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クールなメイドは後ろ姿を見せたくない
空気は熱気を帯びはじめていた。まだ6月だというのに、気温は30度を叩きだしている。
とはいえ、ここは金持ちのお屋敷。室内はエアコンを軽くつけ、快適な温度を保っている。
その家のリビングでは、青年とメイドがローテーブルのそばのソファに並んで座っていた。
口を開いたのは青年だ。
「後ろ姿が綺麗ってズルいよな」
泉は、頭につけたメイドカチューシャを直しながら問いかける。
「何の話ですか、燈次さま」
「昨日観たドラマのセリフだよ。女が、明らかに条件の悪い生命保険を男に迫る。男は当然断るが、立ち去ろうとする女の後ろ姿があまりに美しくて」
「加入しちゃった、ってわけですね」
「泉は察しがいいな」
燈次はローテーブルの上のお茶をひと口飲んだ。雫が彼の唇に残り、つやりと光る。
泉はグ、と目を細め、思わず顔を逸らす。
「どうした、泉」
「別に」
素っ気なく言ってから、泉はもう一度燈次を見る。何も分かっていなさそうな表情の彼は、口元に雫を光らせている。
その姿に、泉の胸が締めつけられた。
見てはいけないものを見た気分になり、泉は燈次から離れた位置に座りなおした。
「そういえば、今朝の夢に泉が出てきたな」
「それは悪夢ですね」
「違うって。ただお前が、なんだっけな、後ろ向いてたんだよ」
「へえ」
「それで……そうだ、俺こう思ったんだ」
「何て」
「泉の後ろ姿って、綺麗だなって」
「……え」
「泉に保険の勧誘をされたら、俺はうっかり入ってしまうな」
燈次は歯を見せてニカッと笑う。屈託のない、太陽のような笑顔だった。
しかし……。
「泉、どうした?」
燈次は不思議そうに彼女を見上げる。泉が音を立てて席を立ちあがったからだ。
泉はギロリ、と燈次をにらむ。
「さとちゃんのほうへ行ってきます」
「呼びましたか、泉さん?」
そう言って入ってきたのは、泉とは違うタイプのメイド服を着た女の子。
そのメイド――さとが泉のグラスにお茶を注ごうとしたので、泉は手で止めるように合図する。
「自分でやりますよ」
「燈次さまのついでですから」
「でも」
「それに、泉さんはお客さんですから。ゆっくりしてください」
さとはふわりと微笑んだ。
この屋敷の主は燈次。さとは彼に仕えるメイド。
泉もメイドだが、雇い主は燈次ではない。別の人だ。
今日の泉は、自分のご主人さまから預かった荷物を燈次に届けにきただけである。
さとは燈次の髪に触れた。彼の寝癖を直しているのだ。
ふたりの目があった。そのまま10秒、ふたりは無言で見つめあう。
「あんたたち、恋人みたいですね」
「泉さん、何か言いました?」
「あたしも何か仕事したい、と言いました」
「でも泉さんは」
だって、あたし。
そう言おうと思ったが、泉はその言葉を飲みこんだ。
だってあたし。このまま燈次さまの隣にいたら、変な気持ちが湧いてきそう。
泉は軽く首を振り、さとに向かって笑いかけた。
「だって、座ってるだけじゃ落ちつかないです」
泉とさとはサンドイッチの用意をする。
燈次の分。さとの分。そして泉の分まで。
「あたしが一緒に食べていいんですか」
「泉さんもお昼休憩の時間ですよね。私、泉さんと一緒に食べたいです」
さとは笑顔を見せる。燈次と同じタイプの笑顔だ。純粋で、肝心なことに気づいていない雰囲気がある。
「燈次さまっていつも、ああなんですか?」
「ああ、って?」
何の気なしに、口説き文句を口にすることですよ。
そう続けようと思ったが、今度も言葉を飲みこんだ。
「サンドイッチ、完成しましたね」
リビングに戻ると、燈次はローテーブルの上の片づけをしていた。
不要な物を避け、3人分のランチセットを置いていく。
「それぞれ違うんだな。俺のはたまごサンド。さとのは甘いジャム。泉のは」
燈次が泉に近づいてくる。泉はそのとき、屈んで机の上の糸くずを取ろうとしていた。だが燈次の気配を感じ取ると、彼女の身体がグッと硬くなった。
泉の脳内で燈次の言葉がリフレインされる。
――泉の後ろ姿って、綺麗だなって。
途端、彼女は言いようのない恥ずかしさに覆われる。
