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気(プラーナ)
蒸し暑さが増す六月中旬。
杏奈は、あかつきの離れに引っ越してきた。
両親たちは、足込町の田舎さ加減と、新しい杏奈の住まいの質素さに啞然としていたが、もはや後戻りはできないので、荷物を降ろし終わると、
「頑張ってやりなよ」
と励まして帰っていった。
引っ越しの間、美津子は不在だった。あらかじめ言われたところに鍵があり、勝手に荷物を降ろした。
あかつきの敷地の、南西側に建つ小さな平屋。
八畳ほどの和室、押し入れ、鏡台のある三畳ほどの小さな部屋、トイレ、洗面所。
浴室もあるが、シャワーがあるだけで、湯船はない。
縁側の掃き出し窓を網戸だけにし、こつこつと荷解きを進めていた杏奈に、美津子が声をかけたのは、その日の夕暮れ時であった。
離れの間取りは事前に連絡されていたが、現物を見て、ここに何がある、こういうものはここにしまうとかいい、などアドバイスをくれた。
それが終わると、夕食の時間を言い渡してさっさと出てった。
この離れはもともと、予約が溢れた時に、お客に寝泊まりしてもらったり、施術をしたり、事情によりスタッフが泊まったりするのに使われていたそう。
最近はほとんど使われていないらしい。
おそらくお客が身なりを整えるのに使っていたのであろう鏡台も、使っていいとのことだった。
鏡台のある三畳ほどの部屋にはクローゼットがあり、杏奈の衣類はこのクローゼットと、縁側の角に置かれた小さなタンスに十分収まった。
居間兼寝室となる八畳の部屋の南側には押し入れがあり、夏もの、冬ものの布団が一式入っている。
掃除道具はトイレの上の吊り収納と、洗面所の床下収納。
後の雑多な荷物は、居間の西側にある天袋と地袋(棚の上・下部に造り付けた物入れ)に収まりそうだ。
違い棚に置くような優美な小物は持ってきていないが、もともと花瓶が一つ置かれていた。
床の間には床板の上に、やはり花瓶が置かれているだけで、掛け軸はかかっていない。
簡素な部屋に、少ない荷物を納めるには、掃除も含めて、あと半日で十分だろう。
あかつきの母屋で夕食を美津子と一緒に摂った時、杏奈はそう告げた。
夕食はごはんと味噌汁、ちょっとした野菜の和え物と、魚の干物。
「明日からはこの母屋で家事をお願い」
「家事ですか?」
美津子はこくりと頷く。
「母屋に早く慣れて、お客さまが来た時、すぐに支度を整え、質問に答えられるように」
杏奈は頷いた。
はじめて入った、母屋という、アーユルヴェーダトータルヒーリングセンターの本丸。
和洋折衷の重厚な造りで、赤い絨毯が敷かれているホールの階段や、値が張りそうな家具の一つひとつに驚いた。
カーテン、飾り棚、一枚板の長テーブル、椅子…といった、今いるこの応接間の意匠にも、杏奈は先ほどから目を奪われている。
夕食後、明日朝から立つことになるキッチンを見せてもらった。
杏奈はキッチンというより小さな厨房、というべきその造りに、あっと口が開いたままになる。
今まで気にもしていなかったが、この家にお客が宿泊するからには、相応の免許を取得しているはずだし、お客に食事提供をするので、飲食店営業許可も取っているはずだ。
当然、キッチンはその免許を取得できる仕様になっている。
複数のシンク台、タイル張りの床、ステンレスの調理台、お勝手口…通常の民家の台所とは異なる設備。
二人分の料理を作るには、キッチンが広すぎて、導線が長く、逆に非効率になってしまいそうだった。
美津子は、履物を変えてキッチンに入る。杏奈もそれに倣った。
デシャップを挟んで入口のすぐ近くにある冷蔵庫を開け、中身を杏奈に確認させる。
「明日の朝は今あるものでご飯をつくって」
冷蔵庫は二台あり、応接間に近いこちらの冷蔵庫には、飲み物や、スタッフ用の食品が入っているらしい。
「お米はどこにありますか?」
「こっち」
