黒い水

1/1
1人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
 眠れぬ夜、わたしは豆を煮る。  あの子が好きだった煮豆。  それを、たっぷりと、煮る。  薄茶色の煮汁の中。肌色の豆らが重なるようにひしめき合い、ぶくぶくと細やかな泡を噴きだしている。微かに甘い匂いが漂う。大豆を出汁と醤油、上白糖で煮る。ただそれだけのシンプルなものだ。  煮られている豆の表面は、どれもツヤツヤと光っている。あの子のつるりとした肌にそっくりだ。日差しの暑い日に外で遊んだって、寝苦しい夜に寝ていたって。脂汗を浮かせた肌はべたべたしているはずなのに、指の腹でそっと撫でると、サラサラとしていた。つるつると滑らか。あの子の皮膚は、不思議とそんな感触だった。 「もうそろそろいいかな」  話し相手もいない部屋。口からこぼした響きは、すぐに真っ白な湯気の中に溶けて消えた。  ガスコンロの火を消す。しばらくすると、豆と豆の隙間から絶えず湧いていた気泡が、忽然と姿を消した。それと共に、豆らの動きも止まる。肌色で満たされた鍋の表面に、半透明の薄皮が浮いている。何かの抜け殻のようだ。  あの子はその薄皮を食べるのが好きだった。後ろから覗きこんで、煮汁が冷めるのを待ってから、指先で摘んで『美味しい』とよく連呼していた。わたしは『行儀が悪いわよ!』と怒っていたけれど、その時間も幸せだったのだと、今なら痛いほどに思う。  お玉を手に取り、煮終わった豆を優しくすくい、白い器に入れる。綺麗な肌色。かわいくて、ふっくらとしている。そう、まるで、あの子の肌のよう。それを満たす琥珀色の汁が、ちらちらと光を纏って揺れる。その揺らぎに、わたしは酔いそうになる。目眩と吐き気が、同時に襲いかかる。額に手を当てる。荒くなっていく呼吸を落ち着かせるように、ふう、ふう、と息を吐く。数回それを繰り返す。  大丈夫、落ち着け。  これはあの水ではない。  あの公園の水ではない。  落ち着け。思い出すな。    もう一度、煮豆に目線を落とす。  ほら、大丈夫じゃない。これは、わたしが今作ったあの子の大好物よ。だから、あの川の水なわけ……。  甘い匂いに混じるドブ臭さ。ヘドロと腐った魚を煮詰めたような、ひどい悪臭が突如、鼻の神経を刺激する。鼻を覆う手のひらが震える。  琥珀色にボトリと、黒い墨が一滴落とされる。煮汁の表面が、みるみるうちに黒色へと変色していく。陽光を反射し、テラテラと光り輝く川面。あの日の黒。あの川の黒。闇の色。  その中に沈んだ肌色に、徐々に赤い粒が混じり、それが水玉模様となり、広がり、豆が膨張して弾ける。パンッて。破れた皮膚からは、イチゴゼリーのような塊が、ドロリと溢れだす。  きゃあぁぁぁぁぁ!  とわたしは発狂しそうになる。  あの子を失ったあの日のように。  あの日、わたしとあの子は近くの公園に来ていた。  *  公園には小さな川が流れている。それを横断する小さな橋もある。散歩やジョギングができるように遊歩道があり、その真ん中には芝生の広場があり、子供たちがボール遊びをしたり、家族連れがピクニックしたり、老人たちがゲートボールをしたりする。  川から分岐したもっと小さく、細い小川が芝生の横を流れているのだ。流れているというより、水が溜まっているだけ。元々、川も汚いため、その小川も汚い。投げ捨てられたゴミやビニール袋、小枝、長い草木などが沈んでいる。とりあえず、水が黒い。腐ったドブのようにしか見えない。  あの子はボールを大事そうに抱えていた。あの小川には近づいて欲しくないため、わたしたちは芝生に向かって歩いていた。