人生の優先順位

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人生の優先順位

 美津子の白いエヌボックスは、あかつきの前を通り過ぎ、そのままさらに明神山の麓へ近づく方向へ走った。  狭い林道が突然開け、広い空間が現れる。ロープで長方形の仕切りが作られているそこは、栗原神社の駐車場。  美津子は小さな布の包みを抱えて車を降りた。  ここは空気がより冷たく、澄んでいるように感じる。  参道(西参道)を進めば、暑いくらいに感じていた日射しは、木漏れ日として柔らかに降り注ぐ。さきほどより強くなった風に吹かれ、木立が涼やかに揺れる音がするばかり。  手水舎で手を洗い、美津子は社務所に向かった。  窓口には一人の巫女がいる。  目を伏せ、手元で何か作業をしていたが、美津子が窓口に立つと、手を止めて顔を上げた。 「ようこそお参りくださいました」 「こんにちは。宮司さまはいらっしゃいますか」  巫女は「はい」と言いながら、戸惑った表情をした。いるにはいるが、広い敷地内のどこにいるかまでは分からないのだろう。  すると、奥の几帳が揺れ、浅葱色の袴をはいた男が現れた。 「おや、ミツさん」 「神主さま」  すでに体を本殿の方に向けていた美津子だったが、声を掛けられ、再び体の正面を窓口に向けた。  男は背は低いものの、恰幅の良い体つきをした、若手の神職だった。 「宮司を探すのは至難の業でして。ご用があれば代わりに」 「いつもの薬草ジュースを持ってきました」  美津子はそう言って、小さな布に包んだ贈り物を、そっと胸の前に掲げて見せる。 「少しお待ちを」  そう言って、神主はさっと几帳の後ろに姿を消した。  ほどなく、じゃらじゃらと玉砂利を踏む音がして、わざわざ下駄に履き替えて外に出た神主が、行く手に立った。 「宮司が喜びます。一旦、花神様にお供えを」  美津子も心得た様子で並び立ち、境内の東奥へ歩みを進める。  本殿と稲荷社との間に立つ、小さくとも立派な平造りの御殿。本殿とは回廊で繋がれている。  御殿の扉は開け放たれているが、中は薄暗い。  二人は御殿の入り口で、急に立ち止まった。  先客がいた。  生成りのシャツワンピースを着た、小柄な女が、こちらに背を向ける形で立っている。  女はすぐにこちらに気付いて、すごすごと振り返った。やや低い位置からポニーテールにした髪が、ふうわりと揺れる。 「どなたですか?」  美津子より半歩先に立っていた神主が静かに声を掛けた。  女は一瞬だけ二人の顔を見たが、伏し目がちにして、棒のように突っ立っている。 「参拝に来た者です」  女はやっと言った。 「ここは花神殿(かじんでん)。神事を行う場所ですが」 「ここに来たのは初めてで」  女は、言い訳のように言った。 「風が出てきたから、中に入っていても良いと、白い袴をはいたおじいさんに言われて、ここへ」 「宮司か。この方も参拝に」  美津子は顎を引き、軽く頭を下げた。女も頭だけで、しかし美津子より深くお辞儀をする。  神主は美津子に道を開けるように一歩横に退き、手のひらを行く先に向ける。  小さな包みを大切そうに持ちながら、美津子はゆっくり進んだ。  祭壇の前に立つ女と、目が合う。  ぐわん。  微細な空気の圧に、美津子は違和感のようなものを覚える。  祭壇を見るともなく見て、しかし、美津子の神経はすべてその空気の圧の源に研ぎ澄まされていた。  顔を上げると、先ほどの女は、どこか所在なげに立ち尽くしているにも関わらず、その目は、吸いつけられたように美津子の顔を凝視している。 「古谷杏奈さん」  女の目が、ほんの少し大きく見開かれた。 「あかつきの磯貝美津子です。杏奈さんね」 「はい」 「お知り合いですか」  後ろにいた神主が声に声を掛けられ、美津子は振り返った。  メールでのやり取りはあった。しかし、顔を合わせるのは、これが初めてであった。 「はい。神主さま」  けれども美津子はそう答え、祭壇の前に備えられた重厚な机と椅子をちらりと見た。 「神主さま、少しここをお借りしてよろしいですか」  そう言ったのは直感だった。  