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日が暮れると店内は再び混乱に陥った。空腹の客達が食べ物の分配で揉め始めたのだ。
「私は議員だ、そしてこの店の本社に巨額の投資をしてる! だからこの店の物は私の物だ!」
丸山が言うと他の人々も続いた。
「いや俺の物だ! この土地は元々は俺の物だったんだ!」
二足草鞋の夫敏夫が怒鳴り、「私は畑にしたかった! 初めから売らなきゃよかったのに!」と妻春子が金切り声を上げ夫婦喧嘩が勃発した。
やがて各々が滅茶苦茶な言い分で店の商品の所有権を主張し始め、しまいに我先にと食糧を鞄に詰め始めた。どさくさに紛れて洗剤等消耗品をバッグに入れる者、一つしかない高価な財布を髪を掴み合い取り合う主婦達までいる。善二はこれが人間の本性かと愕然とした。
「皆さん落ち着いて‼ 店の物を勝手に取らないでくださーーい‼︎」
拡声器で店長が呼びかけるが欲に狂った群衆を止められる筈もない。大人の様子を見た小さな子供達は泣き、高校生くらいの女の子はこの様子を動画に撮り始めた。しまいに店員達も日頃の鬱憤を店長にぶつけ始め、店長は臍を曲げ事務所に引き篭り店員達の仲間割れまで始まってしまいなす術がない。
騒動の間も続く虫達の激突により硝子にはヒビが入っている。
「困ったもんだね」
善二の隣にいた未亡人道子が煙管を吹かしながらつぶやいた。
「これがタヅちゃんの愛した人の姿かい? 情けなくて泣けるよ」
道子は田鶴子が生きていた頃よく家に遊びに来ていたが、善二とは馬が合わずいつも喧嘩をしていたためこの頃は疎遠になっていた。
「本当だな」
「タヅちゃんのお見舞いに行った時に言ってたのよ、『もう私は長くないから、主人をよろしくね。頑固で口が悪くて誤解されやすいけど、心根は優しくて正義感の強い人よ』って。どこまで良い人なんだか」
善二の目に熱いものが込み上げてきた。田鶴子はこの光景を見て何と言うだろう。妻は「根っから悪い人なんてそういない、話せば良い所が見つかるものよ」と言っていた。自分が困っている時ですら他人の世話を進んで焼くような女だった。
非常時になれば人というのは結局自分のことしか考えられなくなる。自分が生きたい一心で他者を犠牲にすることすら厭わない。こんな世の中に生きていたのかと思うとうんざりした。普段善人面している人間もこんな時本質が露呈する。もはや怖いのは凶暴化した虫ではない、他ならぬ人間だ。
いつもは一人身勝手な言動ばかりしていた善二だったが、町の一大事に率先して動くうち、町と人々を救うため何とかしなければという気持ちが高まっていた。だが今となれば全てが馬鹿馬鹿しい。
「下らん、わしは帰る」
さっさと家に帰ろう。こんな自己中心的な人間達のことなど知るものか。田鶴子の庭も心配だ。裏口から出て車を走らせればいい。
裏口に向かう通路を歩いていた時妻が生前言ったことを思い出した。
「あなたはこの町や町の人達のことを考えてるからこそ口煩くなる。あなたのしていることがいつか役に日が来るわ」
善二は考えた。自分のしてきたことは果たして人の役に立ったのだろうか。度重なるクレームにより職員達の時間を奪っただけで、誰も自分の話など真剣に聞いてはくれなかった。ただ一人妻を除いては。その妻も今はいない。一人になって余計に善二は卑屈になり攻撃的になり、やりようのない怒りを世の中にぶつけながら生きていた。世の中のためを思っていたのは確かだが、何より妻が死んだのを、今の自分の状況を世の中のせいにしたかったのだ。
文句ばかり垂れる糞爺のまま死んでいいのか? 妻に見せたいのは護るべき町と他人を見捨てて逃げるみっともない自分の姿なのか?
善二は拳を強く握り、踵を返して店内に戻った。
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