2209人が本棚に入れています
本棚に追加
県議の先生の誘いに当惑した私は、本番のフミさんの袖を引いた。
「なんだい話って。あまり無駄話をしてる暇はないよ」
「申し訳ありません、あの・・実は、先程工藤先生に、今夜部屋へ来るように言われたのですが・・」
「それが何だい?」
「その、どの様にお断りするのが、ご不興を買わずに済むものかと・・」
しかしフミさんの答えは、私を益々当惑させるものであった。
「断る? そんなの出来るわけないだろ? 何を馬鹿なこと言ってんだい」
え────?
私の内心の驚きを他所に、フミさんは呆れた様子でこう言った。
「茶屋や料亭でそんなのは当たり前だろ? 金の事を気にしてるんなら平気だよ。庶民の男を相手にするのと違って、ここの客は御偉方ばかり、たんまり払ってくれるから。少し前に居たお妙ちゃんて子なんか床上手で、あっという間に金を貯めて、今じゃ自分で店持ってるって言うんだから大したもんさ。客の顔ぶれを聞いたら錚々たる面子だったよ。こういう世界じゃ有名な男と寝るのが、名刺代わりみたいなもんだからねぇ。・・」
フミさんは何やら話を続けていたが、途中から耳に入っていなかった。
料亭は芸妓さんと遊ぶところだと思っていたのに・・女中もこんなに当たり前みたいに、身を売っているものなの・・?
"良いところのお嬢ちゃんには、中々辛い仕事かもしれねぇが"
職業紹介所の所長さんが、どうしてそれまでここの仕事を私に勧めて来なかったのか、やっと分かった。それは私があまりにも世間知らずだったから。
私が今まで失礼な振る舞いを受けなかったのは、私が「福田屋のお嬢様」だったから。
庶民の女性達は皆、当たり前の様にこんな扱いを受けている。食い扶持の為に身を売ったりもしている。今まで自分がどれだけ恵まれた環境で生きてきたのか、身をもって思い知った気がした。女性が男性の庇護下を出て、生きて行くことの世知辛さも。
トクットクッという音をたてて、お猪口に酒が注がれると、工藤先生はそれを口へと煽る。ごくりとした喉へと呑み下す不快な音が、いやにはっきりと聞こえた。
────私は今夜本当に、この人と寝るの? お父様と年も変わらぬような、この男性と・・?
膝の上に置かれた先生の手が、気味悪く腿の方へと這い回る。
────少しの間辛抱しているだけよ。私とて人妻をやっていたのだから、経験が無いわけではないし。たったの少しだけ・・目を閉じて、我慢していれば・・
先生の手が私の肩を抱く。湿った様な冷たい手が、まるで蛇に這われているようで、全身の毛を逆立てる。
────どうしよう・・今すぐここから、逃げ出したい────・・
「先生。お連れ様がお着きになられました」
閉じられていた襖が開いた。
襖の向こうに座していた男は、そのまま床に手を付き礼をした。
「ご無沙汰しております工藤先生。・・大洋物流の、井ノ原でございます」
え────・・?
井ノ原・・
目が合った。
何年経っても忘れることの出来ない、彼の青い瞳と。
私は咄嗟に下を向いた。
「お連れ様がお見えになられたので、お料理をお持ち致します」
肩に回された先生の手から逃れて座礼をし、料理を取りに・・私は逃げた。
心の臓が、狂ったように大きな音を鳴らしている。
間違えるはずがない。彼は『海運王』井ノ原善次だ。
一瞬だったけれど、目が合ってしまった。彼は私に気付いただろうか。あれからもう随分経っているし、彼と違って私は平凡な顔だし、どうか気が付いていないといい。
どうして・・
こんなところ、一番見られたくない相手なのに────。
「こんなところで何をしている?」
びくりと肩を震わせた。
背中の向こうで響いたその声は・・
「・・志乃」
背中を冷や汗が伝う。
はっきりと私の名を呼んだその声は、間違いなく彼のもの。
ナンバースクールと帝国大学進学を経て、若くして大成功を収めた、横濱を代表する大成金。
そして私の幼馴染で────初恋の人。
最初のコメントを投稿しよう!