先ほど湧き起こった、違和感の正体が気になった。  サットヴァ(バランスが取れているもの)なこの空間を味方に、なんだったのか探りたい。 「どうぞ。出て行く時は、開けておいてもらえれば良いですから」  神主は快諾して、すぐに花神殿を出て行った。  美津子は杏奈に椅子をすすめ、自分も斜め横に座った。 「美津子さん、あの、はじめまして。今日は面接のお時間をいただき、ありがとうございます」  杏奈は折り目正しくお辞儀をする。  重厚な木製の丸机に、小さな布をそっと置きながら、美津子は微笑をもってそれに応えた。 「約束の時間より早く着いたので、時間まで近くを散歩しようとうろうろしていたら、ここまで来てしまいました」  と、杏奈はここに来たいきさつを説明した。  美津子の、今日最後の用事は、この女と仕事の面接をすること。  あかつきで行う予定が、偶然にもここで出会ったのは、お互いに予期せぬこと。 「ここへは車で?」  あかつきを通り過ぎた時、車を見なかった気がして、美津子は尋ねた。 「はい。母に送ってもらいました」  杏奈からは意外な答えが返って来た。 「お母さまはどちらへ?」 「町の方へ降りていきました。終わったら、母に連絡することに」  杏奈のぎこちない態度にも、話し方にも、緊張の色が出ていた。  仕方ない。と、美津子は思う。  予定外の場所で、いきなり面接官と合ってしまったのだから。  写真で見たのと、実際とは、雰囲気がちがう。  この御殿がうす暗いからなのか、杏奈の顔はもっと白く見えたし、思っていたよりも、ずっと小柄だった。  美津子は小さな布の結びをほどき、ガラス瓶に入った、ゴツコラジュースを杏奈に見せた。 「ここの宮司さまが気に入ってくださっていて。あなたと会う前に、これを届けようと思ってここへ来たの」  美津子はガラス瓶を、そっと杏奈のほうへ押しやった。  杏奈はわずかに、身を乗り出す。 「これは…」 「ゴツコラの葉をジュースにしたものよ」  美津子は瓶の蓋を緩める。 「においをかいでみる?」 「良いのですか?」  杏奈は上目遣いで美津子を仰いだ。  少し瓶を手元に寄せて、鼻を近づけ、右手で開口部近くの空をあおぐ。 「薬草なのに花のような甘いにおい」 「はちみつのせいね。ゴツコラはそれだけでも素晴らしい薬草。けれど─」 「─アヌパンが加えられていれば、深層深部まで、その薬効が届きますね」  思いがけず、的確に後を引き取られ、美津子は不意を突かれたように言葉をなくした。  細胞に栄養を届けるボートのような役割をする媒介のことを、アーユルヴェーダではアヌパンと呼んでいる。  ギー(精製バター)、牛乳、アロエヴェラ、はちみつなどがこれに当たる。  もちろん、アヌパンに乗っていたとしても、その薬効が届くかどうかは、摂取したものの消化力次第なのだが。  ともかく、瞬時にこの知識を取り出せるほどには、アーユルヴェーダの基礎知識をはその引き出しに収まっている、ということか。  杏奈はふたを閉め、瓶を美津子に差し出しながら、ぺこりと頭を下げた。  美津子は瓶を受け取り、小さな布に包み直すと、立ち上がって祭壇へと進んだ。つられて杏奈も立ち上がり、前へ進む。 「ここには花神という、この地域でとても大切な神様が祭られている」  美津子は賽銭箱に覆いかぶさるような体勢になって、祭壇の真ん中に、ゴツコラジュースの包みを置いた。 「花神は薬祖神の化身と言われる。日本神話で、日本に医薬を広めたと言われる神様よ」  そう教えて、美津子は花神にお辞儀をした。  杏奈もそれに倣う。  それから、またもとの椅子に腰かけた。 「ダヌヴァンタリに祈るつもりで、時々ここに」  美津子は、もはや杏奈がその神の名を知っているだろうという前提で、そのように説明をした。  ダヌヴァンタリは、アーユルヴェーダ医学の神。  有名な乳海攪拌神話で、神々と悪魔が協力して攪拌した海から、最後に現れた神だ。  四本の腕をもち、それぞれにほら貝、チャクラの円盤、薬草、そして不死の妙薬・アムリタの入った壺を持っている。  杏奈は沈黙していた。  雇い主になるかもしれない女が、信心深い行いをしていることに驚きを抱いているのか、単に返すべき言葉が分からないのか。  