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鳴りやまぬ蝉の声。さんさんと照り付ける太陽。雲一つない青空。
そんな天気とは対照的に、私の心にはどんよりとした曇り空が広がっていた。
それは、なぜか。
「まっじでプールとかダルいんだけどーーーーー」
日向の声が更衣室中に響く。
そう、今日はついに水泳の授業が始まってしまうのだ。
私たちは校舎の隅にある更衣室で水着に着替えていた。皆久しぶりのプールにドギマギしているのか、いつも以上に更衣室の熱気は強く、女子のおしゃべりは鳴りやまなかった。
「なんで中学生にまでなって男子と一緒なんだよ。男女別にしろよー」
「ほんとそれ。こんなピチピチだと身体のライン出ちゃうから本当ムリ」
これは私も同感だ。こんな田舎町の少人数学級では男女別なんてできるほど教員の数が足りていないのだ。恨めしい。
「やっばいウチ腋毛剃り忘れた!」
「うっわ、わたしも足剃り残してる!」
これも同感だ。私も昨日の夜、1時間ムダ毛と格闘した。女子は水泳前の準備から死ぬほど時間がかかるのだ。
女子更衣室という名の女の園での女子たちは、教師や異性の視線から解放されたからか、意図せぬ本音が漏れやすい。
私はそんな彼女らの本音に勝手に同感しながらも、さらに強いため息をもらす。
私も、男子に身体を見られることよりや、ムダ毛を剃り残すことが本当に嫌だ。でもそれまでなのだ。
私は水泳にそれ以上のトラウマを抱えている。
――小学の6年生の時
「クラス全員が25mを泳ぎきる」という目標が立てられた。加えて、この目標を達成した暁には、担任が自腹を切ってお菓子パーティをすると確約したのだ。
こんな一大イベントに田舎の小学生が飛びつかないわけがない。当時からクラスの中心だった一条君や唯を中心に、クラスメイトたちは熱心に泳ぎに精を出すことになった。
しかし、だ。運動音痴はたった1か月で治るものではない。泳げない奴は1か月練習したところで泳げない。
皆がスイスイと水面をかき分けていく中、私はこぽこぽとプールの水を飲みながら、半分溺れていた。必死に酸素を求める死にかけの獣のように。
さぞ無様だっただろうが、構ってられなかった。必死だったのだ。これで失敗すればクラスの悪感情を一手に引き受けてしまうことになるのだから。
いざ泳ぎのテスト当日となった日。
皆が軽々と25mを泳ぎ切る姿を凝視しながら、私の心は大荒れだった。
本当に泳げるのか。いや泳げるかじゃない、泳ぎ切るのだ。そんな自己暗示をかけながら、入水する。
担任のホイッスルと同時に顔を水につけ、思い切り壁を蹴る。
泳げない私にとって、この蹴伸びで何m稼げるかが肝である。
もう進まないと察すると、全力でバタ足を開始する。とにかく前に進む、その一心で。
そのうち息が苦しくなってきた。息継ぎはクロールの最難関ポイントである。
一歩間違えれば口を開けた瞬間に水が入り込んでくる可能性があるのだから。そうなれば溺れるコースまっしぐらだ。
とにかく顔を上にだす。顔を上に、上に。
意を決して水面から顔を出す。よかった!空気が吸えた!