美津子は、食材の保存場所だけでなく、炊飯器、オーブン、ミキサーなど基本的なキッチン家電がどこにあるか、コンロへの火の入れ方、食器の収納箇所、消耗品の置き場…など、一通りのことをざっと杏奈に説明する。
レストランでの勤務経験のある杏奈には、はじめてで戸惑うような業務用器具などはなかったが、慣れるのにしばらくかかりそうだ。
「家事には、あまり時間をかけないように」
興味深そうに、棚にしまわれているスパイスや食材に目を走らせている杏奈に、美津子はそっと言った。
最初に会った時以来、杏奈には翳─タマス─があるように感じている。
キッチンの備品や食材を見ている時は、しかし、杏奈は目を輝かせている、と美津子は思った。
この日、新たに案内されたのは、キッチンの他にはお風呂場だけだった。離れにはシャワーはあるが、浴槽はないので、基本的には母屋のお風呂を使うといい、と言う。
すばらしいお風呂だった。通常の浴槽よりやや広い、檜風呂だ。
壁材と床材は黒で統一され、落ち着いた雰囲気。窓からは、あかつきの敷地を囲う生垣だろうか、槙の木の緑が見え、そよそよと風が入ってきている。
「こんな贅沢なお風呂に、毎日お湯を張って良いんですか?」
そんなことに驚き、感動する杏奈が、美津子は少し可笑しかった。
そんなに貧しい家の出ではないだろうに。
「体は温めないとだめよ。冷めやすいから、入る時は間を開けないように、声をかけあいましょう」
杏奈は頷きながら、さて、離れのシャワーだけで過ごすのと、お風呂を毎日使うのと、どちらが快適だろう、と思った。
この家で、家族のように、三食を美津子と共にし、同じ湯船に入るのか。
うまくやっていけたら良いけれど、うまくやれなかったら、とてつもないストレスに感じるだろう。
それでなくとも、杏奈は、人付き合いが嫌い。
家族であっても、家の中でずっと顔を合わせているのを好むわけではなかった。どちらかというと、部屋に閉じこもっている。
それが、他人と四六時中顔を合わせるという状況になったのである。
仕事はともかく、プライベートな時間までうまくやっていけるか、杏奈は不安だった。
これからどう毎日を過ごしていけるのか、想像もできないまま、その日杏奈は、早々と布団に入った。
翌朝、決められた時間(七時半)に、美津子と朝ごはんを食べた。
「食事はいつもこんな感じで?」
整然と配置された料理─ごはん、わかめとねぎのみそ汁、卵焼き、オクラのおかか和え─を見て、美津子が尋ねる。
「今日は、炊事を任されて初めての料理だったので、いつもよりまともなものを作りました」
杏奈は控え目に答えた。
美津子は特にそれには答えず、杏奈と向かい合って座り、きちんと手を合わせる。
まじまじと美津子を見たことがなかったが、美しいひとだ。
身長は平均的、痩せ過ぎてはいないが、痩せている。
顔は面長で、頬骨が高く、一つひとつのパーツがはっきりしている。
わずかにオレンジみがかった黒髪は、肩の下までの長さ。前髪はなく、七、三分けにしてゆったりと左右に流している。
綿麻生地の七分袖のブラウス、同じ素材の白いズボンという出で立ち。
銀灰色のブラウスの袖にはレースがあしらわれていて、涼し気な透け感がある。スタンドカラーのボタンは、首元までしっかり留まっていた。
一方、杏奈は白い綿のTシャツに、ジーンズ、ややオーバーサイズの長袖のネルシャツを羽織った姿。
髪は無造作に後ろで一つに結んでいる。
お客がいない時のあかつきでの服装は特に指定を受けていなかったが、このラフさは、さすがにまずかったのではないかと反省する。
─でも、朝だし、仕事中ではないし…
と言い分けが心に浮かぶ。杏奈は味噌汁を啜りながら、やはり勤務時間とそうでない時間の棲み分けをはっきりさせたいと思った。
ちらっと美津子を見やると、ゆっくりと、よく噛んでただ食事をしている。
経歴的に、若くはないと思われる。杏奈の母親と同じくらいかもしれない。
ややつり上がった眉と凛とした居ずまいからは、意志の強さが感じられるが、まとっている雰囲気は意外なほどに柔らかい。