杏奈は表情に乏しく、感情があまり読み取れない。  緊張ゆえに、とは、また違った感じがした。 「さて、何から話をはじめましょうか」  席に座り直すと、美津子はひどく鷹揚な口ぶりでつぶやいた。  手元には資料や、メールでのやり取りの記録を追えるスマホも出していない。 「まずは簡単に職歴を」  アイスブレイクは終わったのだ。杏奈は居ずまいを正した。 「はい。大学卒業後、印刷会社に入社し、東京へ。4年間働いて、退職。東京にそのまま残って、アーユルヴェーダ料理教室を開催する傍ら、スリランカ料理のレストランでバイトをしました。ですが、一か月ほど前、体調を崩してバイトを辞め、個人事業も休業中です」  簡単に、とは言ったが、杏奈の説明はあまりに簡潔。 「…休業・閉業届などは出していませんが」  と、思い出したように付け加えた。 「旧帝大卒、大企業に就職しておきながら、これはまた、思い切った転身をしたものね」 「はい」  呆れた、という口ぶりには聞こえないが、かといって、まさか感心されているわけでもあるまい。  杏奈は決まり悪そうに身をもじった。けれど、美津子が、自分の経歴などをある程度頭に入れてきてくれているらしいことは、素直に嬉しかった。 「体調不良というのは?」 「会社を辞めてからの劇的な生活の変化や、ストレスが大きかったと思うのですが、体中に発疹が出まして」  言われて、改めて杏奈を見るが、それほどひどい発疹の痕などは見当たらない。 「今はほとんど回復しましたが、傷ついた肌で食べ物を扱うのは厳しく、レストランは辞めざるを得ませんでした。個人事業の料理教室も、体調不良の間、何もできず、お客さまが途切れて、自然に休業という形に」  杏奈は淡々と語っているが、その表情は苦々しかった。  これは遠い昔の話ではなく、ついここ半月前の出来事なのだ。  本人はほとんど回復したと言っているが、疲労の色が濃いこと、表情にも翳りが見えているところからして、まだ万全ではないのかもしれない。 「教室を再開しようとは思わなかったの?」 「再開したかったです。けれど、生活するには個人事業だけというわけにもいかず、派遣の仕事と兼業しようかと思っていました」  東京で暮らしているなら、家賃も馬鹿にならないだろう。  個人事業ですぐ売りが立つなら別だが、杏奈にはその算段もないらしい。 「けれど、就職に向け行動を起こす前に、御社を見つけました。御社の活動を拝見するうちに、ここで働きたいと、居ても立っても居られず、連絡しました」  そして、幸運にも話を聞いてもらえることになり、今ここにいる。 「どうしてうちで働きたいと?」 「はい、御社は…」 「あかつきで良いわ」 「はい。あかつきは、食事、アーユルヴェーダの施術、宿泊を通して、お客さまに非日常を味わってもらい…総合的に、お客さまを癒す手伝いができる。そこが、魅力的だと思いました」  面接、という感じになってきた。 「なぜ、そこに魅力を感じるの?」 「少しの間ですが、アーユルヴェーダの料理教室をしてきたので、健康のために、食事を整えることにフォーカスしてきました。けれど、もっとトータル的にアプローチすることで、より早く、お客さまに元気になってもらえると感じています」  そこで、すでにそのような事業をしているあかつきで、働きたいと思ったのだと。 「それに、実家が、ここから下道で一時間弱くらいで。足込町は実は来たことはありませんが、近いのはいいなと」  それは個人的な、率直な理由だった。 「あなたは、あかつきのサービスを受けたことがない」  美津子は至って穏やかに喋っているのだが、痛いところをつかれた、と思ったのか、杏奈は肩をこわばらせる。 「あかつきに滞在して、経験をして、良いと思うのなら分かるけれど、ホームページやSNSを見たのに過ぎない」 「はい。すみません」  先に謝られると決まりが悪い。 「責めているわけではないの。あかつきのサービスの質を知らないまま働いて、思っていたのと違った、では、あなたにとって時間の無駄になるのではないかと」  善意で言ってくれたのだ。と、分かっても、杏奈は返す言葉が即座には見つからない。  