其の一: 夫に離縁を言い渡され

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「あっ、ああんっ・・もう、だめぇっ・・」  この襖を開けてはならない。開けたらきっともう元には戻れない。  だけど開けずにはいられなかった。  襖を引いた奥には、想像通りの光景。  くんずほぐれつ絡まり合う、夫と異母妹の────・・ 「しっ、志乃っ・・!? 行商に行ったんじゃ・・」  慌てて綾の身体から離れ、を仕舞う彼の姿は、とても汚いもののように見えた。あまりの事が起きたとき、人は言葉を失うと言うけれど、この時の私は正にその通りで、彼らの不貞の現場を前に、ただ立ち尽くすしかなかった。 「嫌だわお姉様ったら。お早くお帰りになるなら、次からはそうと仰って下さいな」  悪びれることもせず乱れた着物を直す妹の胸元には、薄汚い赤い痕が、幾つも付けられていた。 ◆◇◆◇◆◇ 「見なかったことにするから、早急に綾を嫁に出すように」  私が夫に突きつけた条件はそれだ。そうでなければ妹と一緒に、夫にもこの豊田家を出て行ってもらうと。  しかし、このとき夫にそう詰め寄ってしまった事が、私の運命を大きく変えてしまう。その日、夫は私に、こう言ったのだ。 「この家から出ていくのは俺達ではなくお前だ、志乃」  何を言われているのか一瞬、理解が追いつかなかった。 「は・・?」 「お前とは離縁する。荷物を纏めて今すぐ出て行け」  な────・・ 「な、何を言っているの、貴方・・そんなことが出来るわけないじゃない」  この豊田家の直系は私。この人は入婿で、表向きは『戸主』は男でなければならないから家督を相続したというだけで、あくまで本来の跡継ぎはこの私。 「幼い頃からお父様に、豊田家を任せると言われていたのは私よ!」 「家督を相続したのはこの俺だ。今はこの家の財産も戸籍の監督権限も、全てはお前ではなく俺のものだ」 「貴方が婿に迎え入れられたのは、私と一緒になって豊田を盛り立てるよう言われてのことでしょう!? 大旦那様の遺言を反故にするとでも言うの!?」  つい大きな声を出した。崖の間際まで追い詰められている事に気がついていたから。心臓がどくんどくんと嫌な音を掻き立てる。  この家の直系は確かに私であったにしても。  どんなにこの家を取り仕切っているのが実際には私であったのだとしても。  家督を相続したのは彼だ。女性が家督を相続するのは禁じられてはいなかったが、一般的ではなかった。女性が家督を継いだ場合でも早急に婿を迎え、戸主の座を譲るのが普通。  ここが江戸の世であれば、通ったのは私の言い分の方であっただろう。しかし法治国家となった今の大日本帝国において、一族の戸籍の移動は戸主の同意がなければ通らない。財産の処分も同じだ。『家督相続』という法律の上では、豊田家の全ての財産は、戸主である彼の所有となるのだから。 「俺は豊田を頼むとは言われたが、絶対にお前と一緒にとまでは言われていない。綾だってお前と同じ、大旦那様の娘である事に変わりない」  夫はそう言って、隣にいた綾の肩へ腕を回し、愛し気に引き寄せた。綾も嬉しそうに頬を染めて頷く。愕然とする私に向けて、彼は綾に向けたのと真逆の、憎々しげな視線をこちらへ寄越した。 「いつもいつも、さも家長は自分だと言わんばかりの態度で、小言ばかり言いおって。女の身を差し置いて、お前の振る舞いは目に余る。お前のような可愛げの無い女とは離縁して、俺は綾と一緒になる。これからの豊田家は、俺と綾の力で新しく生まれ変わる」  ────何を言っているの、この人は・・  私は好きでそうしていた訳じゃないわ。貴方が家の仕事をしないから、私がやっていたというだけ。私だって綾の様に、貴方の後ろでただしおらしくしていられるのなら、そうしていたかった。  ずっと豊田を守ってきたのは私。  店番も行商も納期の管理も帳簿付けも、やってきたのは全部私。家を全く顧みず飲み歩いているだけの貴方に我慢してきたのも・・全てはこの家の為。  この家は私の全て。  何よりも大事な、私の人生を賭けるべき使命────・・ 「さぁ、もう分かったでしょうお姉様。今までどうもお疲れ様。どうぞお元気でお過ごし下さいね?」  夫に肩を抱かれ、勝ち誇ったかのように笑った綾の顔が、今でも頭から離れない。  全ては家の為だったのに。  私は一体、何のために今まで────・・ 「じゃあねお姉様。お・つ・か・れ♡」
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