最終話 先生と生徒

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時間は21時になっていた。 お母さんに遅くなることを連絡して、先生とゆっくりとした時を過ごしていた。 「…お腹、大丈夫ですか」 「少し痛みますが、大丈夫です」 経験して分かった。 あの時…有紗が伊東に襲われた時。 下腹部を痛がる有紗に私は『殴られたのか』と声を掛けた。 有紗はそれを笑って誤魔化していたけど、こういうことだったんだ。 丁寧に優しくしてもらった私ですら痛みがある。 無理矢理襲われた有紗のことを考えたら…想像を絶する。 私は幸せの痛みだが。有紗は…絶望の痛みだったに、違いない。 先生は立ち上がって、飲み物を用意して来ますと言って部屋を出た。 「…」 私は制服を着て、部屋の中を見回した。 本棚の中にびっしりと入っている本は、先生が数学科準備室の机に置いている本と同じような物。難しそうで、私が見てもサッパリ分からない。 「…あ」 ローテーブルに目をやると、難しそうな本の間に一際目立つポップな本が置いてあった。見覚えのある書体。 これ…『鳥でも分かる!高校数学』だ…。 でもあの本、ボロボロになっていたけど。 今目の前にある本は新品そのものだった。 「真帆さん、お待たせしました」 「あ、先生…これ…」 先生は私の前にマグカップを置いてくれた。 レモネードかな。レモンの甘い香りが部屋に広がる。 「見つけてしまいましたか。それ、②です」 「…あ、本当だ…」 気付かなかった。『鳥でも分かる!高校数学②』だ。 「数学補習同好会は4月から再開します。2年生になったら、こちらの本でお勉強ですよ」 中身をパラパラとめくってみる。 所々に付箋が貼ってあり、先生が更に分かりやすく説明を書いてくれていた。 「その付箋、まだ途中ですけど。次も同じようにしますから。鳥以下の人間様用に…」 「鳥以下…ふふふ。先生、ありがとうございます」 これも先生の優しさだ。補習頑張って、良い点数取りたいなぁ。 そんな気持ちまで湧いてくる。 「さぁ、温かいうちに飲んで下さいよ」 「ありがとうございます。頂きます」 私から本を取り上げ、マグカップを寄せてくれた。 「そういえば、数学補習同好会を4月から再開するって言いましたけど。先生、転任とかは無いのですか」 実は、少し気になっていた。 伊東から「離任式」という言葉を聞いた時。 早川先生も転任する可能性があることに気付いてしまっていたのだ。 「次年度はありません。真帆さんのクラスの数学を担当できるかは分かりませんが、数学補習同好会は間違いなく僕です。何だって、正顧問ですからね」 「良かった…嬉しいです」 マグカップにゆっくりと口を付ける。温かいレモネードが身体中に染みわたる。 「伊東先生の後任で、数学教師が来ることは確定しています。ただ、その人がどんな人なのか全く分かりません」 そうか…。元々2人しかいなかったから、そのうち1人がいなくなると、別の所から違う人が来るんだ。 「真帆さん。若い男の数学教師だった場合…惚れないで下さいよ…」 「…えぇ、何それ。私、数学教師が好きなわけじゃないですし。有り得ません」 「ということは、僕のこと…嫌いってことですか?」 「違います~。何でそうなるのですか…」 私が呆れた声を出すと、先生は笑いながら私の頭をポンポンしてきた。 「ふふ、すみません。冗談です」 そう言いながら小声で、ご年配の女性教師が来ますように…。と先生は祈っていた。 「そういえば。これ…」 先生は小さな箱を手渡してきた。 「…え?」 「今日はホワイトデーです。お返しです」 可愛いピンク色の箱。 「ありがとうございます。開けても良いですか?」 「どうぞ」 リボンを解いて開けると、中からネックレスが出てきた。 「え、可愛い…!」 「安物で申し訳ございませんが、真帆さんにお似合いだと思いまして」 「先生、ありがとうございます。嬉しいです!」 「本当は数学科準備室でお渡しする予定でした。色々と予定が狂いましたが、結果的には良かったです」 「ごめんなさい…」 先生は箱からネックレスを取り出し、首元に着けてくれた。 「やっぱり…良くお似合いです」 首元でネックレスが小さく揺れる。 嬉しい。先生が選んで買ってくれたネックレス。これほど愛おしいものはない。 「補習も2年生になるまでは行わないので、用が無い限り2人で会うことも無いかと思います。…ただ、何かあればいつでもご連絡をください。飛んでいきますから」 「はい、分かりました。先生もいつでも連絡してください」 「ふふふ、今度は見て見ぬふりをしないでくださいね」 「…それは…はい。すみませんでした…」 先生の家から帰る頃には、私の心の中から完全に伊東は消えていた。ちゃんと話せて良かった。 早川先生には申し訳無いことをしたと反省する。 恐らく、もう二度と会うことのない人。 許せないけど…いや、一生許さないけど。 それでも、一時的にでも、好きだった人。 さようなら、伊東先生。  
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