肩をすくめ、しかし、顔の表情はあまり変わらない。喜怒哀楽を顔に出さない性格なのか。 「あなたが仕事を通してやりたいことはなに?」  美津子は気を取り直して新しい質問をした。 「誰かの苦しい時間を止めたいです」 「時間を止める?」  美津子は杏奈の言葉を反芻した。こういう詩的な表現は、予想だにしていなかった。 「どういうこと?」  それで、訊いた。 「…数年前、今この瞬間を、早送りしたい。というような出来事を経験し…家族や友人には話せないようなことを話せる、第三者を求めていました」 「…」 「その時の私のような人がいたら…あの時の私が求めていた第三者に、今度は私自身がなって、一時的にだとしても、苦しい時間が止まり、癒され、明日への活力を得る場を提供したいと。料理教室も、そのために創立しました」 「一時的に癒しの空間と時間を提供することなら、たとえばカフェや居酒屋でだってできるのではないの?」 「はい、でも…その人がもう一度、自分の望む人生を歩むための、手助けもまた、やりたいんです。アーユルヴェーダの視点から、方法をお渡しすることによって」  たどたどしく、言葉が途切れ途切れになりつつ、ではあったが、杏奈はなんとか答えた。 「人を導くためのツールとして、杏奈さんがアーユルヴェーダを推す理由って、なに?」 「えっ?」 「実際に自分が、アーユルヴェーダに導かれて変われたという経験があるの?」 「…実は、よく分からないんです」  杏奈はまた、申し訳なさそうに言う。 「だからなのか、アーユルヴェーダが、どう人の心と体を健康に導けるのか…その例を、たくさん知りたいと…あの、美津子さんは、アーユルヴェーダコンサルテーションを行っていますよね」 「ええ」  美津子のところには、その例がたくさん転がっている。  杏奈がそれを期待しているのであろうことは、手に取る様に分かった。 「私、インスタであかつきのことを知って以来、実はそれを受けてみたいなって思ってたんです」 「コンサルをね」 「はい。お客さまの声を読んでいるうちに、多くの人を癒してきた方なのだと思って、それで…」  躊躇したように、言葉を切って、美津子を見る。  美津子は無言を貫くことで、先を促した。 「自分が望んでいることが分かりました。私がコンサルを受けるというよりは、私もいつか、美津子さんのようにコンサルができるようになりたいと思っているのだろ」 「…」 「けれど、あかつきは養成講座のようなものは開催していないようだったので、直接連絡を…」  こんなことを言うのは恐れ多い、と思っているのだろうか。遠慮気味に、杏奈は言った。  そうだ。美津子は従業員の募集などかけていたわけではない。それなのに、杏奈はいきなりメールをよこしてきたのだ。  アーユルヴェーダの視点からバランスを整えるためのアドバイスをし、真に健康に導ける人になりたいと。  そういう人を養成する講座は開催していないか。  社員にだけ、教育しているような内容なら、社員になりたい。社員の募集はしていないのか。  しかし、顔を見てもう一度その意志を問うてみれば、積極的なメールをよこした割には、本人からはそれほどの熱量があるようには見えない。 「アーユルヴェーダの料理教室で、先生という立場に立ってみて思い知らされました。私はまだまだ未熟で」  杏奈は膝に落としていた視線を、美津子に移し、 「自分勝手ですが、仕事をしながら、師、先生と仰げるような人のもとで学べたら、当初の自分の思いを果たせるのではないかと」  と、今までよりは少し切実な声で言った。杏奈は一旦言葉を切って、ごくりと唾をのんだ。そしてまたすぐ切り出す。 「個人的な目線ばかりで、すみません。もちろん、あかつきで、私にできることは何でもします」  美津子はそれには答えず、 「アーユルヴェーダはどこで学んだの?」 「もともとヨガのスクールで知ったのがきっかけで、そこで少し学びましたが、ほとんど独学です」 「独学…」  訝し気な表情になった美津子を見て、杏奈は慌てて付け加えた。 「あと、会社員をしていた頃、個人開催のワークショップや、料理教室に行きました」  しかし美津子は難しい表情を解かなかった。 