変わらぬ思い

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変わらぬ思い

 一年ほど前─。  ここは愛知県東部、足込町。里山に囲まれた小さな町である。  このあたりではやや標高の高い山である、明神山の麓の近く。  二階建ての日本家屋を母屋とする、一軒の民家があった。  その民家の二階の一室で、一人の女が、東側に設けられた窓を開け放った。  わずかに湿り気を帯びた風が入ってくる。  風を顔面に受けながら、美津子はしばし呼吸に意識を向ける。  この窓は両開きで、内障子がある。  肩よりも少し長い位置で切りそろえられた黒髪が、風に揺れる。つややかな、オレンジがかった黒髪。  窓枠の内障子、隣の部屋とを隔てる仕切り戸は源氏襖。やわらかであたたかみのある生成り色の土壁。柔らかいコルクボードの床板。  八畳のほどのその部屋は、和のたたずまいであるのに、照明は趣向が異なる。  すずらん形のシェードを三灯吊るした、アンティークなシャンデリア。すずらんのシェードは斜め外向きに開く形で吊るされ、色は乳白色。シェードを支えるアームは真鍮だが光沢はなく、優雅なカーブが蔓のようだ。木製の土台はこげ茶で重厚感があるが、華奢なアームと不釣り合いなほど太くはない。  揃いのシェードが、部屋の入り口である引き戸の近くにも一灯、これは真下を向いて密やかに設けられている。  そしてもう一つ、和室にそぐわない異質な存在が、その部屋の中心に座している。  高貴な紫色の、つややかなクロスに覆われているそれは、シングルサイズの木製ベッド。  美津子は窓を背にし、ベッドを周り込んで再び窓のほうを向く位置に立った。  クロスを隔ててベッドに置いた編みかごから、壺のようなものを取り出す。  壺は大きく、平べったい水盆形。壺の真ん中あたりに、波打つような模様と、丸くカーブを描いた格子柄が施されている。銅製だが、光沢はなく、使い込まれたものと分かる。  後ろを振り向き、美津子は部屋の隅に歩みを進めた。入り口側の土壁の近くには、ひっそりと佇む、木製のスタンドがある。一見コートスタンドに見えるが、アームは一つしかない。大人の肩から指先ほどの長さのアームの先は、上向きに曲がり、何かをひっかけても落ちないようになっている。  美津子はそのアームの前で立ち止まり、壺の中に手を入れる。  リング形の金具を親指と人差し指でつまみ、上に持ち上げると、ジャラジャラと音を立てて鎖が伸びた。鎖は壺の上端三か所と繋がり、壺を吊るすためのもらしい。  美津子は金具をアームの端にかけ、壺を吊るした。  美津子の背より高いスタンドと、そこから伸びるアーム、そしてそのアームから吊るされている銅製のポットこそ、異質な存在に見えるのに、不思議なほどこの和室によく馴染んでいる。  かすかにエンジン音が聞こえ、美津子は源氏襖を両側に開いた。  隣は四畳半ほどの広さの部屋。  南側と東側に窓があるが、ここは内障子ではなく、カーテンがかかっている。ふんわりとしたレースカーテンが窓の中央まで閉められ、窓の両縁には、クラシックなダマスク柄のピンクベージュのカーテンが、共生地のタッセルにきちんと収まっている。そのためか、今までいた部屋よりも、和室っぽく見えない。  部屋の中央あたりにはペンダントライトがぶら下がっている。シェードは一つだけ。隣室と揃いの乳白色のすずらん。斜め外ではなく真下を向いている。  東の窓の近くにローテーブルと飾り棚、西側の壁に沿って化粧台が置かれている以外には、目立った調度品のないその小さな部屋を、美津子は颯爽と横切った。  南側のレースカーテンをシャッっと開き、窓を開ける。  視界いっぱいに、新しい葉を伸ばした草原と、新緑を湛えた山裾が広がる。  眼下には広い庭と、敷地内に作った畑。  ほどなくして、生垣の槙の木の間から、誰かが正面門に近づいていくのが見える。  美津子は開けたばかりの窓を閉め、レースカーテンをひっぱった。  和室に戻り、窓を閉め、内障子も閉める。空気の入替ができたのは、ほんの束の間だった。   「ご縁さま」  階下に降りた美津子は、やがて一人の客を玄関で出迎えた。 