あの日の約束

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 優幸の誕生日のちょうど一か月前、優幸が徐に口を開いた。なにかを考え込むような、長い沈黙をしてからだった。 「俺の誕生日には絶対うちに来い」 「え?」 「絶対だ」  どうして、と聞いてみたけれど答えてくれない。だがこれは「一緒にすごそう」という誘いだろうかと胸が高鳴る。優幸が少し頬を赤らめていることもあり、誕生日は来月なのにもうそわそわしてしまうのだった。  それから優幸の様子はずっとおかしかった。目が合うと逸らされるし、なにかを言いにくそうにして、なんでもないと背を向ける。どうしたのだろうと話を聞こうとしても優幸が口を噤むので聞けない。  そんな日が続いてあっという間に優幸の誕生日になった。優幸はあいかわらず様子がおかしい。こんな状態で楽しい時間がすごせるのだろうかと悩みながらも和音は張りきった。今日の片づけはいいと言われていたけれど、やはり気になるので簡単に片づけをして食事を作る。優幸の好きな具沢山のスープと、食べたいと言っていたあさりのパエリアを作り、来る途中で買ってきたシチューポットパイとキッシュを温める。  時計を見るとそろそろ優幸が帰ってくる時間で、同時にメッセージも届いた。『もうすぐ帰る』という文字を何度も読み返しては口もとを緩ませる。用意したプレゼントをバッグから出してそわそわしていたら、玄関のドアが開く音がした。  急いで出迎えに行くと、優幸と女性が入ってきた。すっと背が高くて控えめなメイクを施した綺麗な女性は和音を見て微笑む。長身の優幸と並ぶとまさに美男美女だ。  どういうこと、と優幸に聞こうと思うけれど、和音の頭の中にはもう答えが出ている。この人は間違いなく恋人だ。誕生日の夜に自宅に招くなんて、それ以外考えられない。それならばどうして和音に絶対に来いと言ったのだろうかと考え、思いつく。たぶん恋人を紹介したかったのだ。優幸は緊張したような表情で和音を見ている。 「えっと……俺、帰るね」  結局口から出たのは逃げだった。急いで荷物をとりに行こうとすると後ろから肩を掴まれる。 「なんで帰るんだ?」 「だってこの人とすごすんでしょう? 紹介したかったのはわかったから」 「はあ?」  優幸と和音のやりとりを聞いていた女性がくすくすと笑い出す。声も綺麗だ。 「本当に可愛いのね」  恥ずかしくて縮こまると、優幸が和音の肩を抱く。 「おまえがいないとメインイベントが始まらない」 「メインイベント?」  まさか三人で誕生日パーティーをするのだろうか。仲良くすごす美男美女――優幸と女性と一緒だなんて残酷すぎる。 「やだ。帰る」  和音がバッグを持つと、その手をとられた。テーブルの上を見た優幸は柔らかく目を細める。 「いいからこっちこい。食事の前に大事な話だ」  ソファに連れて行かれ、そうまでして和音に彼女を紹介したいのかともやもやする。優幸と女性が並んで座るだろうから、と向かい側に座ろうとしたら優幸の隣に座らされた。向かいに女性が座る。 「なにか勘違いされてるみたいだけど?」  女性が優幸をちらと見てから名刺を差し出すので受け取ると、そこにはジュエリーデザイナーと書かれている。 「俺と矢田のなにを誤解するんだ」 「信用されてないのよ」  女性――矢田がまだ笑って優幸を見ると、おもしろくなさそうな優幸はむすっとした顔をする。疑問符を浮かべる和音の前に矢田がバインダーファイルを広げた。そこにはいろいろなデザインの指輪の写真やデザイン画があり、本当にどういうことかわからなくなったので隣を見る。 「ほんとになんなの?」 「まさか和音は俺の嫁になるって約束忘れたのか」 「俺は覚えてるよ。優幸さんこそ忘れていたんでしょう?」  和音の大切な思い出を突然持ち出されてどきりと脈が速くなった。 「やっぱり信用されてないみたい」  矢田はまだ笑っている。子どもっぽい言い方だっただろうかと恥ずかしくなったが、それより現状がわからない。 「これから信用してもらうんだ。そのために矢田に来てもらったんだからな」  意味がまったくわからずにいると、優幸が和音の額を指で押す。 「鈍いな。俺と和音の結婚指輪を作るんだよ」 「はあっ!?」  素っ頓狂な声が出て、慌てて口を手で押さえた。 「つき合ってもいないのにいきなり結婚?」  平静を保つには突拍子もない話すぎて混乱する。 「は?」 「そもそも優幸さんは俺が好きなの?」 「おい」  次々問うと優幸の表情が歪んだ。心外だ、と言いたそうな顔だ。 「じゃあおまえを他の誰かにやれって言うのか? 勘弁してくれ」 「えっ」 「こんなに和音が好きなのに気づかれてなかったのも虚しいな」 「ええっ」  すべてが「どういうこと?」