先ほどから、料理の感想を言うでもなく、新人としての心構えなど説教垂れることなく、黙食を続けている。
─あんまり喋らない人なのかな。
─朝ごはんはこんな感じでよかったのかな。
─ふだんは何を食べているのだろう。
─好きな食べ物とかあるのかな。
と、杏奈は心の声ばかりがうるさい。
声に出せばいいのに。
これからアーユルヴェーダの師となり、契約的なことはともかく、実質的には上司となる存在なのだから、会話を通して理解を深めなければならないのに。
もやもや考え事が止まない杏奈は、ふいに美津子と目が合い、どきっとした。
「あ、あのう…」
しどろもどろに言う。
「ごはんは、こんな感じで良いのでしょうか」
「朝は、どのくらいの量を食べてる?」
「私ですか?ええと…量は今日と同じくらいか少し少な目です。品数も少な目です」
「じゃあ、これからもそれで良い」
「えっと…」
「たとえば、オクラもみそ汁に入れてしまえばいい。今日なら、卵焼きはあってもなくてもどちらでも良い。豆腐を味噌汁に入れてもたんぱく質は摂れる」
杏奈は頭の中で美津子が言った朝食を描いた。
「つまり…もう少し、簡素な感じで良いということでしょうか」
「私たち二人だけが食べるのなら、それで十分」
そう言って、みそ汁を啜る。
「私は、朝お腹が空いていたとしても、消化が強くなくて、食べ過ぎないほうが午前中の仕事がうまくいくと感じる」
「はい」
「でも、私とあなたは年齢も大分違うから、差をつけていいよ」
といっても、上司には卵焼きをつけず、自分は卵焼きを食べるわけにはいかないだろう。
杏奈は頷きはしたものの、探り探りやっていくしかないな、と思った。
「ただ、要領良くね」
と、美津子はさらりと付け加える。
「あなたも個人事業主だったから分かると思うけれど、仕事には終わりがない。やろうと思えば、いくらでもやれることはある」
「はい」
「そういう状況で、炊事洗濯にかけていい時間は、自分の中で決めておくべきよ」
そこまで言って、破顔した。
「と、言ってみたけれど、炊事洗濯の時間を切り詰めないといけないような状況は、ラジャスね」
ラジャスとは、アーユルヴェーダの基本概念で、万物に宿る三つの微細な性質─マハグナ─の一つだ。
マハグナは、心の性質とも言われる。
ここで美津子の言うラジャスとは、「過剰さ」を指しているのだろう。
「効率ばかりでもいけないけれど、ペースを早めすぎてもいけない。何事もほどほどが大事ね」
上司の口ぶりだったのが、急に田舎の母のような温かさになる。
「私、気付くと料理を、だらだらしてしまいがちなんです。なんというか、時間かかっても、嫌じゃないんです。料理している間はそれに集中できて、その時間が好きで」
「そう」
「でも、だらだらしないように、気を付けます」
美津子はふふ、と笑って、また箸を取った。
「あっ、そういえば」
杏奈にしては珍しく、思ったことがそのまま声に出た。
美津子の笑顔を見て、少し安心したのかもしれない。
「写真を撮るのを忘れてた」
「写真?何の…もしかして、この料理の?」
「そうです」
杏奈はしまった、という顔をした。美津子はちょっとわからない、という顔をして、
「食事の前にいつも写真を?」
「時々…ブログやインスタへの投稿に使えるし、アーユルヴェーダ料理との対比で、和食の写真が必要になる時もあるので、撮っておくと便利なんですよ」
と言ってから、思い出したように、
「そういえば、ブログやインスタの投稿や管理は、今後どういう風にやっていけばよいでしょうか」
気になっていた仕事内容のことを聞く。
しかし、美津子は手を挙げて軽く制した。
「あなたの引っ越しの片付けが終わったら、話をする時間を取るわ」
杏奈は美津子にならい、あくまで食事を続けた。
「そうすると、さっき私が言ったような料理では、絵にならないかしら」
ふと気が付いたように、美津子は言った。
「いえ、毎食撮っているわけではないので」
すぐにかぶりを振って、こうも付け足した。