「どうしてアーユルヴェーダに興味を?」 「はじめは、特に惹かれてはいなかったのですが、アーユルヴェーダの知恵を反映した料理があるのを知って、自分も作ってみたいと思ったところから、いろいろ学ぶようになりました」 「料理が好きなの?」 「はい。ですから、料理という切り口で、アーユルヴェーダのバランスの整え方をお伝えする仕事をしようと」  入口は料理、好きなのも料理、か。  美津子はもう眉根に皺を寄せていなかったが、心の中では忙しく思考を巡らせていた。  教室は衰退したと言っていたが、ホームページやインスタを見たところでは、途中までは何かしら活動をしていたようであった。  十分ではないにせよ、事業主の目線も持っているだろうし、事業をする厳しさも経験しただろう。  その経験をあかつきの仕事に昇華できるか。  採用するとしたら、どこのポジションで力を発揮してもらうべきか。  今手伝いに来てくれているスタッフのことを思い浮かべながら、パズルをするように、美津子は思案した。 「あなたの教室のホームページやインスタは見させてもらった。あれは全部自分で作ったの?」 「はい」 「よくできていると思う。あなたは、賢い人なのね」  褒められるのが面映ゆいのか、杏奈は唇を結んだ。  賢いと思ったのは本心だが、一方で気になることもある。 「創業し立ての頃は、うまくいかないこともあるものよ。でも、それを乗り越えようとは思わなかったの?」  と、この控えめで傷つきやすそうな女に、容赦なく切り込んで、杏奈は案の定、少しうろたえた。  五月のたそがれ時はまだ涼しく、日の届かない御殿は、どこかひんやりと寒々しい。  答えに窮し、思案中の杏奈の顔は、もともと白い肌がいっそう白く、むしろ青ざめて見えた。唇の色も、やや紫がかってきている。 「自分に、自信があれば」  やっとのことで、口を開く。 「それもできたかもしれません。けれど、自分にはまだ力が足りないと思いました」 「杏奈さん」 「はい」 「あなたは、仕事の面接に来ているのではないのね」 「えっ?」 「面接官相手に、自分は未熟だとか、自分には力がないって言うことが、どういうことか分かってる?」 「…」 「およそ、仕事を得ようという人のスタンスではない。あなたは本当に、就職活動というよりも、弟子入りするつもりで、ここに来たようね」 「はい…いいえ。こんなこと言うのは今日行くですが、弟子ではその…食べていけません」 「なら、私に、雇いたいと思わせるようなことを言うべきよ」 「は、はい…」  美津子は大きく息を吸って、 「あかつきであなたに働いていただくとしても、それは雇用という形ではないわ」 「…?」 「感染症をきっかけに、あかつきは業務を縮小したの。一旦遠のいた客足は、感染症が落ち着いてもなかなか戻ってこない。もともと、あかつきには従業員はいなかったけれど、残念なことに、今も誰かを雇用できるような状態にはない。今、時々手伝いに来てもらっている人たちはいるけど、その人たちには業務委託契約を結んでもらっている」  杏奈は神妙な面持ちで、全身を耳にして聞いていた。  つまり、自分が雇ってもらえるとしても、それは業務委託で…ということになるのだろうか。  しかし、自分はどのような業務をすれば良いのだろう。 「さっき、総合的にお客さまを癒す手伝いができる。あかつきのそういうところに、魅力を感じたと言っていたね」  杏奈の心配をよそに、美津子は微妙に話を変えた。                                                        ・・・・ 「実際、今あかつきが、総合的なアプローチができているかどうかは、疑問がある。だから私は、一緒にアーユルヴェーダトータルヒーリングセンターを作ってくれる人を、探している」 「はい…」 「あなたの得意分野が、料理なら、料理でもいい。ただ、ここでは、会社員の時のような働き方はできない」 「…」 「自分に力をつけなければ、収入を得ることができない。杏奈さんはそういうフィールドで働けるかしら」  杏奈はかなたの方を見て、すう、と息を吸った。  