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山手の坂を登る手前にある料亭・三河屋は横濱でも三本の指に入る大きな料亭である。一階は帳場、調理場、住み込みの使用人らの部屋や風呂があり、二階は二十もの小座敷、三階は大広間で、結婚披露宴や外国人客の舞踏会などにも使用されている。百名近くいるという女中は皆、支給された高級な御召の着物を纏い、紫色の前掛けを着けて整然と髪を結っている。料亭の客といえば一見の客は入れず、ある程度の地位や名誉を得ている名士のみ。山手にある芸妓見番からは毎日のように艶やかに着飾った芸妓さんが馬車に乗りやって来て、客を接待しているが、単に芸妓を侍らせ遊ぶところではなく、密談に使われる場所でもある。従業員は皆、ここで見聞きした事は家族であっても話してはいけないと、誓いを立てさせられる。もしも誓いを破れば、酷い折檻が待っているのだ。
部屋の接待は十人一組で行う。部屋毎に「本番」と呼ばれる女中頭がいて、女中たちの監督役をしている。私はフミさんという本番の組に入ることになり、早速、工藤様という県議の先生の設けた部屋へと上がったのだが・・
「ようこそお越しくださいました、工藤先生」
お通ししたお座敷の前で女中達が一斉に頭を下げると、スーツを着込んだ恰幅の良い先生は、上機嫌で手を上げた。これだけ身なりの良い女性達が一斉に頭を下げるなど、殿様にでもなった様な気分になるのかもしれないなと思った。本番のフミさんが立ち上がると、女中達は一斉に立ち上がり、先生の鞄を預かる者、上着を衣紋掛けにかける者、お茶を淹れる者と、皆が一斉に動き始める。私は一番役目が明確な、料理出しを仰せつかっていた。
「お酒はどうなさいますか先生。お連れ様がいらっしゃってからになさいますか。それとも、もう始められますか」
「そうだなぁ、すぐ来るだろうし、先に始めてようか」
「かしこまりました」
フミさんは美しい所作で先生の隣から立ち上がると、私の方へ寄って来て耳打ちする。
「まずはお通しを持って来ておくれ。あと、熱燗を一本」
フミさんに言われて、一階の調理場へ降りてお通しを預かり、酒番の女性へ熱燗を事づけ、二階の座敷へと戻る。
「お通しでございます」
こうして料理を運ぶだけの、簡単な仕事かと思っていた。
しかし────。
「見ない顔だな。新入りかい?」
「はい。志乃と申します。今日入り立ての素人ですので、粗相があってもどうか見逃してあげて下さいねぇ、先生」
私が答えるよりも前にフミさんがそう紹介をしてくれたので、私はその場で頭を下げた。
「志乃と申します。どうぞ宜しくお願い致します」
「そんなに堅苦しくなくて、よいよい。顔を見せてみぃ」
顔をあげると、先生の大きな顔が近づき、まじまじと私を見回した。顔が大きいせいか、かけた眼鏡が驚くほど小さく見えた。
「うんうん。別嬪じゃないか」
先生は恵比寿様のような笑顔で私の手を取り、その肉付きのよい手が、私の手の甲をすりすりと撫で回す。
「あ、ありがとうございます。・・」
「志乃。先生にお酌を」
「は、はい」
慌てて届いた熱燗をお猪口に注ぐと、先生の手が、今度は私の尻を撫でて────。
「きゃっ!」
あまりにも驚いて、思わず叫び声をあげてしまった。すかさずフミさんが助け船を出す。
「なんだい、あんた。情け無い声をあげて。先生、大変申し訳ございません。不慣れなもんで、どうぞ勘弁してやって下さいな」
「良い良い。初々しくて可愛いではないか」
工藤先生は声をあげて笑ったが、私の内心は困惑していた。今まで初対面の殿方に、突然尻を撫でられるなどという失礼な振る舞いを、受けた事など無かったからだ。
しかし工藤先生の振る舞いは、これで終わりではなかった。先生は再び私の手を肉厚の両手で握ると、今度はこんな事を言った。
「志乃。私はお前が気に入った。今夜、私の部屋へ来い」
な────・・
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