「でも、きちんとした料理を食べるって、自分にとっても大切なことですよね」
「それはそうね」
今や、写真をアップするために、映える料理や服装に整える…ということを行いがちだが、本来それは、誰に見せるためでもなく、自分のために行うこと。
「レストランを辞めて、これからどうするか考えていた時」
杏奈はテーブルの上を見るともなく見やって、
「まず思い浮かんだのは、ちゃんと料理をして、ちゃんと食事をしたいっていうことだったんです」
「ふうん、食事をね」
それまで、アーユルヴェーダ料理をうたった食事をレストランで提供し、料理教室で伝えてきた。
しかし、自分はというと、余りもの、手っ取り早いもの、そういったものをよく咀嚼もせずに流し込んで、まともな食事をしていなかった。
そうさせたのは、将来への不安であり、その不安を解消するために、少しでも前に進まなければ、早く次のことをしなければならないという焦燥感だった。
アーユルヴェーダが推奨する食習慣を実践したい。
アーユルヴェーダに関連する仕事を続ける、続けないに関わらず、自分の健康のために、そうしたいと思った。
今でも変わらないその心の内を話す杏奈の指に、美津子は今一度さりげなく焦点を合わせた。
「なら、実践すればいい」
こともなげにそう言った時には、美津子の視線は、すっかり食べ終わった後の食器に落ちていた。
杏奈ももう、食べ終わっている。
「はい」
素直に返事をした杏奈だが、アーユルヴェーダが推奨する食習慣を守るとは、そう簡単にできるものではない。
美津子は心の中で、唇をかんだ。
「杏奈」
呼び捨てにされたのは、はじめてな気がする。そう思った杏奈が返事をするより早く、
「これからの数週間は、なるべく、ここの畑で採れたものだけを使うように」
と、美津子は静かに言った。
「畑で採れたものだけ、ですか?」
杏奈は目を大きく見開く。畑には、近寄ってどんな野菜が実っているか、しっかり見たことがなかった。
今日のこのオクラなども、杏奈があまり見たことがないほど、大きくて、より毛がゴワゴワしていたように思う。あかつきで採れたものだったのだろう。
「えっと…野菜以外のものは、どこで買ったら良いですか?」
そういえば、あかつきから最寄りのスーパーはどこなのだろう。
「買い出しには行かなくていい。私がする」
しかし、美津子の答えは、杏奈の疑問を解消するものではなかった。
杏奈は目をぱちくりとさせ、
「でも、たぶん、自分のものも買い出しに行くと思うので、私も買い物くらい─」
「自分のものって何?」
「…」
杏奈は一瞬、答えに窮した。
「食事の面倒はみると言った。…作るのはお任せするけど」
「えっと、飲み物とか」
「そこにあらゆる種類のお茶があるわ」
「でも…」
「自由に飲んでいい」
「…」
「分かった?あかつきにあるものだけで、料理を作り、作ったものだけを食べる」
「はい」
返事はしたものの、暗に買い物に行くなと禁止されたような気がする。返事が「はい」でよかったのか自信がない。
別に買い物に行きたいわけではない。
けれど、離れで一人で「何か」食べることも、当然あるだろうと思っていたのだが…。
午前中に、杏奈は片付けを黙々と行った。
一回、縁側から外にいる美津子に声を掛けられ、出て行くと、そのまま畑に連れられていった。
美津子は綿麻のズボンとブラウスはそのまま、農作業用のかっぽう着を身に着けていた。
蚊に刺されそうだし、自分も何か防御力のあるものを…と思ったが、意外にも蚊が出ない。
美津子曰く、ボウフラをカエルが食べたのか、未だにほとんど蚊が出ないということだった。
美津子が採取する野菜を、母屋に持っていくよう指示される。
小さなザルにいっぱいのスナップエンドウ、まだ若いきゅうりが二本。グリーンピースが少し。
野菜を持った杏奈が、玄関へ向かおうとするのを美津子は止め、お勝手口から入るようにと教えた。
なるほど、その方が靴を脱がないでキッチンに入れる。むろん、土を落としてからではあるが。