ゆったりと構えて、穏やかに尋ねる美津子だけれど、次から次へと、飛んでくる質問は答えにくいものばかり。  杏奈はおもむろに、頷いた。 「料理教室の時がそうでした。お申込みがなければ、収入がない」 「そしてその料理教室をやめようと思ったのよね」 「それは…収入のことだけが理由ではなくて、修業を積まなければと思ったからです」  消え入るように言った。  美津子は話ながら、少しずつ、最初は感じなかった杏奈の雰囲気を、感じ取っていた。 ─なんだ。この子のまとう、空気の重苦しさは。  ありとあらゆる、陽の気を感じない。  嬉しさ、楽しさ、喜び…心からそういった感情が湧きあがったことなど、もう、幾月も、幾年もなかった、というような。  会社員を辞めてからの、生活の苦労なのだろうか。  それとも会社員時代からこうなのか。  もっと、ずっと前からなのか。  美津子と杏奈の間、わずか一、二メートルの間には、何の障害物もないはずだが、そこには目に見えない、空気の層が隔たっているように感じる。 「杏奈さんは、今いくつ?」 「もうすぐ二十七です」 「二十七…か。まだどうとでも将来を動かせる年齢ね」 「そう…かもしれません」  答えながら、将来を動かすのは、そうたやすく思えない、と杏奈は心の中で独りごちる。  一般的には若いかもしれないが、常日頃は、この時期ならではの不安に、重くのしかかられている杏奈であった。 「料理教室のことだけれど」  曖昧な返事をする美津子に対して、美津子は釈然と言い放つ。 「それはあなたの初志を形にしたものでしょう。今後、あかつきで働くとしても、ずっと働けるかは分からない。すぐに嫌になってやめるかもしれない」  杏奈は否定するかのように首を傾げた。  あかつきは、直観的に、良いと思った場所。すぐに嫌になることがあろうとは、今は考えたくもない。 「その後で、あなたはまた正社員として働くか、派遣として働くか、選択肢はたくさんあるだろうけど、同時にまた教室をすることは不可能ではないから。今はお休み中ということにして、いつでも再開できるようにしておくといい」  話ながら、美津子は可笑しかった。  こんなに自分は、後ろ向きなことを言う女だったろうか。  それにしても、二十七歳か。  幼顔であるにも関わらず、この女が若々しく見えないのは、その表情の乏しさのためか。  動きの鈍い顔の筋肉、笑っても上がらない口角、ほとんど動かない胴体。光の差さない目。  言葉を発する時、杏奈はほんの少ししか口を開けない。  平常時でさえ、緩んだ口元は、表情筋が鍛えられていない証拠。  普段、この子が大口を開けて笑うことがないこと、いやそれどころか、口を開くことすらわずかであることが察せられる。 ─あかつきに、来てもらいたいだろうか。  この子に。 「あかつき以外のところで、勤めようとは思っているの?」 「…いいえ。あのう、どういう風に働けるか分からなかったので。まず、美津子さんにお会いしてから、他は決めようと」  つまり、杏奈は兼業する場合でも、あかつきを優先させるつもりだったということだ。  美津子はちょっと分からなくなった。  そもそも、今日杏奈に会うことに決めたのは、この女が構築したホームページとインスタグラム…。  そこに書いてある思いや、アーユルヴェーダの知識の伝え方、自分の経験に落とし込んで伝える能力。それらを見て、単純にいいなと思ったからである。  しかし、実際に会ってみると、この女からは熱意というものを感じない。 ─やはり気になる。  この空気感。 ─この子は、タマスに偏っている。それに圧倒的なオージャス(活力素)不足。  そういえば、先ほど「今この瞬間を、早送りしたい。というような出来事」を経験したと言っていた。  その気持ちは完全に過去のものにはならず、今も尾を引いているのだろう。  そして、おそらく、それが、アーユルヴェーダを通じて人を癒す仕事をしたいという気持ちの、原動力になっているのだ。  美津子はそれを、悪いこととは思わない。  むしろ、人生の苦い経験は、圧倒的な原動力を人に与えることがある。ポジティブな動機による原動力を、しのぐほどに。 