其の六:可愛くない女

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 その日は何だか眠れなくて。  お茶を入れに厨房へとやって来たら、光太郎さんはまだそこで作業をしていた。 「光太郎さん・・まだお仕事ですか?」 「いえ、糠漬けを仕込むのをうっかり忘れていたのを、思い出しましたもので」 「お手伝いしましょうか?」 「いえ、結構ですよ。志乃様はこんな夜更けに、どうされたのですか?」 「私は・・お茶を頂きに。何だか眠れなくて」 「寝酒をご用意しましょうか」 「いえ・・ただ喉が渇いただけなので。あ、光太郎さんも、飲みますか?」 「それでは、ついでに頂きましょう」  鍋で湯を沸かし、茶櫃から急須と茶碗を取り出す。この屋敷の茶筒に入っているのは、やはり高級な玉露だ。湯を張ると海苔に煮た玉露特有の覆い香(おおいか)が芳しく立ち込める。 「元気がないですね」 「え?」 「善次様にまた何か意地悪でも言われましたか?」 「あ、いえ・・そういう訳では」 「遠慮なさらず、愚痴を言っても構いませんよ。あの方の舌は、あの方唯一の欠点でございますので。地獄で門番に舌を抜かれたら、それはもう完璧に御成でしょう」 「あはは・・でも、本当に違うんです。実は今日・・実家で雇っていた従業員と街で出会して・・」  私は光太郎さんに経緯と、坂下の話していた実家の現状を告白した。 「・・私が家を出たりせずに、もっと上手くやれていたら・・皆にそんな苦労をかける事も、無かったんだなと思ったら・・」  私は罪深い────。  百年以上続く豊田家を継ぐ跡取りとして育てられたにも関わらず、女将の地位を降ろされた。このまま豊田が傾くような事があれば、私はご先祖様の想いを台無しにした張本人だ。  そして、従業員皆の生活を・・壊した。 「本当に・・不甲斐なくて・・」  これは私だけの問題じゃない。私の失敗は皆の大事なものを踏みにじる。あのとき尚弥さんを責めたりせず、じっと耐えれば良かったんだ。後悔してももう時間は戻りはしないけれど。 「人事を尽くして天命を待つ、と申しますが」 「え・・」  お茶を手にし、しみじみと落ち着いた声で、隣りに座っていた光太郎さんは言った。私は俯いていた視線を、彼の方へあげる。 「志乃様は出来る限りの事をされた。それでも尚、その道が隔てられたならば、そこが本当の居場所では無かったという事でございましょう」 「本当の居場所?」 「人の営みなどちっぽけなもの。天道には逆らえません。志乃様が今ここに居られるのもまた神の思し召し。そのとき出来る事に尽力していれば、自ずと答えも見つかりましょう」 「光太郎さん・・」    これが私の本当の道だっていうの・・?  本当にそうだったら良いのに。  善次さんの隣が私の居場所なら。  私は此処に居る事を、望んでも良いのだろうか────・・  手にした茶碗に、そっと視線を落とす。するとそこに私はあるものを見つけた。新緑を閉じ込めた玉露の深い緑の表面に、茶柱が立っている。 「あ・・茶柱!」 「幸先がよろしいようで」  光太郎さんはにこりと、穏やかな笑顔を私にくれた。沼の底に沈められたようにどこか息苦しかった心が、軽くなっているのが自分でも分かった。光太郎さんの言う通り、これは神様の用意してくれた道なのかもしれないと、そんな風に思う私は単純なのだろうか。私は光太郎さんに気になった事を聞いてみた。 「光太郎さんて・・今お幾つなんですか?」 「十七です」  十七・・あまりの有難い説法に、つい拝んでしまいそうになった。さすが善次さんの秘蔵っ子。末恐ろしいお人だ。 「もうここでの奉公は、長いのですか?」 「五年前、十二のときに母親を亡くしました。私は善次様と同じ、遊郭の出身なのですが」 「え・・?」 「妓楼の主人の口利きで、ちょうど東京から横濱へ戻って来られていた善次様に、引き取って頂いたのです。その後中学まで出させて頂きました。善次様には更に進学をと勧めて頂きましたが、私にはここで、善次様のお手伝いをしている方が、性に合っているようで」 「そうだったんですか・・あの遊郭の・・」  善次さんの苦労を見てきた私には、彼も同じような苦労をしてきたのではないかと思うと、かける言葉が見つからなかった。大変でしたね、とかそんな言葉じゃ、あまりにも言い尽くせない気がして。彼はそんな私の様子に気がついたのか、あの穏やかな笑顔でこう言ってくれた。 「辛い事もありましたが、一度底を見たからこそ、分かる事もありましょう。この様な良縁に恵まれて私は幸せ者です。志乃様にもどうぞ、このご縁が良きものとなられます様に」 「ありがとうございます光太郎さん。お陰で元気がでました」 「それは良かった」    お茶を飲みに来たのは正解だった。辛いのは私だけじゃない。寧ろ今までが恵まれ過ぎていただけだ。善次さんも光太郎さんも、苦境を乗り越えて今があるのだから、私も落ち込んでなんかいられない。  気合いを入れ直した私。  だけどその光太郎さんと私の会話を・・物陰で善次さんが聞いていたなんて、私は知らなかったんだ。
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