─今日のお昼ごはん、何にしようかな。
腕に抱えたものを見下ろしながら、杏奈は献立を練る。
炊事の時間もほどほどに、と美津子は言っていたから、あまり手が込み過ぎても喜ばれないだろう。
手っ取り早いところでいうと、きゅうりと生姜と塩で揉んだものが副菜としてできそうだ。
グリーンピースがあるなら豆ごはんか。
卵は朝食べたから、豆腐とスナップエンドウでお吸い物を作って…。
献立を考えるのは楽しい。
野菜をしまい、キリの良い所まで荷解きを終わらせるために、再度離れに戻ろうと外に出ると、美津子は屈んでまだ農作業をしていた。
自室に戻りながら、杏奈は思う。
畑で採れたものだけで食事を作れと言った、美津子の意図はなんなのか。
確かに、採れたての野菜はプラーナに満ちているとされる。
プラーナは生命エネルギー、生命力、活力などを意味するサンスクリット語。日本語では「気」に相当する。
アーユルヴェーダではプラーナ豊富な食べ物を食べることが推奨されている。
プラーナ豊富な食べ物とはすなわち、採れたての新鮮な野菜や果物、精製されていない穀物、それらを使った作り立ての食事のこと。
何を体に入れるかを大事にせよということなのか。
それでは当たり前過ぎる気もするが…
翌日、正午前。
杏奈はマスクと手袋を装着し、母屋で掃除をしていた。
階段の手すりを拭き、掃除機をかけ、最後に赤い絨毯に「コロコロ」をする。
昨日の午後は、ガイダンス的なあかつきの説明と、パソコンの設定、SNSの管理者権限の付与などの操作で終わった。
美津子が話した、あかつきの使命。
それは、アーユルヴェーダの生活を実践できる場を提供し、お客に活力を取り戻してもらうこと。
理想的な生活とはどのようなものか、一時的に体験をし、変化を感じてもらうことに重点を置いている。
そしてそれを、その後の生活にも活かしてもらう。
アーユルヴェーダ治療院と呼ばれる施設が、アーユルヴェーダの発祥の地・南インドや、スリランカに存在する。
これらの治療院は、リゾート施設を兼ねている所も多く、滞在者はリゾート気分を味わいながら、トリートメントを受けることができる。
ゆったりと規則正しい生活をし、ストレスから解放され、ヨガを楽しみ、体質に合った食事を摂り、アーユルヴェーダトリートメントを受ける。
アーユルヴェーダ治療院への滞在は、ヘルスツーリズム(健康増進につながる観光・旅行)として、需要が高まっている。
あかつきの機能は、これらの海外の治療院とほぼ同じである。
もちろん、国内なので、外国ほど非日常感はないかもしれないし、日本では見られない植物や動物を見られるとか、食べ物を食べられるとかいうわけでもない。
でも、その方がむしろ良いと思うお客も確実にいるだろう。
何より、海外に行くよりも、低コストで済むし、リスクも少ないはず。
里山に囲まれた、自然豊かな土地で、ゆっくり自己と向き合う時間を作る。それだけで、非日常であることには違いない。
しかし、感染症の流行以来、活動を縮小し、美津子が一人で対応できる範囲の仕事に留めているらしい。
コロコロを掛け終わると、杏奈は二階の施術室へ向かった。
─うわ。
杏奈はこの部屋が一目で好きになり、今日も、その独特の佇まいに、思わず目を細める。
今日の朝、ざっと美津子が母屋の中を案内してくれた。
一階は、玄関ホール、応接間、居間、書斎、キッチン、施術室、ランドリー、お風呂場、男女別のトイレ。それに、美津子の居室である和室が二間。
二階は、客間が二間、男女共用のトイレ、そしてこの施術室。
どの部屋も整然としていて、重厚感のある家具は統一感があり、深みのある色合いがこの家の雰囲気を落ち着いたものにさせていた。
その中でも、この部屋は、何度でも入りたいと思うような趣がある。
奥ゆかしい和の造りだが、光沢のある紫色のベッドカバーで覆われた施術用ベッドと、真鍮のシロダーラポットが、絶妙にこの空間に溶け込んでいる。
そしてアンティークなペンダントライト。内障子と源氏襖から差し込む光。
