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我が豊田家は代々呉服店「福田屋」と貸金業を営んできた商家であり、江戸の世においてその隆盛を極める。しかし明治期に入ると国の政策により金貸は銀行に限るものとされ、また士族の帯刀を禁じ洋装が推奨される事となった。先見の明のあった祖父は横濱港増築の際、拠点をこの横濱市の桜木町本町通へと移し、呉服店の経営に加え、生糸の製糸工場を構えた。生糸は西洋諸国との貿易の主要品目の一つであり、需要は増加の一途を辿り、製糸業の収支はすこぶる好調である。しかし一方の呉服業の売上は年々下がるのみだ。外国人の多いこの土地において、洋装化がより顕著となるのは仕方がない事なのかもしれない。
私は部屋の座卓に広げた帳面を睨み、一人顔を顰める。
「収支だけを見れば手を引くのが利、なのだけれど・・」
豊田の源流とも言える伝統深い呉服業を、自分の代で畳んでしまってよいものなのか・・それに染めや仕立てに柄絵師、先代から勤めてくれている職人たちは仕事にあぶれる事になる。とても自分一人では決めきれず、私は卓から立ち上がる。
「尚弥さん、少し相談事があるのだけれど・・」
私が声をかけると、夫の尚弥はあからさまに面倒だという顔をした。
「なんだ志乃、後にしてくれ。表に車を待たせてあるんだ」
見れば夫は『スーツ』に『ハット』と他所行きの体だ。おそらくはまた、懇意にしている県議の花村先生か、華族の小早川男爵の太鼓持ちで、芸者遊びといったところだろう。和装で紬を着ているときは、学生時代の同期らと飲み歩いていたりする。
「そうですか。いってらっしゃいませ」
玄関で私が頭を下げると、彼は頷いて慌ただしく外へと出て行ってしまった。よくよく考えれば、夫に意見を求めたところで、帳面をよく見た事すらない彼から、妙案など出てくる筈もない。
(・・仕方のないことよね。お母様だって、同じ様にお父様を送り出していたもの)
商いを上手くやりくりする為には地元の名士らと密に付き合うこと、というのは祖父の代からの常。しかし遊び歩いた結果、仕事の儲け話をしっかり持ち帰ってきていた祖父とは違い、何の良い話も持って来ないのには疑問を感じるが。せめて着物の数着でも売ってきてくれると有難いのだが。
「・・行商にでも行こう・・」
紅葉を思わせる緋や秋空の様な葡萄色に、上品で繊細な小紋を施した御召縮緬は、これからの秋の季節にぴったりな逸品。自社工場の生糸を使い経験豊富な染師が手掛けた絹織物の品質は、神奈川一と自信を持っている。お勧めの反物を風呂敷に包み抱えると、そこへ声をかけて来たのは義母の幸子と異母妹の綾であった。
「志乃さん。ちょっと話があるのだけれど」
「なんでしょうか、お義母様。行商へ行くところなので、手短にお願いします」
「少しお金が足りないの。融通して貰えるかしら」
私は溜息をついた。
「またですか。先日お渡しした分は、一体どこへ消えたのです?」
「綾にダンスを習わせるのに払ったのよ。外交官や華族の皆様は夜会でダンスを踊るでしょう。良い嫁ぎ先を見つけるには人気のお稽古らしいわよ」
私はまた溜息をついた。異母妹の綾は今年で二十歳になるが碌に仕事も手伝わず、琴に茶道にお華とお稽古ごとに通い詰めている。義母はというと金を渡せば渡しただけ、色石のついた指輪やら新発売の化粧道具やらと、あっという間に使ってしまい、残しておくという事が出来ない人だ。正直金がかかって仕方がない。容姿はすこぶる愛らしい妹には、早く良い相手が見つかって母親もろとも嫁に出てくれると私としても助かるというのが正直な話ではあるが、どうも高望みが過ぎるようで中々決まらない。
「支払いが済んだなら、それでいいでしょう。うちも呉服の売れ行きが下火で大変なのだと、何度言ったら分かるのです? 今月はもう大人しくしていて下さい」
冷たい視線を向け、二人を置き去りに廊下を進むと、後ろから妹の悪態が聞こえた。
「あの冷たい言い草、本当になんて意地悪なお姉様かしら。二言目には金金、お父様が生きていてくれたらこんな風に虐められずに済んだのに。あーあ、また『あいすくりん』たべたかったのになぁ」