で頭がついていかない。そんな和音を見て優幸が表情を真剣なものにする。 「いいか。俺は和音が好きだ。おまえは俺が嫌いか?」 「す、……好きだけど」 「『だけど』、なんだ?」  形のいい眉が片方ぴくりとあがったから、言葉を慎重に選ぶ。 「結婚って……」 「異議ありか」  詰め寄られてうっとなる。整った顔は見慣れているけれど、こんなに真剣な表情はあまり向けられないから緊張してくる。 「い、異議なんてないんだけど、いきなりすぎて」 「だからお相手に相談してからにしたらって言ったのに」  優幸と和音の会話を聞いていた矢田が呆れ顔をした。優幸はむっとした顔をして、「でも」とか「それは」とか言っている。  優幸はこんな人だっただろうか。もっと大人でいつでも余裕があって、どんなことも簡単にこなす恰好いい人だったはず。だが、今隣に座る男は気まずそうに目を泳がせながら頬をわずかに染め、和音の様子をちらちらと窺っている。思わず「可愛い」と口に出た。 「可愛いとか言うな」 「だって」 「……和音が嫌ならまた仕きり直しにするか」  ものすごく残念そうな優幸に笑いが込みあげる。笑わずにいられない。 「そんなのやだよ」  バインダーファイルを閉じようとした矢田が口もとを緩める。和音が言いたいことがばれているようだ。 「せっかく矢田さんに来ていただいたんだし、それに俺は優幸さんが好きだから指輪作りたい」  語尾が消えそうになったけれどなんとか伝えられた。優幸がはにかんで和音の頭を軽く小突いた。 「もし矢田さんがよければ、食事を多めに作ったからご一緒にいかがですか? その後にゆっくりお話しできれば」  和音が矢田に聞くと、矢田は向かいの優幸の顔を見る。和音も隣を見る。 「……和音がそう言うなら」  少しおもしろくなさそうだけれど、主役のオーケーが出たので三人で、だけど和音が想像したものと違う食事を始める。  矢田はスープもパエリアも褒めてくれた。キッシュが気に入ったようで、買った店の話で盛りあがっていると優幸がむすっとしていた。 「あの、優幸さんと矢田さんってどういう関係なんですか?」  ずっと気になっていたことを聞くと、優幸が「ああ」と頷き、それから「なんだ、嫉妬してたのか?」と続いた言葉がそのとおりで胸に刺さった。 「大学のときの友達だ。前に飲み会で集まったときに再会したんだよ。新卒で入った会社をやめて、ずっと好きだったジュエリーのデザインの勉強をしてデザイナーになったって聞いて、和音との結婚指輪を作りたいって思い立ったんだ」 「つき合ってもいないのに発想がすごいね」 「それは……」  和音は少し呆れるけれど、優幸も反省しているようなのでこれ以上は追及しないことにする。だが可愛い優幸が見られるならもう少しだけ意地悪をしてみたいという気持ちもあったりする。  食後に指輪のデザインの話し合いをした。 「和音の指に合うものならなんでもいい」 「優幸さんもつけるんだから」  一緒に見て、と服の袖をつまむと、優幸は眦をさげてバインダーファイルを覗き込んだ。 「そうだな――」  デザイン決めはとても楽しい時間だった。  ひととおり確認をしてから矢田が帰ると、和音も帰り支度をする。 「帰るのか?」 「いつも帰れって言うじゃない」  そんなに寂しそうに言われても、優幸は泊まることを今まで許さなかった。和音だって寂しいが、無理に泊まるということもできない。強張った頬をつついてやると、その手をとられた。 「本気で和音だけが好きだ」  真剣な表情での告白に頬が熱くなる。この言葉は何度聞いても慣れない。 「一生離したくない。ずっと一緒にいるのは和音じゃないとだめだ」 「うん。俺も優幸さんが好き」  でも、とつけ加える。 「びっくりしすぎて心臓が止まると困るから、これからはまず相談してね」  優幸が眉を寄せ、「ごめん」と呟きしゅんとする。あまりいじめるのも可哀想だ。 「嬉しかった」  笑ってみせると笑みを返してくれる。両手で頬を包まれて、きゅっと潰された。こういうシーンでする行為ではない。 「俺、帰らないと」 「帰さない」  頬を包んでいた手でそのまま抱きしめられる。 「帰りたかったら俺の腕を振りほどいていけ」 「……そんなことできるはずないでしょう」 「知ってる」  額を合わせてどちらからともなく唇を重ねる。ずっと願った優幸との口づけ。まさか現実で唇を合わせることができるなんて思わなかった。 「帰るか?」 「…………帰らない」  もう一度キスをして、和音も優幸の背に腕を回した。
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