「棚経で近くに」  深い低音が短く途切れた。  涼感のある黒紗の改良衣を着た僧侶が、くっきりとした穏やかな目を柔らかく細めた。  玄関のたたきとホールの段差にも関わらず、二人の目線は同じくらい。  僧侶はそれほどに背が高かった。体の線を隠す法衣を着ていても分かるくらい、体格の良い、大柄な男だ。  男は、足込善光寺の住職、加藤幸永僧侶。 「時間がなければ、ここで良い」  そう言って加藤が左の袂に右手を入れようとするのを、 「いえ、お上がりください」  美津子はそう声をかけて遮った。  階段のあるホールを横切り、東側の扉を開けて応接間に入る。 「お茶でも」  加藤を振り返って声を掛けたが、加藤は視線を前方にやったまま小さくかぶりを振った。  加藤はこの頃、六十を過ぎたところだ。しかし肌の色は健康そうな濃い小麦色。 「仕事があるだろう。すぐ帰る」  その場を離れようとした美津子を、加藤は軽く制した。  南北に長い応接間。東側に窓が連なっている。カーテンこそ閉められていないが、この清々しく過ごしやすい時節、窓を開けていなかったということは、帰ってきたばかりか、これからどこかへ出かけようとしていた、ということだ。  ここは一日の中で、美津子が最も長い時間を過ごす場所。そう知っているからこそ、加藤はそう思った。  二人は長机の両端に、斜めに向かい合う位置に座った。 「これを返しに」  座ると間もなく、加藤が袂から取り出したのは、小さな長方形の電子機器だった。  両手を差し、恭しくそれを受け取る。  美津子の両手に収められたのは、白いICレコーダーだった。 「役に立ちましたか」  少し恥じらうように身をすくめた。しかし、自然と口角は引き上がり、くっきりとした二重瞼の大きな目は、加藤の目をまっすぐに見据えていた。  加藤は静かに微笑み、しかし首をわずかに傾げる。 「なかった習慣を、実践させようというのは、難しいものだな」  視線を机に落としていたが、視界に入る美津子の口元が、先ほどより萎んでいくのが分かった。 「その者が乗り気でない場合は、特に」  淡々とした話しぶりだった。声色からは、自嘲しているのか、失望しているのか、分からない。  加藤は伏せていた顔を上げ、美津子と目を合わせた。  美津子はもう、微笑んではいない。  そのまなざしから、加藤は美津子が心に浮かべた感情を汲み取る。  加藤は美津子を労わるように、目だけで笑ってみせた。お前のツールが悪かったわけではないのだと。  加藤の目尻に、皺が濃く刻まれる。  頭の形が良く、坊主頭であるのに、この男が不思議なほど端麗に見えるのは、きらきら輝く光を宿した大きな目のせいか。  斜め向かい合って座る加藤の膝のあたりに、今度は美津子が視線を落とした。 「実は、私も似た心境になっていました」  そう言って、ほう、と息を吐く。 「どうした」 「先日、一人のクライアントをここへ迎えたのですが」  美津子は左肘を、長机におき、両手の五本指を組んだ。 「気持ちの入れ方が、変わってしまったように思いまして」 「お前の、クライアントに対する気持ちの入れ方が?」 「はい」  加藤は黙って、言葉がつづくのを待った。  この洋室の南には、もう一つの部屋があり、部屋と部屋とを遮る引き戸は、通常開け放たれていた。  南の居間には掃き出し窓があるため、この部屋よりも光がよく届く。  カーペット貼りになっている南の居間には、東の壁に沿ってソファとローテーブルが置いてあった。  美津子は加藤を視界の隅におきながら、ぼんやりとその調度品を見つめ、ゆっくりと視線を近くの物に移していく。  骨董品のティーカップを閉まった飾り棚、東の窓に沿って連なる引き戸棚。  機能性がありつつも、心地よい空間になるようにと、美津子が選んだものばかりだ。 「アーユルヴェーダのセラピーは、ヒーラーが参加した時にのみ癒しになる」  美津子は再び視線を加藤に合わせた。  アーユルヴェーダ。  果たしてこの言葉を知っている者が、どのくらいいるだろうか。 「この医療は、魂が入っていないと、クライアントを良い方向に導けません。