自分で意図せずとも僅かに溜息が漏れ出る。『あいすくりん』は冷たくて甘く蕩ける、夢の様に美味しい食べ物だと話題ではあるが、とても高価で知られている。あの子はよくお父様におねだりして連れて行ってもらっていたようだけれど・・私はまだ一度も食べたことがない。
────母の死後、お父様は長年の愛人であった義母・幸子を後妻とし、隠し子である綾を認知した。私が十八、綾が十のときだ。長年日陰者にさせてしまった負目からか、父は義母と妹には滅法甘かった。実際のところ義母は女将の座を狙っていた様だが、父は「後継ぎは志乃」という事だけは譲らなかった。私は二十三のときに許嫁であった遠縁の尚弥を婿養子に迎え、尚弥は「福田屋」の若旦那、私は若女将となった。
しかし昨年、その父が亡くなってからというもの、義母と異母妹の浪費と我儘は酷さを増すばかり。父から家督を相続した入婿の尚弥は、自分の浪費を棚に上げるのが忍びなかったのか、「放っておけ」の一点張りで、全く頼りにはならない。
「はぁ・・」
最近では溜息ばかりついている気がする。
そればかりか────たまにどうしようもなく、大声で叫びだしたくなる。
そんなとき私は、まるで念仏のようにこう唱える。女学校で嫌と言うほど叩き込まれた、教科書の一文・・
「良き妻たるもの、質素倹約・貞淑に努め、家の為に尽くすべし」
こんなのはきっと私だけではない。女学校で習った裁縫・割烹・書道・華道・音楽・・それらは全て家を盛り立て夫を楽しませる為のもの。かつての学友たちとて今頃は『良妻賢母』の名の下に、私と同じように夫と家の為に尽くしているはずなのだから。
◆◇◆◇◆◇
「これからの肌寒くなる季節、この色づく紅葉を思わせる緋の着物は、大変華やかで人気のお色味でございますわ。武田様には昨年、鼠色のお着物を買って頂きましたが、また違った華やかなお色味で、きっとお気に召して頂けると思います」
武田様は元士族の名家で、江戸時代から付き合いのあるお得意様。奥様へ緋の反物を広げたが、しかし奥様の反応はあまり良いものではなかった。
「そうねぇ。でも御召を着る機会は、近頃は少なくなったもんでねぇ。今の若い娘の流行は、やはり洋装でしょう。私はどうも慣れないけど、娘なんかは洋服を着るのを楽しみにしているみたいでね」
武田様のご自宅を出た私は、売れない反物を手にとぼとぼと通りを歩いていた。私が幼い頃と比べ、この街もだいぶ様変わりした。この本町通り沿いには背の高い洋館がずらりと立ち並び、近くにあるはずの海は、建物と建物の間の切れ目から、たまにその顔を覗かせるのみ。道を行き交うのは専ら馬車だったはずが、最近は自動車も多くみられる。洋装が推奨されていた男性と比べて、洋服を着て歩いている女性は決まって外国人であったのが、最近では日本人だったりもする。洋服を取り扱うお店がちらほら増えてきたから、憧れを募らせる者も少なくはないのだろう。諸行無常とはよく言ったもの、移り行く街並みを、ぼうと眺めていたそのとき、こんな噂話が耳に入ってきた。
「それでね、この間山下公園を歩いていたら、いらっしゃったのよ。あの『海運王』が!」
「本当に本人なの? 確かにあそこから造船所はすぐ側ではあるけれど」
「絶対にそうよ。周りもそう言っていたし、それに噂通り、青い瞳をしていらっしゃるのよ!」
「外国人ではなくて?」
「いいえ、あれは間違いなく、面立ちは日本人よ。噂の通り、とんでもない色男だったわ。あれでこの横濱では一二を争うお金持ちだなんて、神様って不公平よねぇ」
・・どうして嫌でも耳についてしまうのだろう。
海運王────井ノ原善次は、若くして貿易・造船業で大成功を収めた、横濱を代表する大成金。
政財界の大物の多くを輩出しているという、全国八か所にある官立高等学校『ナンバースクール』に続き『帝国大学』を卒業した、超精鋭の逸材────。
「・・随分と差が開いちゃったな・・」
また自然と、溜息が漏れ出た。
他家を回る気持ちを削がれた私は、どこか暗い気持ちのまま家へと戻ってきた。しかしそこで私に追い討ちをかけたのは────・・
「あっ・・あんっ。尚弥さんっ・・」
恐ろしい気持ちがした。
出かけた筈の夫の名前を呼んだこの声は・・よく知っている声。
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