そう安堵したのもつかの間。見えてしまった、地上のプールサイドの様子が。
私を指さして嘲笑う男子の姿。水中にいても聞こえるその笑い声が、私の心を突き刺した。
水中に居ながら、体温がカアアアっと急上昇する感覚がする。もう、息継ぎはできない。そう悟った私は、わずかな酸素で泳ぎ切る決意をした。
まあ、そんなのが続くはずもなく。私は20m地点で泳ぐことを諦めてしまった。
死にそうな息遣いで起き上がった私を、クラスメイトたちの視線が射貫く。
先生までも、あっけにとられていたのだと思う。当の私も、もちろん理解していた。
完全にやってしまったことを。
案の定、私のせいで目標は達成ならず、ご褒美のお菓子パーティは中止となってしまった。
先生もクラスメイトたちも、目標など最初から立てていなかったかのように、いつもの日常を過ごしていた。
けれど私は知っている。クラスメイトたちの陰口の話題に、たびたびこのお菓子パーティ事件が登場することを。
ふとした時の会話で口から出るのだ。
「そういえばあの時のお菓子パーティって結局どうなったんだっけ」
「あれ琴子だけ泳ぎ切れなかったんだって」
「まじありえないよねー」
――そんな魔の記憶をよみがえらせていると、段々着替えることすらも億劫になっていく。
本当に今日水泳やりたくないな。もうお腹がキリキリしてきた気がする。
その時、ふと隣で着替える愛乃ちゃんに目を向けると、彼女は水着ではなく、体操服を着ていた。
あ、愛乃ちゃんプール入らないんだ。
「今日もしかして、あれ?」
遠まわしに声をかける。
「うーん、本当は生理ではないんだけど、今日やる気起きないからズル休みつかっちゃおーって思って」
そう言って笑う。本当に彼女はこういうところ肝が据わってるよなー。
生理休みってズル休みで使うと心臓に悪いんだよなー。
いいなー。私も休みたいなー。でも怒られるの怖いんだよな。
ん?いや、愛乃ちゃんも一緒なら怖くないんじゃないか。幸い今日は体操服も持参してきた。今日くらい生理でズル休みしてもいいんじゃないか。
お腹も痛いし、これはれっきとした体調不良だ。
体調不良という免罪符を棚に上げた自分が取る選択はもちろん、
「じ、じゃあ私も今日ズル休みしちゃおうかな」
そう言って体操服に手を伸ばしたとき―――
「琴子って部活やめたらしいよ」
「えー最近唯ちゃんたちといないのってそういうこと?」
「ハブられてんだよ。最近愛乃なんかと、つるんでるし。どっか変だと思ってたんだよー」
そう言って乾いた笑い声が聞こえて来る。ここは女の園。みんなが思わぬ本音をこぼしやすくなる魔性の空間。
その本音の対象が同じ空間に居ようとも。
隣の愛乃ちゃんにも彼女らの会話が聞こえていたのか、なんとも気まずそうな苦笑いを浮かべていた。
―――やっぱ部活辞めた奴の評価ってそんなだよな。どーせ私はハブられてたよ、2-2-1でね。
いつもの私なら笑ってごまかした。その実、傷ついた心から血をドボドボと落としながら。
家に帰って一人で泣いていただろう。
けれど、不思議なことに今の私まったくもって悲しさなんてものを感じない。その代わりに、ただひとつの感情に支配されていた。
それは、紛れもない怒りである。
私は怒っていたのだ。同じ空間に居ながら自分の陰口を叩かれたこと。仲良くなれた愛乃ちゃんを侮辱されたこと。そして、自分の選択を否定されたこと。
私は確かに逃げた、退部という形で。けれどこれは、ただ逃げたのではない。戦うために逃げたのだ。
そんな怒りに支配された時、私今の自分を振り返る。
私はなぜプールから逃げようとしているのか?これは戦うための逃げ、か?