背中を見せてはいけない。
そう思って泉は素早く立ちあがり、後方に飛んだ。
「泉?」
「何か急に、運動したくなって」
泉はヘラヘラ笑ってごまかす。燈次とさとは不思議そうに顔をあわせたが、何かに気づいた様子はない。
泉は慎重に、奇妙なすり足でテーブルに近づき、紅茶を淹れる。
右手にポット、左手に自分のサンドイッチの皿を乗せたまま、泉はそろそろと後退する。
「泉、後ろ見ないで下がるのは危ないぞ」
「大丈夫……わあっ!」
泉は床に落ちていた紙を踏んで転んだ。
さとが心配そうに顔を覗きこむ。
「お怪我は」
「平気です。あたし、何を踏んだんですか」
「俺が会社の会議資料で作った、折り紙の恐竜だな」
そんなもん放置しておくじゃねえです。そう抗議しようと思ったが、後方確認をしなかった泉も悪い。
「泉さん。やっぱり怪我してます!」
さとに言われて見ると、泉の身体には赤い液体がベットリついていた。しかし泉は冷静に言う。
「あたしのサンドイッチのチリソースですね」
「けっこうついてるな。たぶん後ろも」
そう言って燈次は泉の背中を覗こうとする。
「うわあああっ!」
泉は慌てて、横方向に転がって回避した。アクションムービ―さながらの動作だ。
燈次から距離を取り、ひと安心。そう思ったのは一瞬だ。
「床が……」
泉が派手に転がったせいで、床にチリソースがついてしまった。カーペットの一部も赤色に染まっている。
さとは怒るでもなく、床のチリソースを拭きはじめた。
「あたし、自分でやるです」
泉はさとから雑巾を奪おうと手を伸ばす。
しかし、さとは泉の手に自分の手を重ね、彼女を止めた。
「優しいんですね、泉さん」
優しいのはさとちゃんのほうですよ。
そう言おうと思ったが、言葉が喉につっかえた。
泉のせいでさとの仕事を増やしてしまった。それなのに、さとは文句も言わず、天使のような微笑みで掃除をしている。
何ていい子なんだろう。
泉の胸の奥で何かがきしむ音がした。
燈次を見ると、彼は机の上にこぼれたお茶を拭いていた。
泉の視線に気づいたようで、燈次が泉のほうを見る。彼は眩しい笑顔で、何かを言おうと口を軽く開く。
燈次の手が泉に伸びてくる。泉の心臓がびくっと跳ねた。
泉は立ち上がり、燈次と距離を取る。
「守らなきゃ。さとちゃんの笑顔を……」
泉は自分の手に向かって言いきかせた。
サンドイッチを食べ終わると、泉は燈次の家を後にした。
自分の仕事場に向かう途中、また燈次の言葉が頭の中に蘇る。
――泉の後ろ姿って、綺麗だなって。
「何なんですかあの人。平気であんなこと言って」
燈次はきっと、何の気なしに言ったのだろう。彼はそういう人だ。
「さとちゃんもよく平気でいられますよね。どこぞのことわざよろしく、大好きな燈次さまの欠点は欠点として映らない、ってことですかね」
そう言ってすぐ、違うと思った。
さとだって、恋のライバルはいないほうがいいと思っている。
泉は彼女の友人として、そういった愚痴を聞いたことがある。
じゃあどうして泉に対しては、いつも温かく接してくれるのか。
「あたしはライバル視するほどの相手じゃねえってことですか」
フッと自嘲笑いが漏れる。
ライバル認定されていないなら、むしろいい。一生、恋のライバルなんかにはなりたくない。
まだ時間があったので、泉は人気のない公園で一服する。タバコの煙が青空に簡単に溶けていく。
――泉の後ろ姿って、綺麗だなって。
燈次の言葉は、しつこいほど蘇る。
仕事場へ向かう前に、泉はホームセンターへ寄った。
いつも掃除に使っている洗剤の売り場へ真っすぐ向かおうとする。
すると……いくつかの棚の先に、見覚えのある人物がいた。
黒くツンツンとした髪。ぱっちりとしたアーモンド型の目。
その横顔は燈次のものだった。
泉は慌てて物陰に隠れる。
「何で燈次さまがここに」
さとの姿もあった。ふたりで何かを買いにきたのだろう。ふたりは仲睦まじげに視線を交わし、別々の売り場に向かっていく。
「見つかる前に、さっさと買い物を済ませるです」
泉は小さく呟き、忍者さながらにそろりそろりと歩きだす。
最初は普通に歩いていたが、途中から背を棚に預けるような形で進みはじめた。
万が一遭遇しても、燈次に後ろ姿を見られないためだ。まだそんなことを気にしている自分がこっけいに思えた。