「人生の優先順位を考えてみて」  美津子は座り直して、机の上で両手を組んだ。杏奈はわずかに目を大きく見開く。 「今している行動が、人生の目的につながってないのなら、その行動はやめた方が良い」  美津子の声色は相変わらず穏やかだったが、その言葉は切り込むような鋭さをもっている。 「あかつきで働くことを含めて、ね」  杏奈は眉間に皺を寄せた。  暗に、美津子は今回の話はなかったことにせよと、諭しているのだろうか。  しかし、今までのやり取りで垣間見えた、美津子という人の人間性を考えれば、そんな回りくどい言い方で、手を引けと言っているようには思えなかった。  慈愛がある。そんな印象だった。およそ利益を追求する事業主には見えない、欲から離れた、聖人のような、菩薩のような人。  会う前から、こちらのことを知ろうとしてくれたらしい。言葉足らずなのを責めることもなく、話を引き出してくれた。  相手を受け入れようという姿勢、理解しようと歩み寄ってくれる包容力。  安心感を与えてくれる人だ。  そんな誠実な相手であれば、自分も誠実に、素直に、今問われたことを考えなければならない。  そもそもなぜ、自分はアーユルヴェーダを通し、人を癒したいと思ったのか?  考えるより先に、杏奈はその答えを、瞼の裏に見た。  ひとりで寝る夜。  パサパサのサンドイッチ。  空虚な自分。 「すぐに答えを出すのが難しければ…」  しばらく思案顔で俯いている杏奈を見かねてか、美津子が声をかけたが、杏奈は首を振った。 「いえ、持ち返って検討する答えはありません」  この日聞いた杏奈の声の中で、一番強い響きがあった。 「料理教室を続けられないと思った時、今仰ったことと同じことを考えました」  杏奈はその日のことも、脳裏に鮮明に思い浮かべることができる。 ─人生は、自分の意識を向ける方向に動くという。  その日、杏奈は当時借りていた部屋で、小さなテーブルの前で一人膝をかかえ、懸命に考えた。 ─自分はどこに向かいたいのか。考え続けろ。自分の人生の優先順位は何か。 「あかつきで働きたいと思う理由と、アーユルヴェーダの料理教室をしていた理由に、ちがいはありません。道筋は違いますが、どちらも私が進みたい方向に進む道です」 「これからのあなたの仕事は、あかつきの仕事になる。古谷杏奈個人の仕事ではなく。この意味が分かっている?」 「はい」 「それでもいいの?」 「はい。あかつきの、アーユルヴェーダの癒しのプロセスに、私も参加したいです」  美津子は目を細めた。  杏奈の、確かな意志の強さを感じる。真実を話しているのだろう。 ─柔らかく見えるけれど、芯は固い。  それを支えているのは、この子の発する、負のエネルギーを生み出したものかもしれなかった。 ─この子も、変わりたいのか。  美津子は目を瞑る。  お客さまを変えることで、自分も。… 「本当にアーユルヴェーダのヒーラーになりたいのなら」  目を見開き、美津子は念を押すように言った。 「あかつきで働くのは、個人料理教室の時よりも、大変になるだろうとは思う」 「はい」 「もっと今以上に、泥臭い仕事をしたり、傷ついたり、自分の弱みが露呈したりすることもあるかもしれない」 「…はい。向き合います」  静かに言い放ったその声からは、もはや、今までの頼りなげな様子はなく、意志の強さが全身をつらぬいて、迷いのないひたむきさを持っていた。  日が傾いてきたのか、御殿の中は薄暗さを増している。  暗がりの中で、美津子は杏奈の目にきらりと光るものを見た。美津子が、この日初めて見た、この子のプラーナ(気)。  あるいは、闘志かもしれなかった。 「それなら、私も持ち返って検討はしない」  と美津子は言った。 「あかつきに来てもらおうと思う」 「本当ですか」  先ほどのきびしい決意の顔がとろけて、杏奈はほ~と肩の力が抜けた。  言いながら、美津子は、そう決めた自分の気持ちが、分からない。  杏奈はどういう存在になるのだろう。本人が言ったように、弟子なのか。一緒に働いているうち、同僚、仲間と思うようになるのか。  今はそんな存在になることが想像できない。  むしろ…。  気付けば、遠い昔の記憶に意識が捌けそうになっていた。  