それなのに、必死さに欠けてしまったような」  美津子は独り言のように、淡々と言った。  美津子の仕事は、アーユルヴェーダをツールとして、クライアントをバランスの取れた状態へ導くこと。  この家は、美津子の住居であると同時に、クライアントが本来の自分を取り戻すための、癒しの場所。  ここで、クライアントの毒素を溶かすことに集中してきた。  身体だけでなく、心の毒素も。  どのように人は癒されるのか。  その過程や最適な方法は、一人ひとり異なる。美津子はそれを、クライアントの内から探し出し、相手に伝えてきた。  そして、そういう美津子を尊敬し、見守ってきた加藤であった。  古くからの盟友のようなこの女が、愚痴めいたことを言うのは珍しい。 「アーユルヴェーダの治療には、ヒーラーの他に、もう一人、特別な人が関わっている」  低い声が響く。静かに語りかけられているはずなのに、その声の波動は、全身に浴びせられるようだ。 「クライアント自身に思いがたりなかったと…必死さに欠けていたと…そういうことじゃないのか」  加藤の言う「思い」とは、変わりたいと願う気持ちのことだろう。 ─そうだ。アーユルヴェーダでは、自分の健康の責任は、自分が持つ。  もう一人とは、他でもない、クライアント自身。美津子にとっては言わいでものことであった。  加藤は改めて、美津子の仕事の複雑さを思う。  健康を取り戻す旅を、アーユルヴェーダに導かれたいと願うクライアントを、この家に受け入れる。  忙しい現代社会を生きていると、どんなバランスの乱れがあるのか、その原因などは、当の本人ですら、把握できていないものだ。  それなのに、美津子は会ったこともない他人のそれを、あらゆる手段を通してなるべく詳細に把握する。  バランスが崩れた原因を、クライアントの内から探し出す。  原因と結果を結び付ける。  クライアントにこれを理解してもらった上で、原因を根こそぎ排除することを促す。  実際に原因を排除するのは、クライアント自身。クライアントは、自らが自分の医者となって、意図的に自分をケアしなければならない。  でもそれは難しい。  不調の原因が、長年習慣になっていることや、好んで食べているものだった場合、それらを排除するのは、苦痛を伴うからだ。  頭では理解できるし、納得していても、行動には起こせない者は多い。  そもそも、指摘された原因を否定する者、嫌悪を抱く者もいる。  ヒーラーがどんなに粘り強く、原因と結果のつながりを説いても、最終的に変容を起こせるかどうかは、クライアントに委ねられている。  だからこそ、アーユルヴェーダの治療は、優れたドクターがいても成り立たない。クライアント自身が参加する必要がある。  クライアントが自分自身に本気で向き合う気がなかったら、ヒーラーにできることは、限られてしまう。  だから、加藤の指摘は、見当外れではない。 「ここに来るクライアントの本気度には、ばらつきがあります」 「そうだろう」 「お客がどうあろうと、行動を起こせるよう、知恵と手段を尽くすのも、ヒーラーの役目」 「…」 「それなのに、相手がほしいものを渡すことにエネルギーを注ぐことなく、行動しないなら変化も望めないが、私は知らぬと、そういう気持ちになってしまいました」 「珍しいな。お前に惰性など」  美津子は嘲笑を浮かべてかぶりを振った。 「私も、人間です」 「悪魔や妖怪の類と思ったことはない」  茶化すように加藤は言った。二人はお互いを見るともなく見て笑った。 「あるいは」  美津子は笑いを鎮め、 「感染症で規模を縮小していたのを、元に戻したにも関わらず、お客の足が遠のいているので、拗ねた心地になっているのかもしれません」 「であるなら、なおさら一人ひとりを大切にしなければ」 「はい…いいえ。嘘をつきました」  今日の美津子はいつになく、歯に物が挟まった言い方をする。  思考を巡らせながら話しているのだろう。  答えを出したいのに出せない問いがあるらしい。  あともう少しのところで、答えに気付けるような気がするのに。 ─直観力がほしい。  無意識にそう願った自分に気づき、美津子はふふっと苦笑する。 