杏奈は窓を開けて換気をする。
今日もよく晴れている、健やかな晴天であった。
空気は湿気をはらんでいるが、それもまだ不快と感じるほどでもなく、室温でも快適に過ごせる気温。
深呼吸をして、杏奈は窓の外の景色を見る。明神山の山裾がすぐそばに迫っているのが見える。
森のにおいをふくんだ風が、窓を通り抜けていく。
杏奈はマスクを下におろして、すう、と息を吸った。
最近、プラーナヤーマ(調気法)の練習をしていない。
だから、気が付いた時に、杏奈は少なくとも深呼吸だけはしようと心がけている。
窓を開ける時というのは、そのスイッチになることが多い。
隣のメイクルームとを隔てる源氏襖、メイクルームの窓も開けて、風通しをよくする。そして埃を落とし、掃除機をかける。
─こんなことまで、美津子さん一人でやっていたのか。
感染症以前は、何人かのセラピストと業務委託契約をして、食事を担当するスタッフもバイトで雇って、同日に複数のお客に対応することもあったという。
しかし、今定期的に手伝いに来るのは、料理スタッフのみ。セラピストに業務を委託することはごくまれ。
料理教室を運営していた杏奈には、お客を迎えるまでに、やらなければならないことが山積みであることを、知っている。
コンセプトづくり、ターゲットの明確化、コンテンツの整理、情報発信、お客との連絡…
それだけでも大変なのに、美津子はお客が来れば、料理を除き、一人で対応していたのだ。
そして、この広い家のメンテナンスも。
杏奈は部屋の北側、シャワールームの隣にある襖を開けた。押し入れの中なのに、洗面台があり、施術に使う道具も置いてある。
左側の襖を開けると、そこが掃除道具の格納先だった。
─家事に慣れるって、ちょっと見くびってたな…
広い家を綺麗に保つのは大変だ。
美津子は、毎日すべての場所の掃除はせず、小分けにして行っていると言っていた。
たとえば、今日は階段と二階の施術ルーム。次の日は、二階のトイレと、客間二部屋。その次の日は、応接間、居間、書斎…というように、ローテーションを組むといいと。
─大変だ。
杏奈は掃除機を持って、下に降りた。次は、昼食の準備をする。
その頃、美津子は一階の応接間で、パソコンを開いて、時々何かを入力していた。
傍に「子育て情報誌 はぐくみ」と表題が書かれた雑誌が置いてある。
二階から杏奈が降りてくる音がする。これからキッチンで、昼食の準備に取り掛かるのだろう。
─これからは、より総合的に、よりクオリティの高いケアを、今より多くのお客に施せるよう、体制をととのえようと思ってる。
美津子は昨日、杏奈にそう告げた。
今まであかつきの業務を手伝ってくれていたスタッフたちも、頼れなくはないが、多くは生活をもっていて、この不便な足込町に常駐できる者はいない。
一方、杏奈は住み込みも辞さない身軽さがある。しかも、一時でも、経営者の目線を持って働いていたという経歴は、これまでのスタッフにはないものだった。
─素直だし、真面目な子…。年齢相応の明るさがないのは気になるけれど…。
美津子は、杏奈がいるキッチンのほうを見た。
─気長に育てる、か。
それにしても、家事を杏奈に任せたからか、今までできていなかった仕事が進む進む…。
これからの仕事のために、杏奈にこの家のことを覚えさせたいというのが本心であり、己の利を思ってのことではなかった。
が、思いがず仕事時間の確保につながった。
美津子は自分が家事に取られていた時間を思って苦笑した。
午後、杏奈は自分の持ってきたパソコンで、あかつきのホームページの編集画面に入る。
幸いにも、自分が使っていたコンテンツ管理システムと同じで、操作方法などは説明を受けるまでもない。
「ホームページまわりのことは、杏奈のほうが長けていそうね」
設定がどうのこうのと言いながら、カーソルを動かす杏奈に、美津子は言った。
「いやぁ…」
と、あいまいな返事をしつつ、杏奈は、美津子がホームページを自前で作っているというだけでも、すごいなと思う。