美津子は一呼吸おいて、意識を今ここに戻す。 「どういう形で、あなたを迎えるかは、待ってほしい」 「はい」 「雇用という形ではないと言ったけれど、働くなら、あかつきのことに本腰を入れてほしい。それができるよう、考えてみるわ」 「分かりました。お願いします」 「そうだ…東京の家は、引き払うことになるわね。東京を離れるのには、悔いはない?」 「はい。潜在顧客は東京の方が多いだろうと思って、向こうに教室を構えましたが、実家はこちらですし」 「そう。でも、働いてみて嫌になっても、東京に居場所がなくなった責任は取れないから、覚悟してね」 「はい…」  杏奈の瞳が揺れたのを、美津子は見逃さなかった。 「大丈夫よ。背水の陣で戦ったほうが、本領を発揮できると思って」  と、和ませるように微笑んでみせたが、出てきたのは意外にも根性論。  杏奈は苦笑いをしつつ、ごまかすように、前髪を撫でおろした。  美津子は、やはりいい人だ。  そう確信して、心の中でこっそりと、安堵のため息をついた。  そんな杏奈の指に、美津子は素早く視線を走らせていた。 「指をどうしたの?」 「え?」  杏奈は挙げていた右手をちらりと見やり、急いで手を膝の上に置いた。だがそれがかえって、後ろめたいことがあると言っているようなものだと気づいた。 「あ、これは手湿疹が…」  両手を膝の上で揉む杏奈の背中は、自然と丸まる。  美津子は無言で右手を机の上に伸ばす。杏奈は少し戸惑っていたが、右手を差し出す。美津子がすかさず左手も伸ばしたので、杏奈は慌てて右手を美津子の左手のほうにずらし、左手も出した。  杏奈の手のひらが上に来るように、両手で支えて、肘から指先まで、なぞるように視線を走らす。  指はところどころ、カサカサとひび割れ、皮膚が剥けている。  手を裏返し、手の甲をみると、一、二か所だが、指の根にあたる関節部分があかぎれている。 「仕事には問題ありません」  肘や前腕には、見たところ湿疹はないようだが、皮膚が薄い。 「まだ、治り切っていないのね」 「これは、その、ストレスとは別の原因だと思います…」  二重瞼の大きな目が杏奈の目を捉え、説明を求めている。 「…レストランで働いている時に、業務用の洗剤でひどくやられてしまって」 「業務用の洗剤?」 「はい」 「…」  痛々しい指と手。  皮膚は心と体の状態を映し出す鏡であった。  杏奈は手が解放されると、自分で自分の手をまじまじと見つめた。 「一番ひどかった時より、これでも回復したんです。ちゃんとケアして、もっと良い状態にしておきます」  といっても、杏奈ができる範囲で保湿をまめにしても、皮膚はなかなか治ってくれていなかった。  あかつきで働けるのであれば、ゆくゆくは、セラピストの業務も…と思っていたが、この指では、美津子は許してくれないかもしれない。  そう思うと、杏奈は今まで、ケアといっても並みのことしかできていない自分が呪わしかった。  どうにかして、滑らかな手の皮膚を取り戻さなければ。 「これ」  胸の内で悶々としている杏奈に、美津子が何かを手渡した。 「これは…?」  白くて薄い、手のひらに収まるサイズの電子機器。 「ICレコーダー」  言われる前に、それは分かった。 「その中には、ガイド付き瞑想が録音されている」 「ガイド付き瞑想…?」  美津子はこくんと頷いた。 「自分の本当の声を聞くためのもの。オージャスを形成し、固定観念を捨てさせる…まあ、瞑想の目的とはいろいろあるけど」  詳しい説明をするのは、やめた。 「次にあかつきに来るまでの間に、それを使って瞑想してみて」  すっかり、長居をしてしまった。  栗原神社に祀られる神の話をしたら、きりのいいところであかつきに移動しようと思っていたのに、タイミングを逃した。  二人で御殿を出ると、外はもう薄暗い。  母を神社で待つという杏奈とは、そこで別れた。  とにかくも一緒に働くことが決まった相手に、美津子は去り際、静かに微笑んだ。  杏奈は会釈をしてそれに応えた。
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