その時、近所のおばさんが犬を連れて、『あら、こんにちは』と話しかけてくる。灰色の毛色のシーズーのラッキー。ワン! と尻尾をふる。  あの子を目で追いかけながら、わたしはおばさんと立ち話をする。芝生の方に駆けていったあの子は、一人でボールを投げて遊んでいた。安心したわたしはつい、おばさんとの話に夢中になってしまう。ラッキーの頭を最後に撫で、おばさんが帰って行く。その時にようやく気づく。あの子が芝生からいなくなっている事に。    あの子の名前を叫びながら、キョロキョロと周りを見渡す。あの子はまだ4歳だ。短時間でそんな遠くまで——と考えていると、パシャリと水音が跳ねる音がした。だいぶ近い。振り返ると、あの子がボールを小川に落として遊んでいた。『きゃっ、きゃっ!』と楽しそうに。  黒いしぶきが、顔中と薄ピンク色の服を汚していた。投げては落とし、拾いあげる。それを繰り返す。ボールには枯葉がへばり付いている。それを持つ両手はひどく汚れ、土や泥もべっとりと付着していた。 『なに、してるの!!』  わたしはボールを取り上げる。水場を探すが近くには見当たらず、あってもだいぶ遠くだった。帰った方が早い。とりあえず、しょうがなくティッシュで手を拭った。不機嫌そうなあの子の手を引き、わたしは家まで慌てて帰った。 『ママは外でボール洗ってくるから、手をハンドソープできれいに洗ってきてね』 『はーい』とあの子は家の中へと入っていく。泥水が流れていくのを眺めながら、あそこの川は汚すぎる、近づかない方がいい、と再確認する。あ、服も早く手洗いしなくちゃ。そう思いながら、ボールを日向に置いたまま、家の中に入った。  TVの音が聞こえる。あの子が付けたのだ。泥水で汚れた服のまま、ソファーに座ってTVに夢中になっているあの子。わたしは慌てて洗面所で手を洗う。次は着替えを出して、汚れた服を洗って。小走りでソファーの横を通りすぎると、『きゃはははっ!』と笑い声を立てるあの子の前のテーブルの上。お菓子の袋が散乱しているのが目に入る。帰ってすぐに食べたらしい。 『お菓子食べたの?』 『うん』  ペロと指を舐める仕草。唾液で濡れた人差し指。爪の間が黒い。それだけじゃなく、まだ手が真っ黒だ。あのヘドロべったりの黒く濁った川面が、脳裏を横切っていく。わたしはあの子の手首をガッと掴んだ。叫んだ。 『ど、どうして、洗ってないの!! こんなばっちい手でお菓子食べちゃダメじゃないの!!』  一気に血が昇った。自分でも驚くほどの、大きな声が飛び出していた。あの子を引きずるように洗面所まで連れて行く。『痛い、痛い!』と喚くあの子の手のひらを、擦りながら懸命に洗う。自分でも怖かった。異常だった。でも、なぜかそこまでしてまで、あの闇のように黒い水を洗い流したかったのだ。あの子の手のひらから、あの穢れた水を。  その日の夜、あの子は疲れたからか、早めに寝てしまっていた。夫が帰って来たから、ご飯の準備をしていた時だった。突如、リビングのドアがキイと開く。  そこにはパジャマ姿のあの子。手の甲をカジカジ掻いている。『痛がゆいの、ママ』と、赤い斑点を散らばせた顔を向ける。手の甲は掻きすぎて、真っ赤になっている。 『ど、どうしたの?!』  わたしは駆け寄って、膝立ちになって掻いていた甲を見る。血まみれ。爪の間に入り込んだ赤。顔全体には赤い斑点。蕁麻疹? 『痛いの、痛いの……』とあの子は泣く。両頬を包み込むと、すごい熱を持っている。表面はでこぼこ。いつもの肌質と違うのが分かる。 『おい、どうしたんだ?』  夫の声が背後から聞こえた瞬間。あの子の体が痙攣しはじめる。