目的の物を確保し、レジへの最短ルートを考える。相変わらず棚に背がくっつきそうな形で歩いているが、棚の途切れる道ではどうしても背中を隠した移動は難しい。
泉は左右を慎重に確認し、急いで背を離す。
一瞬だった。それなのに、背後で「えいっ」という小さなかけ声がした。
そして誰かに背中をポンと叩かれた。
泉は直感的に、燈次の仕業だと思った。
泉の中で、ふつふつと怒りが湧いてくる。
あたしはこんなにがんばってるのに。あんたを避けるために。さとちゃんを悲しませないために。
それなのにあんたは、そうやって無神経に……。
理不尽な怒りという自覚はあった。泉は自分の判断で燈次を避けているだけ。
それを分かった上でも泉は、つい大声を出してしまった。
「燈次さま、いい加減に!」
振りむくと、ぽかんとした表情の少年がいた。小学校高学年くらいだろうか。見覚えがない顔だ。
少年の目にじわっと涙が溜まる。
「ごめんなさ、……あ」
泉の謝罪を聞く前に、少年は泉をキッとにらみ、逃げていった。
ひそひそと、誰かがささやきあう声がする。
泉はがく然と立ちつくす。
やっちゃった。あの男の子は関係ないのに。ひどい八つ当たりを……。
「泉、大丈夫か」
背後から声をかけられた。間違いなく燈次の声だった。でも泉は、振り返って確認する勇気がなかった。
「あたしって心底、駄目ですよね」
「何かあったのか」
「何もない。そう答えたいのに、言えないんです」
「……言いたくない悩み事があるのか。だったら、無理に言わなくていい」
そうですよ。言えませんよ。
あたしも燈次さまのことが、……なんてね。
泉は自分のパンプスを見つめながら呟く。
「燈次さまさっき、あたしは後ろ姿が綺麗、って言ったじゃないですか」
「そうだな」
「それ、正面から見ると残念って意味ですよね」
「それは誤解だ」
「気を遣わなくていいんです」
「泉は綺麗だよ」
その言葉を聞くと、泉は何故か笑ってしまった。
あーあ。
言わないでほしかったのに。そんなテンプレみたいな口説き文句。
あんたは口説いてる自覚がないでしょうけど、そう感じる人だっているんですよ。
例えば、あたしとか。
泉が足をぶらぶらしていると、燈次が小さな声を上げた。
「……あ」
彼は泉の背後に回り、彼女の背中を覗きこむ。
抵抗する気力を失った泉は、されるがままだった。
「さっきの子ども、こんなことをやっていたのか」
そう言って燈次は、泉の背中から何かを剥がした。
燈次は取ったものを泉に見せる。
それはコピー用紙だった。4辺にガムテープが貼られている。
「この紙が、あたしの背中に?」
そこに書かれた文字を見て、泉はフッと口角を上げた。
彼女の微笑みを見た燈次は、ムッと唇を尖らせる。
「泉を悲しませるいたずらを……。さっきの子の保護者、探してみようか」
「怒るつもりなら駄目ですよ。悪いのは、子どもを泣かせそうになったあたしです」
その代わり。そう言って泉はその紙を燈次の背中に貼りつけた。
「えっ。待って、取れない!」
燈次は懸命に自分の背に手を伸ばすが、彼の手は届かない。
泉は目を細め、自分の唇に手を当て、いたずらっぽく微笑んだ。
「それ、あたしからあんたへの言葉、ってことにしてください」
「ど、どういう意味」
「そのままの意味ですよ」
そう言って泉は、紙に書かれた2文字を読んだ。
1音ずつ、はっきりと、燈次の耳元で囁いた。
そして泉は背筋を伸ばして歩いていく。交互に足を動かし、一直線を描くように、しゃなりしゃなりと歩きつづける。
「……泉っ」
燈次は彼女の背中に向かって、思わずというふうに声をかける。
泉は軽く振りかえり、薄っすらと微笑んでみせる。
止まらずに、そのまま歩き去っていく。
「燈次さま?」
ご主人さまを見つけたさとは、不思議そうに彼の名前を呼ぶ。
燈次は何故か背中に手を回し、ワタワタしている。
燈次の背中に貼られた紙を、さとが代わりに剝がしてあげた。
さとは紙に書かれた文字を読みあげる。
「……ばか」
さとの脳裏に何故か、泉の蠱惑的な微笑みが浮かんだ。
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