「このツールが必要だったのは、私なのかもしれませんね」  そう言って、先ほど僧侶から受け取ったICレコーダーに左手を伸ばす。  その手を、加藤はただ目で追っていた。 ─直観…か。  しかし、気付きを得る方法は他にもある。  例えば、こうして問答することによっても、気付きは得られるはずだ。  そして、自分の問いから、気付きが与えられるのであれば… 「自分の人生で果たすべきと思うことが」  再び、美津子は波動を感じる。 「今までとは微妙にズレてきたのかもしれないな」  美津子はICレコーダーから手を引き、両手を膝に置いた。  もう苦笑いも浮かべていない。 ─目的。  自然と、瞼が閉じた。  核心に触れた。熟考すべき対象が見えた。  そこをもっと深堀したいのに、同時に全く別の想念が起こって、美津子は心の中で、加藤に手を合わせた。 「感染症の最中、仕事が少なくなって、時間ができた時」  浮かんできた考えを、そのまま、ゆっくりと声に出す。 「このまま、畑仕事と、コラムを書く仕事だけをして、余生を過ごすのも、悪くないと思ったんです」 「六十にも満たないやつが、もう余生とか」 「それほどに、あかつきでしてきた仕事には、ある程度満足したということでしょう」 「ふん」 「でも、これは仕事に生きてきた女の執着なのか。やっぱり、まだ足りないと思ったんです」 「まだできることがあると?」 「ええ。でもそれは、今までしてきたことと、少し違う」 「…」 「自分自身が何かを成し遂げることについては、もう、私の人生の優先順位の中で、上位ではなくなったのかもしれません」  思ったことが口に出ていた。  いつしか虚空を捉えていた視線を、再び加藤に戻し、美津子は、ごまかすように言葉を紡いだ。 「すみません。心の声が漏れてしまいました」  加藤は何も言わず、目を細めた。  一方通行な妹の話を優しく聞いてくれる、兄のようだと思って、美津子はふふっと笑った。 「それによくよく考えれば」  美津子は、どこを見るともなく、視線をあたり一面に泳がす。 「一人で畑仕事だけをして暮らしていくのに、この家は広すぎます」  だからこそ、やはりあかつきの事業の場として利用しなければ…。  そういうニュアンスを込めて、美津子は言ったのだが。  ほんの一瞬、加藤の眉がぴくッと持ち上がったのを見て、美津子が浮かべていた笑みは消えた。  加藤の、一瞬の垣間見えた感情の動きを読み取って、美津子は言葉を続けることができない。 「この場所が、お前の自由な選択を奪うことになるのは、心苦しい」  また、静かに、けれど響きのある、加藤の声。  顔からはもうどんな感情も読み取れない。 「私のお節介は、お前を困らせたか」 「いいえ。ご縁さま」  思いがけない、加藤の苦悶の表情が、まだ瞼の裏に浮かんでいる。美津子は自分ばかりが狼狽するのを感じた。 「私には、まだこの家が必要です」  しかし、次の瞬間には加藤は、もう目元と口元、両方に微笑を浮かべていた。  それだけで、美津子はぴたりと口をつぐむ。 ─むきになるな。  そう、たしなめられているような気がして。 「そういえば、小須賀くんは来ているのか」  加藤は話題を移した。  美津子は気持ちをととのえるように座り直した。 「はい。以前よりも頻度は減ってしまいましたが、マルシェへ品を出す時には、手伝ってくれています」 「フーン」 「実は今日も、彼が準備してくれたスパイスミックスと、少しですが、ゴツコラジュースを出品しに行くところで」 「そうか。では、そろそろお邪魔するかな」  加藤はゆったりと席を立った。美津子もそれと同時に立ち上がる。 「運ぶのを手伝おう」  しかし、美津子はかぶりを振った。 「軽いものなので。それに、納品時間までまだ時間がありますから」 「そうか」  美津子は、加藤を門まで送ることにした。  外に出ると、加藤は両手を後ろで組んで、ゆっくりと歩く。庭の中ほどまで進んだところで後ろを振り返り、 「今度、クライアントを一人受け入れてほしい」 「え?」 「こう閑散としていちゃ、資金繰りにも一苦労するだろう」  そう言って不敵な笑みを浮かべる。  美津子はちょっと顎を引いて、眦を吊り上げる。 