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「矢島と森山はもう居ません。私も身の振り方を考えようと、紹介所に来たんです。年のいった職人達はもう他を探すのは無理だからと、途方に暮れていますけどね」
坂下は私の五つ上の三十三才で、十四才の時に奉公に来た、住み込みの染め職人だ。三十のときにやっと一人前になったばかりだったはずだった。坂下は今の福田屋と製糸工場の内情を赤裸々に語った。
「女将さんが居なくなってからというもの、酷いものです。着物の受注が少ないからと、職人達は手の空いた時には製糸工場を手伝う様に言われ、その事を理由に減給されました。工場の方でも問題が多くて。女将さんは現場の状況に合わせて納期を調整してくれていたのに、何も考えずに仕事を受けてしまうので、連日深夜まで残業を強制させられたりと、混乱していて・・ですが旦那様は『口ごたえするなら首を切る』の一点張りなんです。家を開ける事が多いから、俺たちの苦労なんか分かってないんですよ」
「・・そうなの。そんな事が・・」
「女将さん。どうか店に戻って来て貰えないでしょうか」
「・・・・」
衝撃的だった。福田屋の皆がそんな酷い目に遭っているなんて・・。私だって、助けてあげられるものなら、どうにかしてあげたいのはやまやまだけれど・・。
「・・ごめんなさい。それは私ではなくて、旦那様の決める事だから・・」
私はもう籍を抜かれ、豊田を追い出された身。私が出戻るなど、尚弥さんと綾が絶対に許さないだろう。
「本当に、ごめんなさい。何も力になれなくて・・」
贖罪の思いで、切に頭を下げた。
「いえ、私の方こそ、無理を言ってすみません女将さん。女将さんこそ大変なときに・・。あの、女将さんは今、どちらに・・?」
坂下はそう聞きながら、私と一緒にいた善次さんの方をチラリと気にしていた。一体どういう関係かと、訝しんでいるのだろう。
「志乃は今、俺のところで預かってる。大洋物流の井ノ原だ」
「大洋物流・・? あの、『海運王』井ノ原様でございますか?」
坂下は余程驚いたのだろう、私の袖を引きこう耳打ちしてきた。
「女将さん。あの海運王と、一体どういうご関係で?」
「か、関係って・・同じ小学校に通っていた、幼馴染なの。街で偶然再会して、事情を知った彼が一時の宿を用意してくれたってだけよ」
「そうだったんですか。女将さんが海運王にそんなツテをお持ちとは、知りませんでしたよ。・・愛人として囲われてるとか、そういう事じゃないんですか?」
「と、当然じゃない! 全然、全くそんなのじゃないわ!」
「なんだ、それなら結構ですが・・いや、残念に思うべきなのか? 海運王のお手付きとあらば、お金に困る事など無さそうですもんね。むしろ今まで以上に良い暮らしかも」
「お、お手が付く事なんか無いから! 私も職を探しに此処へやって来たのよ! お互い頑張りましょう!」
「そうですか。しかしお元気そうで良かったです。どうかご多幸を」
坂下は私の手を祈るように握った後、善次さんにこう挨拶をした。
「お話中、突然横槍を入れて申し訳ありませんでした。どうか女将さんのこと、宜しくお願いします」
そして彼は本町通を私達とは反対方向へ歩いて行った。私は去っていく坂下の後ろ姿から、しばらく視線を逸らせずに、彼の背中が見えなくなってからも後ろ髪引かれる想いでいた。
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tm-かれんさん!とくさんですさん!スターギフトありがとうございます🙇♀️
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