最終話 ここで出会えたこと

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<数学科準備室> 「……嘘でしょう…」 修了式の日の放課後。 数学科準備室には重たい空気が流れていた。 「嘘ではありません。この学校もあと2週間弱となりました」 早川先生の転任を聞いた浅野先生と有紗は呆然としていた。 「み…水くさいなぁ…早川先生も、真帆も。そんなこと大真面目に期日まで黙っていないでさ…教えなさいよ…」 そう言う有紗の目からは一筋の涙が零れた。 「早川先生がいなくなったら、この数学補習同好会はどうするのですか…」 「それは、浅野先生がお好きなようにして下さい。継続させても宜しいですし、廃止でも構いません。しっかり会長と話し合って下さい」 「………」 会長って、私のことか。 …本音としては、早川先生のいない数学補習同好会なんて…無くなっても良い。 けれど、この同好会自体に思い入れがありすぎて…無くすのが惜しかったりもする。 「とは言え藤原さん、今すぐ結論を出す必要はないと思います。…残りの日で、僕はここの荷物をまとめなければなりません。春休み中の活動として、僕の荷造りを手伝って頂けませんか? 副顧問、会長、非常勤会員」 「勿論です…」 浅野先生と同じタイミングで、私も一緒に頷く。 有紗は非常勤会員という言葉が引っかかって首を傾げていた。 早川先生が数学科準備室に置いていたのは、ほとんどが本だった。 しかしその本の量が尋常ではない。 段ボール数十箱分くらいある。 「浅野先生、お読みになりたい本がありましたら差し上げます」 「………いやぁ…あの、恐れ多いです。この本なんて、数学者が読むものですよ。数学教師の範疇を超えています」 「そうですかね? その本は僕が高校生の頃に父から与えられたものですけど」 「……お父さん、凄いですね」 早川先生と浅野先生の会話にまた涙が出そうになる。 それと同時に、段々と殺風景になっていく部屋に寂しさを覚え始めた。 「早川先生のお父さんも数学がお好きだったんですか?」 「…お話ししたことがありませんでしたね。僕の父も高校の数学教師でした。県教育委員会の中では結構名の通った人だったんですよ」 「そのようなお父さんでしたら、難しい本を高校生の子供に読ませてもおかしくありませんね。早川先生は教師になるレールを歩いて来たわけですか」 「…そうなりますね。母も高校の物理教師だったので、高校教師が既定路線だったのかもしれません」 穏やかな表情でご両親の話をする早川先生。 だいぶ感情の整理ができたのか…辛そうな様子は全く無い。 「藤原さんと的場さんも、お読みになりたい本があればどうぞ」 そう言う早川先生の表情はにやけていた。 この人、わざと言っているな。 「私たちでは読めないと分かっていますよね」 「ふふふ、どうでしょう」 「うーん。何か癪だから1冊読んでみるわ~」 有紗は『数学の目線』と書かれた本を手に取った。 数学の目線って…何? 「その本は数学の目線に立って物事を解釈している本です」 「………意味分からん。タイトルのままだし。何より、数学の目線って何」 「読めば面白いです」 「……わかった、絶対読んで面白さを見出してやるから感想を待っておくように!!!!」 「お口が悪いですね。けれど、その日を楽しみにしております」 私も何か良い本が無いか漁ってみる。 難しそうな本の中から、ある1冊の本を見つけた。 『高校数学教師になるには』 「………」 高校の数学教師なんて私には絶対になれないのに。 何故か、無性に惹きつけられる。 「早川先生。これをください」 本の表紙を見せると、一瞬目を見開いた。 そして、ゆっくりと微笑み頷いてくれた。 「勿論です、どうぞ。というか、藤原さんはその本を読まなくても、僕が手取り足取りお教えしますけどね。その気があるのでしたら」 そう言って思い切り笑った。 先生のその一言で、この学校は去るけれど、私たちの関係は続いていくのだと改めて実感する。 「あ、でも藤原さん。正弦定理と余弦定理の公式がパッと出てこないようでは、数学教師への道はかなり険しいです」 「…………べ、別に。数学教師を目指したいってわけではありませんから!! 分かっているので言わないで下さい!! 先生の意地悪!!!」 「ふふ、ごめんなさい。意地悪したくなっただけです」 優しく微笑む先生の姿を見てまた涙が込み上げてきた。 私の涙腺は完全に崩壊している。 浅野先生と有紗がそばで見ていることを忘れ、私と先生は2人だけの空気感で会話を楽しんだ。
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