いや違う。これは“ただの”逃げだ。
私は絶対にこんな田舎に負けない。こんなところ絶対に出て行ってやる。
掴みかけた体操服から手を離し、私は勢いよく服を脱ぎ捨てた。そして愛乃ちゃんに向けて、力強く宣言する。
「いややっぱり、私プール入るね」
たとえ一人泳げず馬鹿にされたとしても、私はこの田舎に立ち向かってやる。
そう意気込んでいた私の耳に思わぬ声が飛び込んだ。
「私もプール入る!!」
そう言って愛乃ちゃんはきれいなポニーテールを勢いよくほどいた。
フローラルなシャンプーの良い香りが漂う。
彼女は髪の毛を高いお団子にしながら私に声をかける。
「一緒に頑張ろうね」
それが“水泳の授業を“という限定的な意味であったかは言うまでもない。
私たちは燃えたぎる炎を宿した目をカチ合わせ、共闘を誓ったのだった。
「お前らほんっとうにカナヅチだな~」
笑いながら呆れ顔をする体育教師。
私は言わずもがなだが、愛乃ちゃんもかなりのカナヅチだった。
いつもなら、後ろから迫りくるクラースメイトのクロールが恐ろしかった。なかなか進まなずレーンに居座り続ける私に舌打ちをする男子や、怒るに怒れない教師の微妙な顔が、なんともいたたまれなかった。
けれど今日は違う。隣を見れば私と同じように、前に進めない可愛らしいカナヅチがいるのだ。
「お前らがいるとレーンがつっかえるから、二人は一番端のレーンで特別練習な」
そう言って先生は私たちを隅の第6レーンに追いやり、超初歩的な水泳講義を始めてくれた。
昔の私だったらこんな待遇恥ずかしくて仕方なかった。けれど今は恥ずかしさなど微塵も感じない。ひとりではないから。
ひとりなら恥だった。しかし、愛乃ちゃんと一緒ならこんな自分も個性だと思えるような気がしたのだ。
そんな前向きな感情で一心不乱に泳ぎ続けていると、愛乃ちゃんが話しかけてきた。
「なんか、あれだね」
「?」
「愛乃たち、ふたりだけ亀さんコースだね」
そう言ってフフッと笑う彼女はなんとも可愛らしかった。
それからどのくらい泳ぎ続けたのだろう。授業終盤になると、先生がなんとも嬉しい指令を出してくれたのである。
「今日は最初の授業だから、5分だけ自由時間なー」
そう言うやいなや、男子を中心に叫び声がひびく。やっぱり皆自由時間が嬉しいのだ。
…かくいう私も。
二人してプールサイドから足だけ水に浸し、チャプチャプしながらおしゃべりをしていた。
泳げないなりに、すみっこで必死に泳いでみるのが楽しかったのか、私の興奮は冷めやらなかった。
「私、初めて水泳の授業が楽しいと思った。なんか。」
「愛乃も!!!」
同意してくれたことが嬉しかったのか、私はさらに問わず語りを展開していた。
「小学校の時さ、私のせいで全員25m泳ぐ目標が達成できなくて、お菓子パーティが流れたやつあったじゃん?私あれがとんでもなくトラウマだったんだけど。今日すっごい楽しかったなあ」
そう心からの本音を語ると、目の前の彼女はキョトンとした顔を向けてきた。
「え?あれ愛乃のせいだよ?」
いきなりよくわからない発言をしてきた愛乃ちゃんに驚きつつ、困惑顔をしていると、彼女は笑いながら続きを話してくれた。
「愛乃さ、すっごい水泳嫌いだから小学校の時も生理でズル休みばっかりしてたんだけど、それが担任にバレて死ぬほど怒られて。で、その時に担任が“もうお菓子パーティなんかやらん”って」
えええええ。言われてみれば確かに、小学校で泳げない子がいたからパーティ中止とか、いじめにつながりそう案件でしかない。そんな愚策を教員が取るかと問われれば確かに。
突然のネタばらしで罪の意識から解放されたからか、呆然としていると、彼女はさらに言葉を重ねた。
「ねえ、今年の夏休みさ二人で町のプール行かない?」
「!?」
それはつまり、休みの日に!二人で遊ばないか!という誘いなのですか!!
「行く!!行きたい!!!」
私は興奮をそのまま声に乗せ、同意の言葉を返した。
それから二人でスク水で市民プールはダメだよねなんて言いながら、どんな水着を着るかという話題に花を咲かせていたのだった。
初めての楽しいプールに浮かれすぎたのか、その後の授業は死んだように眠気との戦いだったのは言うまでもないが…(笑)
―――帰宅後
「今日ね、プールがあったんだけど、初めて楽しいと思えたんだよね」
そう言って口が止まらない私を、由希ちゃんは笑いながら、うんうんと聞いてくれた。
「琴子さ、うれしくて仕方ないって顔してるよ。尻尾をぶんぶん振ってるワンちゃんみたい」
「え!?」
そんなに私は興奮冷めやらぬのか。やはり愛乃ちゃんに遊びに誘われたことが、自分のことながら、よほどうれしかったらしい。
「じゃあ私とは一緒に水着を選びに行こうね」
そう言って由希ちゃんは食後のコーヒーを口に運んだ。
今日はなんて良い日なんだろう。
「行きたーい!」
そう言ってまた、私の夏の予定が埋まった。
そうだ、ついにやってくるのだ。
待ちに待った夏休みが。
続く
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