら特典も読めますので、もう少しお待ちくださいね。
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