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風呂敷一つを持って家を出た。
「はぁ・・」
私は元町近くの宿屋の一室で、一人深い溜息をついた。風呂敷の中には着替えの紬と、礼服にも使える御召縮緬の二着の着物。足袋と帯と簪と櫛、あとは僅かな手持ち金。
宿をとっていてはすぐに手持ちが底をつく。まずは住まいをと考えたのだが、住まいを貸してもらうには仕事に就くか、誰か保証人になってくれる男性を同伴しなければならないと言う。そこで私は職業紹介所へ向かった。多少の紹介料をとられるものの、仕事がないか飛び込みで聞いて回るよりは手っ取り早いだろう。
しかしそこで私は、女性が一人で生きていくことの難しさに直面する。
「女学校上がりねぇ〜・・」
紹介された新聞社の所長は、経歴を聞くなり顔を顰めた。
「なんでまた女学校に通うようなお嬢様が、仕事なんて探してんの? 親の進める縁談を断って、勘当でもされた?」
「ま、まぁ・・そんなところ、です・・」
高い学費がかかる女学校へ通うのは実家が裕福な娘だけ。紹介所の所長にも、すぐに良家の出だと見破られた。私の着ていた着物・大島紬は独特な黒色の光沢が人気の高級品であり、庶民に手の出る品ではないからだと言われた。私が肩をすぼめていると、彼はふぅと息を吐いた。
「前ねぇ、居たんだよ女学校上がりの子。読み書き文章得意だって言ってね。だけどまぁ〜主張が強いっつーかなんつーか、高飛車だわ周りの言う事聞かないわ、私にももっと重要な記事書かせろ、なんて騒ぎ立てるもんで、持て余しちゃってね。辞めて貰ったのよ。悪いんだけどあまり期待されたところで、女の子にやらせる仕事なんてお茶出しとか印刷機のローラー回したりとか、そんな程度のもんしか無いからねぇ・・」
「全然、どんな仕事でも一生懸命やります!」
「・・そう? 一応考えてはみるけど、あまり良い返事は期待しないでね・・」
女学校と聞いて顔を顰めたのは、紹介所の所長も同じだった。女性の働き口は工場の工員がほとんどで、それ以外の電話交換手とか、事務仕事とかは非常に少なく、取り合いなのだと言う。最初に紹介されたのは、なんと豊田の製糸工場だったので、勿論断りはしたのだけれど。女学校を出ていることは、一般の仕事に就くには強みになるどころか、足枷になるのだと知った。
後日、面接を受けた新聞社からは断りの連絡が入ったと、紹介所の所長から聞かされた。そうこうしている間にも手持ちはどんどん減っていき、焦りばかりを募らせる。途方に暮れて、私が紹介所の一角で頭を抱えているのを見かねたのか、所長が近くへ寄って来て、私の隣に腰を下ろした。
「あんたもなぁ・・実家で何があったんだか知らねぇが、女一人で生きてくってのは、あんたが思ってるよりも、ずーっと大変なこった・・」
「・・はい。早速ですが、痛感しております」
「悪いことは言わねぇ。頭下げて家に戻れるなら、今のうちにそうした方がいい」
「・・それは出来ません」
「どうしてもか?」
「・・どうしてもです・・」
私は項垂れたままだったが、隣で所長が、ふぅと溜息をついたのが聞こえた。
「・・どうしてもっつーのなら、あんたに一つ、紹介してやれる仕事がある」
「え?」
「住み込みの料亭の女中だ。あんたは中々別嬪さんだし、品もある。まず断られる事はねぇよ」
住み込みと聞いて私は所長に飛びついた。それならば住まいの問題も解決するし、一石二鳥だというものだ。
「是非! 是非お願いします!」
「・・ただ、良いところのお嬢ちゃんには、中々辛い仕事かもしれねぇが・・」
「大丈夫です! どんな仕事でも文句は言わず、なんでも頑張ります! どうか紹介して下さい!」
所長は何だか複雑そうな表情で頷いた。その彼が言った『辛い』の意味を・・そのときの私は履き違えていたのだ。
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