杏奈の両親は、まったくパソコン関係のことに疎いからだ。
「固定ページやブログの投稿なんかは、ずっとおざなりになってしまっているから、ちょうどいい」
と、美津子は言った。
「いずれ、ここに書いている内容を刷新するつもりで、あかつきのことを知って。杏奈」
「え?私が書き替えるということですか?」
「そう。メモでもエクセルでも、何でもいいから、たたきができたら、私に見せて。それを読めば、あなたがどのくらいあかつきのことを知ったのか、私も把握できる」
一か月以内に、それができればいいだろうと美津子は言った。
─私の最初の仕事は、あかつきを知ること…
では、掃除しながら、あかつきという空間について思ったこと…
家の内観が素晴らしいとか、和の空間とアーユルヴェーダの組み合わせが良いとか、森のにおいのする風が気持ちいいとか…
そういう小さな気づきも、あかつきを紹介する時に、役に立つかもしれない。
思ったことをメモしておけばよかった、と杏奈はほぞを噛んだ。
第一印象で良いと思ったことは、きっと他の人にも響くだろう。
「サイトの構造も、おかしいと思ったら、教えて」
「私、専門家ではないですが、良いのでしょうか」
「専門家でなくても、立派なホームページを作っていたじゃない。私よりも、知見や技術があるはずだわ」
美津子は本心から、一任するのも悪くはないと、思っている。
本人もまんざらではなさそうだ。こういう仕事は、おそらく得意なのだろう。
「SNSも、任せていけたらと思っているの。現代的な集客ツールに疎くてね…」
「いや、そんなことないと思いますが…ちなみに、あかつきに来るお客さまは、何を見てくる人が多いのですか?」
「口コミでやってくる人がほとんどよ」
「口コミ…」
「そう。助けてくれる人もいるからね」
口コミで広まっているなんて、料理教室時代、一回でもいいからそんな認識をしたかった。
これが美津子と杏奈の実力の差、というものか。
いや、実力という以上に、継続年数の差もあるが。
「そういえば、あかつきの事業を始めて、どのくらいになるんですか?」
年数を計算するような間があった。
「十一年」
「十一年…」
思ったほど、長くはない。
確かに、この家はまだ新しく、年季が入っているとはいえない。
そもそも、あかつきの創立を理由に建てたのだろうか。それにしては、敷地が広く、建屋も立派で、開業資金がかなり潤沢でないと、そんなことはできないだろう。では、もともと美津子か、あるいは美津子の親族の持ち物だったのか。
しかし、その疑問は、問うタイミングを逃した。
美津子の注文が続いたからだ。
二人一緒にパソコンとにらめっこしている時間は、そう長くはなかった。
美津子は自室で仕事をすると言って去っていき、杏奈はもう少し応接間に残って、さっそくこれまでに感じたあかつきの印象をメモしておくことにした。
うら暖かい午後の日射しが入る応接間。
一通りメモを取って、あかつきのホームページの構造、SNSなどを見、改善できるところはないか探っていた杏奈だったが…・
─コーヒー、飲みたいな…
そんな欲望が顔をもたげる。
実はパントリーに、美津子の私物なのか、来客用なのか、スタッフのものなのか、ドリップコーヒーセットがあるのをちゃっかり見つけている。
一人暮らししていた頃も、実家にいた頃も、何かしらお菓子を食べたり、コーヒーを飲んだりしていたので、それが数日ない…というだけで、ちょっと口さみしい。
もちろん、間食やカフェインがアーユルヴェーダ的に勧められていないことは分かっている。
けれど、頭が冴えなくなると、コーヒーや甘い物を欲してしまう。
夕食後も、実は甘い物に対する欲求がある。
しかし、杏奈はすんでのところで、自分を律していた。
おそらく美津子は、アーユルヴェーダの実践を杏奈にさせたいのだろうから、その意図をふいにはできない。
そもそも、食べるものがなければ、間食もしようがない。
それからの数日は、杏奈にとって、今までになく、のんびりとした時間を過ごした。