「情けをかけてくださるということですか」 「ああ」 「あかつきにはお客が少ないので、善光寺のご住職さまから」 「そうだ。ありがたく思え」  それからまた僧侶は、ゆっくりと歩みを進める。ぽつりと、 「法話のたびに人生相談されて、これがまた、話が長い」  つぶやくように言った。  美津子は再び眦を吊り上げる。 「つまり、厄介払いしたいと」 「送客してやらんでもない、と言っている」 「引き受けてください、でしょう」  加藤はもう一度振り返る。お互いに悪戯っぽく笑っている。その目と目を合わせるだけで、二人にはそれきり会話はなかった。  その日の昼下がり。  穏やかだった日射しは、季節外れとも思えるくらいに強くなっている。  後部座席にマルシェへ出品する品々をのせて、美津子は白いエヌボックスで納品先へ向かった。  あかつきは明神山の麓であり、標高が高いところに位置するので、中心部に向かうには、坂を何度もジグザクに下らなくてはならない。  林道を下り切ると公道に出る。この当たりでは最も交通量の多い主要道路。この道路を南に突っ切ると、町役場や郵便局、スーパー、病院などが集まる街の中心部・野郷である。。が、美津子はここを左折した。公道を東に向かって進む。  公道の北側は山の斜面。道のすぐ南側には御殿川が流れている。そのさらに南には、雑木林の中に点在する民家や、畑や田が見える。  どこまでも長閑な田舎。  道なりに車を走らせると、十分も経たないうちに、道が南にカーブする。やがて開けた、平らな土地にさしかかる。  田園風景の中でひときわ目を引く大きな建物に向かって、美津子は車を走らせた。  平屋造りの大きな建物は、一目で温泉施設と分かる。  こんな田舎のどこにこんなに人がいたのかと思うほど、車が多く停まっている。  美津子は正面の入り口から近い場所に、車を停めた。  後部座席から、通い箱を一つだけ持って、美津子は温泉施設の中へ入る。  入口の看板には「足込温泉」とあった。  靴を脱いで中に入ると、右手に広い食事処、左手に施設利用券の自動販売機と、番台。その向かいに物品販売コーナー。  番台のスタッフに声をかけると、ほどなくして物品担当の女がそろそろとやって来た。  女は美津子の姿を捉えると、軽く会釈をした。  ちりちりとした白髪交じりの黒髪が、顎のあたりまで伸び、やや猫背が目立つ。 「永井さん、こんにちは」 「こんにちは。そこの、唐辛子味噌の隣に、スペースを取ってますよ」  永井と呼ばれた女は、ミツの持っている物品を納める場所を、右手で示す。 「ありがとう。今日は、いつもに増して賑わってますね」 「登山客が多いようで」  確かに、食事処でくつろいでいる客は、初老の歳頃の男性が多いのだが、だいたい登山リュックやポーチを椅子に置いている。 「梅雨までは、こんな感じです。出品物、今増やしたら売れるかも」  飄々とした口ぶりで話しつつ、永井はミツの持っている通い箱に視線を当てた。 「今日は何ですか」 「スパイス塩に、バーベキュースパイス」  ミツは箱を床に置き、蓋を開けて、中からパウチ入りのミックススパイスを取り出して見せた。 「こういうの、いろいろな香辛料がブレンドされてるんでしょ」 「ええ」 「ここには野宿して焚火料理する人も多いし、いいかもしれないわね」 「…キャンパーのことを言っていますか?」 「私、香辛料ってよく分かんないけど」  永井は箱を挟んでミツと向き合う形でしゃがみ込み、出品物を手に取った。  実のところ、永井と美津子は、そう歳が離れていない。  しかし、美津子の少しオレンジがかった髪の毛には、白髪が一本も見当たらない。  顔や首筋にも張りがあり、背筋がしゅっと伸びていて、姿勢が良い。  外国の食材を使いこなしているあたりも、若々しい。  永井はどこか感心したようなまなざしを、ミツに向けた。ミツはそれに気づいて、 「作ったのは、私じゃないですよ」 「あ、あの男の子でしょ」  言ってすぐ、永井は名前なんだっけ、と遠い目をする。 「小須賀です」 「あ、そう。小須賀くん」 「次の土日には、彼がお弁当の納品に行くと思いますけど」 「そう。パートのおばさんたちが喜ぶわね。