今まさに釣り上げられた魚のように、床に倒れてピチピチと飛び跳ねる。 『どうしたの?!』何が起きてるの?  あの子が白目を剥く。皮膚の赤い粒は面積を広げ、肌色を侵略していく。体全体、白い眼球までも、真っ赤に染めていく。 『きゃあぁぁぁぁぁ!』  わたしは悲鳴を上げる。痙攣しつづける体を抱きしめようと腕を伸ばすと、突如皮膚が膨張する。一瞬で水分を含んだように、パンパンに膨らんでいく。  両腕も、腹部も、太腿も、手足の指も。  顔面も、頭部も、体全体を。  水風船のように、水人間のように、限界まで膨張しつづける。  パンッ!!  あまりにも軽い破裂音が響いた。  生温かい血液が、わたしの顔面を満たす。  何が、起きたの?  あの子から弾けた血や皮膚片が、そこら中に散らばっていた。  壁に貼り付いた、かにみそみたいなものは、あの子の脳みそだろうか。  白く細く垂れたホース状のものは。  編み目状のタコ糸みたいな袋は。  己の膝あたりに弾けたイチゴゼリーのような塊は。大豆の薄皮みたいなものは、あの子の、あの子の、あの子の——。  わたしは発狂し、気絶した。  あの子は、あの黒い水で死んだ。公園の汚れた水が付着した手で、お菓子を鷲掴みして食べたから。  あの水は汚染していたのだ。あの川で数日前に浮浪者が死んでいたらしい。その浮浪者はおかしなウィルスに感染し、亡くなったらしい。死んだ時に赤い体液が周りに流れ出したのだ。それを知らずに、あの子は恐ろしい水に触れ、その手から水を、殺人ウィルスを摂取してしまった。    だから、亡くなった。  あの黒い水のせいだ。  近所の犬のラッキーも、あの水を飲んで亡くなった。おばさんはこの世の終わりのように、泣き喚いていた。  わたしは夫から責められた。 『どうして、公園に行ったのだ』『どうして、すぐに手を洗わせなかったのか』と。  夫はわたしを責めつづけ、呆れ、そして、家を出て行った。きっと、他の女と暮らしているのだろう。  *  肌色の豆を箸先で、摘んだ。口元に運ぶ。クチュと奥歯ですり潰す。  あの子の喜んでいる顔が、脳裏の奥から這い上がってくる。じわり、と目元から噴き出す涙。滲む視界。 「あんな、ごめんね……」  苦い臭みが口内を巡り、喉を通り越していく。泥と生ごみを混ぜ合わせたような異臭だけが、鼻腔に残る。こみ上げる吐き気を堪え、目線を落とす。丸みを帯びはじめた腹部に手を添わした。妊娠。あんなの弟か妹になる子。夫が出て行ってから気づくなんて、あまりにも神様はいじわるだ。  器を満たした液体は、きれいな琥珀色ではない。あの日と同じ黒い水だ。わたしは両手で器を包むと、それをくいくいと飲み干す。生ぬるい。臭い。穢らわしい。あの子を殺した液体を。  わたしはあれから黄色い規制線を越え、これを採りに行き、こうして体に入れ込んでいる。もうずいぶんと慣れた。もう、味覚というものが麻痺したのかもしれない。  あの子の苦しみを味わうため。わたしは毎日、こうやって、にっくき黒い水を沈殿させていくのだ。自分の体の髄に染みるまで。  自分でもどうしたいのか、分からないのだ。  あの子の元に、早く行きたいのか。こうやって、自分の罪を流そうとしているのか。  あの子が死んでからわたしはずっと、暗くて臭い深い泥底の中を、這いずり回って、彷徨って、抜け出せないでいる。  子宮がぐるりと捻れる。  異形かもしれないこの子と共に、わたしはこれからも黒い水に侵されつづけていく——。 (了)
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!