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醒めない夢などない。
夢のような一時にもやがて終わりはやってくる。
「あの、本当にありがとうございました。一生の思い出です」
「何を大袈裟な。近いし、気に入ったならまた来ればいいだろう」
「あ、はい・・でも、ご馳走になってばかりでは、申し訳ないですし」
「気にするな。お前の阿保面を見るのは中々笑える」
「まっ・・またそんな、意地の悪いことを」
今日の彼は機嫌が良い。
もしかしてこれって・・本当にデエトだったのかしら。
「どうして私を連れて来て下さったのですか?」
そんなこと怖くて聞けない。もう何度も落胆させられているから。
なのに気になって仕方がない。彼が私のことを、どう思っているのか・・。
高い天井に豪華な灯籠草の吊るされた玄関広間を抜けて、もうすっかり日の落ちた外へと出ると、灯りの付いた店の立ち並ぶ本町通には、まだ人が多く往来している。そして私は、ふとある事に気がついた。
(あ。そういえば、ここってすぐ近くに・・)
「あの、すみません善次さん。少しだけ寄りたいところがあるのですが」
彼が了解してくれたので、私はこのホテルの数軒先にある建物の一階にある店を訪れた。以前私がお世話になっていた、職業紹介所である。
「すみません、新しく良い職安が出ていないか、確認を・・」
だけどその看板を見た彼は────私がそうと分かるくらいに、不機嫌に顔を歪めた。
「・・好きにしろよ。もう俺は帰る」
また何か機嫌を損ねたと悟った。踵を返して立ち去ろうとする彼の背中を、私は咄嗟に追いかけた。
「待って・・善次さん!」
せっかく今日はいつになく良い感じだったのに・・また彼を怒らせてしまった。彼の背中の裾を掴み必死に追い縋った私を、彼は振り返るなりこう怒鳴り飛ばした。
「そんなに働きたけりゃ、もう勝手にしろ! 女に出来る仕事なんかな、たかがしれてるんだよ。低賃金で奴隷のように働くか、男共の喰い物になるか・・あんな目に遭ってまだ分かんないのかよ、この世間知らず!!」
そんなの────・・
そりゃ世間知らずだけど、でもそんなの、私にだってもう分かってるわよ。
女に学は必要ない。勉強なんかしたって道なんか用意されていない。女は愛嬌を振りまいて、男の機嫌を取る事でしか生きてなんか行けないんだって。
だけど・・
「善次さんの成功ぶりは私だって知ってます。私一人の生活を助ける事くらい、貴方にとって何てことないことだっていうのも、ちゃんと分かってます」
だけど私は────どうしても綾のようには生きれない。
「決して貴方をみくびっている訳ではありません。だけど私は・・どうしても許せないのです。昔のよしみでかけて頂いた情けの上にのさばって、何の努力もせずにいるのは。何も出来ないままの不甲斐ない自分が」
悔しくて。
着物の裾をぎゅうと握りしめた。
貴方はあれだけの逆境を乗り越えて成功した。それに比べて私は、ただ一つ守ると決めたものすら奪われて、何もできずに彷徨うばかり。
あまりにも惨めじゃないの・・。
「・・志乃。俺は別に情けをかけた訳じゃ・・」
彼が何かを言いかけた、その時だった。
「────女将さん?」
聞き覚えのある声に呼び止められて、私は後ろを振り返った。
そこに居たのは坂下という、福田屋で生糸の染めをやっていた職人の男だった。
「坂下・・」
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