あの子、おばさん受けいいのよ」  一見物静かそうな永井だが、喋り出すと、意外とこれが止まらない。 「久保さんが時々ここにおはぎ持って来るでしょ。あの人、いじわるだから、ちょっと自分のが目立つように、勝手に配置変えるのよ。でもね、小須賀くん、さりげなーく、それを直させるの。この、名札がね、見えなくなってるよって言って。でも、久保さんがいつも明るいとか、おはぎの形がいいとか、ちゃんと最初に褒めとくもんだから、久保さんも小須賀くんには怒れないっていうか、女気取りでね」  ここに来ると、だいたい、野郷婦人会のリーダーである久保の噂話か、久保と、その永遠のライバルである大鐘との小競り合いの話を聞かされる。  オリジナルスパイスの納品はあっという間に終わってしまった。  美津子は、小さなクーラーボックスから、もう一つの出品物を取り出し、 「これ、二つしかできなかったのですが」  と、永井の話をさりげなく流し、小さなパウチに入った緑色のジュースを掲げて見せる。 「冷蔵庫の空いてるスペースに置いて良いですか」 「あっ、それ、なんとかっていう薬草のジュース?」  美津子はこくりと頷く。  永井は自販機横の冷蔵ショーケースをちらりと見やり、 「二つくらいなら全然問題なく置けますよ」 「ポップも一緒につけさせてもらいますね」 「どうぞ。これ、案外売れるのよね。二つしかないのは、そんなに量を作れないの?」 「はい。まだ時期じゃないですから」 「ふうん。ねえ、一つは私が買ってもいい?」  美津子は一瞬目を丸く見開いたが、すぐに「もちろんです」と返事をした。願ってもない申し出だ。 「だって、これ、脳にいいんでしょ?」  永井は美津子からゴツコラジュースを受け取ると、それを両手で持って、まじまじと見つめた。 「最近物忘れが激しくって」  それから永井は思い出したように、美津子と検品作業にうつった。  美津子は足込温泉での用事を終えると、元来た道をまっすぐ戻る。  今日はもう一つ、大事な用事があるのだ。  運転席側と助手席側の窓を半分くらい開けると、外から気持ちよい風が入ってくる。  運転しながら、あまり重要なことは考えたくないし、考えられないのだが、今日加藤と話したことを、美津子は頭の片隅で考えていた。  今まで、相手の人生を良くすることに邁進してきた美津子だった。  小さな不調から解放されたいと望む者には、不調の原因に言及し、モチベーションを与えた。  自分を健康に導く食事を知りたいと望む者には、現況での体質を明らかにし、方法を与えた。  しかし、最近になって、美津子のコンパスは、違う方向を指し示し出したように思えた。  今まではこっちの方向に行きたいと思っていたが、今は別の方向性で生きていきたいのだと。  それが、つい先ごろ、加藤と話をしている時に、コンパスが差す方向は、以前と変わっていないと思い直した。  だが、主語が、変わった。  自分がそのコンパスの差す方向に行きたいのではない。  同じ方向を目指す誰かが、その道を進むのを、導きたい。  自分はその者を通して、その者が誰かの人生を変えるのを見るだけだ。 ─私の人生の優先順位は、変わった。  感染症以来、客足が戻ってきていないのは事実だった。  その間に、人の価値観や、暮らしの在り方などは、大きく変わったと思う。  時代の変化を、感染症が加速させた。  今までと同じやり方で事業をしているだけでは、成長は望めまい。  所詮は自分ひとりで行っている事業。  自分の仕事を求める最後の一人がいなくなったら、そのまま、引退しても良いかと、思わないでもなかった。  しかし。  美津子は、白い麺のパンツのポケットに、ICレコーダーを入れたままだったことに気が付く。  日々、生活の中で取り入れるべきと、お客に言い聞かせてきたことは、そのまま美津子の普段の実践項目でもある。  それらをしていると、美津子は自分の正直(サティア)な自分の心の内に、自然と気がつく。 ─思いは、変わらないのだ。  だが、もはや一人でその思いを果たすステージは終わった。
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