其の六:可愛くない女

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 次の日、私は善次さんに呼ばれて、彼の自室を訪れていた。まだ浴衣姿の善次さんの、どこか整いきってない雰囲気にどきどきしてしまって目を泳がせていた私だったが、しかしそこで彼はまた、私を驚愕させる提案をしてくるのである。 「とりあえず千円ある」  卓上で無造作に積み上げられたお札の束を前に、私は完全に固まっていた。  な・・今度はどんな突飛な事を言い始めるんだ、この人・・ 「工場はどこも低賃金が問い沙汰されている。女は働き口が少ないからと、足元を見られて奴隷のように働かされるより、自分で事業を始めた方が余程良い」 「え?」 「昨日の坂下とかいう奴がいただろう。奴らを誘って事業を起こせ。お前の経歴を知っている者なら、女だからと侮られる事もないだろう」 「・・え・・」  事業を起こす・・私が────?  まただ。私の気持ちを汲んで、洋服を買ってくれたときと同じ。  これは彼の私に対する、この上ない気遣い。 "女に出来る仕事なんかな、たかがしれてるんだ。あんな目に遭ってまだ分かんないのかよ、この世間知らず!"  あれは私を馬鹿にする言葉なんかじゃなかった。ただ女だというだけで踏み付けにされるこの世で、私の行く末を案じていただけ。そうでなければ女の私にこんな大金、貸す訳がない。    経営者なら主人に虐げられる事などない。  福田屋の従業員達の受け入れ先を作れれば、私の心の憂いも無くなる。  だけど銀行は女にお金なんか貸してくれないから。女で店を持ってる人は、お金持ちの愛人がいる、水商売の女だけ。だからこの人はこうして自ら金を貸そうと言ってくれている。  どうして・・?    どうしてこの人・・こんなに優しいんだろう。  まるで神様みたいな人────。 「ありがとうございます、善次さん」    私はその場に膝を折り、床に手をついた。そして彼へ向けて深々と土下座をした。  平伏の意を表す最敬礼。そうせずにはいられなかった。生活の面倒を見て貰ったばかりか、ここまでの温情に対して返せる礼を、私は持っていなかったから。 「善次さんの度重なるご厚情には、言葉ではとても言い尽くせぬほど感謝しております。事業の成功に向けて死力を尽くし、このお金は必ず・・必ずお返し致します」  それにお金を借りるなら・・この家を出ても彼と繋がっていられる。少なくともお金を返し終わるまでの間は。  彼の履く『スリッパ』が床に張った絨毯の上を擦れる音がする。頭を下げたままの私のすぐ前に、善次さんが居る気配がする。 「頭を上げろ」  彼は腕を組んで私の前に立っていた。不機嫌そうな表情で私を見下げた彼の、美しい青い瞳と目が合った。 「俺がこの金を返して欲しいとでも?」  そして彼は小さく溜息をつき、私にこう言ったのだ。 「お前は本当に可愛げのない女だ」  ────そのとき脳裏に蘇ったのは、あの日夫が私に投げつけた言葉。 "お前のような可愛げのない女とは離縁して、俺は綾と一緒になる"  自分では何も意識なんかしていなかった。  だけど気が付いたら・・涙が溢れてしまっていた。 「・・っ・・」  いけないと思って。止めようとしても、涙は堰を切った様にどんどんと溢れ出てきて。  私は彼の前から逃げ出した。何の説明も出来ないまま、ただ顔を隠して部屋の中から走り去った。 「志乃・・!」  後ろで彼が私を呼ぶ声がする。  でももう振り向くことは出来なかった。この涙はしばらく止めることが出来そうもない。  ごめんなさい善次さん。  善次さんは何も悪くなんかないのに。
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