其のニ: 再会

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 県議の先生の誘いに当惑した私は、本番のフミさんの袖を引いた。 「なんだい話って。あまり無駄話をしてる暇はないよ」 「申し訳ありません、あの・・実は、先程工藤先生に、今夜部屋へ来るように言われたのですが・・」 「それが何だい?」 「その、どの様にお断りするのが、ご不興を買わずに済むものかと・・」    しかしフミさんの答えは、私を益々当惑させるものであった。 「断る? そんなの出来るわけないだろ? 何を馬鹿なこと言ってんだい」  え────?  私の内心の驚きを他所に、フミさんは呆れた様子でこう言った。 「茶屋や料亭でそんなのは当たり前だろ? 金の事を気にしてるんなら平気だよ。庶民の男を相手にするのと違って、ここの客は御偉方ばかり、たんまり払ってくれるから。少し前に居たお妙ちゃんて子なんか床上手で、あっという間に金を貯めて、今じゃ自分で店持ってるって言うんだから大したもんさ。客の顔ぶれを聞いたら錚々(そうそう)たる面子だったよ。こういう世界じゃ有名な男と寝るのが、名刺代わりみたいなもんだからねぇ。・・」  フミさんは何やら話を続けていたが、途中から耳に入っていなかった。  料亭は芸妓さんと遊ぶところだと思っていたのに・・女中もこんなに当たり前みたいに、身を売っているものなの・・? "良いところのお嬢ちゃんには、中々辛い仕事かもしれねぇが"  職業紹介所の所長さんが、どうしてそれまでここの仕事を私に勧めて来なかったのか、やっと分かった。それは私があまりにも世間知らずだったから。  私が今まで失礼な振る舞いを受けなかったのは、私が「福田屋のお嬢様」だったから。  庶民の女性達は皆、当たり前の様にこんな扱いを受けている。食い扶持の為に身を売ったりもしている。今まで自分がどれだけ恵まれた環境で生きてきたのか、身をもって思い知った気がした。女性が男性の庇護下を出て、生きて行くことの世知辛さも。  トクットクッという音をたてて、お猪口に酒が注がれると、工藤先生はそれを口へと煽る。ごくりとした喉へと呑み下す不快な音が、いやにはっきりと聞こえた。  ────私は今夜本当に、この人と寝るの? お父様と年も変わらぬような、この男性と・・?  膝の上に置かれた先生の手が、気味悪く腿の方へと這い回る。  ────少しの間辛抱しているだけよ。私とて人妻をやっていたのだから、経験が無いわけではないし。たったの少しだけ・・目を閉じて、我慢していれば・・  先生の手が私の肩を抱く。湿った様な冷たい手が、まるで蛇に這われているようで、全身の毛を逆立てる。  ────どうしよう・・今すぐここから、逃げ出したい────・・ 「先生。お連れ様がお着きになられました」  閉じられていた襖が開いた。  襖の向こうに座していた男は、そのまま床に手を付き礼をした。 「ご無沙汰しております工藤先生。・・大洋(たいよう)物流の、井ノ原(いのはら)でございます」  え────・・?  井ノ原・・  目が合った。  何年経っても忘れることの出来ない、彼の青い瞳と。  私は咄嗟に下を向いた。 「お連れ様がお見えになられたので、お料理をお持ち致します」  肩に回された先生の手から逃れて座礼をし、料理を取りに・・私は逃げた。  心の臓が、狂ったように大きな音を鳴らしている。    間違えるはずがない。彼は『海運王』井ノ原善次(いのはらぜんじ)だ。  一瞬だったけれど、目が合ってしまった。彼は私に気付いただろうか。あれからもう随分経っているし、彼と違って私は平凡な顔だし、どうか気が付いていないといい。  どうして・・  こんなところ、一番見られたくない相手なのに────。 「こんなところで何をしている?」  びくりと肩を震わせた。  背中の向こうで響いたその声は・・ 「・・志乃」  背中を冷や汗が伝う。    はっきりと私の名を呼んだその声は、間違いなく彼のもの。  ナンバースクールと帝国大学進学を経て、若くして大成功を収めた、横濱を代表する大成金。  そして私の幼馴染で────初恋の人。
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