三食を作って、だいたい午前中に掃除のノルマを終わらし、美津子と話をして、ブログやSNSに使うネタを集める。
自由に読んでいいと言われた、書斎のアーユルヴェーダ本を読んで勉強をする時間すらあった。
美津子は杏奈に体を動かすことを勧める。そこで、あかつきの電動自転車を借り、足込町の中心地まで下りて行ったり、栗原神社まで散歩をしたりした。
町の中心地に「わかば」という食料品店があったが、杏奈はそこは素通りした。
離れでこっそり食べる何かを買うこともできたのだが、美津子の顔を思い浮かべて克服した。
柳という老人が訪ねてきた時、杏奈は畑に駆り出された。
実をいうと、虫が苦手なので、あまり積極的に手伝おうとは思っていなかったのだが。
そう。あかつきに住み込んだ杏奈を、最初に苦しめたもの。
それは虫だった。
今まで済んでいた東京の仮住まいや実家より、はるかに自然豊かな土地なのだから、当たり前だが…。
畑を手伝おうとすれば、当然そこには虫がいたし、そんなに頻繁にではないが、母屋や離れの玄関先、軒先に、今まさに忍び込まんとする蜘蛛や、小さなムカデ、名前も知らない虫をみつけることがあった。
「ひゃっ」
杏奈は土中にミミズを見つけて、思わず立ち上がる。
そんな様子を見て、柳は麦わら帽子の影から軽く笑った。
「慣れだて、慣れ」
柳は、美津子に農作業を教えてくれているご近所さんだった。
日に焼けて、皺が濃い。身長は美津子より低いくらいで、背骨がやや曲がって前傾姿勢だが、農作業をする手付きは早い。
次に何を蒔くといいとか、土に何を混ぜると良いとか、そんなことを、美津子に教えている。
美津子は柳老人の言葉をよく聞き、談笑しながら農作業にあたっていた。虫を怖がる様子もない。
蚊に刺されないのはいいが、農薬を使わない畑で採れた作物からは、たまに葉っぱの裏に虫がひそんでいることもあり、杏奈はキッチンでも、もう何度か息を吞んでいる。
それでも、杏奈は極力、美津子が畑に出ているのを見かけると、自分も手伝うようにした。
その他にはほとんどやることもないのだし、手伝わなければ、なんだか悪い気もした。
─ロハスな生活じゃないか。
夜、杏奈は離れで、寝具の上にあおむけになって、自分にそう言い聞かせて励ましてみる。
しかし、何をしに自分はここに来たのか、これではまるで分らない。
あかつきに来るお客はいないし、賃金が発生するような仕事をしていないから、稼ぎはゼロ。
支出もほとんどないとはいえ、毎月の保険料や、年金の納付はしなければならないわけで、焦燥感ばかりが募る。
そして、食べ物である。
日頃からジャンキーなものを食べてきた杏奈ではないが、畑で採れたもの縛りは、割とこたえた。
この時期に採れる野菜は固定されていて、しかもそんなに多くの量を採れない。
「甘い物食べたいなー」
翌、お昼前。杏奈は応接間のテーブルに片方の頬をつけ、独りごちた。
間食を食べなくなった分、杏奈は三食の中できっちり甘味を求めるようになった。
しかし、今は畑でさつまいもや、かぼちゃなど甘味のある野菜は採れないし、毎回美津子の買ってくるものの中から、甘味の強い野菜があるとも限らないので、そうなるとやはりご飯を食べることになる。
そしてたんぱく質。美津子は三日に一回くらい、肉か魚を買ってくる。卵は、六個入りを一週間もたせろという。
代わりに、 あかつきには、ありとあらゆる種類の乾燥豆があった。
あずき、黒豆、大豆など、日本人にも馴染みのあるものの他に、イエロームングダル、緑豆、赤レンズ豆、黒目豆、ひよこ豆なども。
アーユルヴェーダの料理を始めてから、乾燥豆の扱いになれてきた杏奈ではあった。
しかし、和の献立では、これらの豆が他の料理とミスマッチになってしまうこともある。
美津子に相談したところ、
─杏奈のアーユルヴェーダ料理でもいいよ。
と言ってくれた。そこで、今日の昼はダルスープとご飯に、野菜の炒め物にでもしようかなと思っている。
いかにも、そそられない。
なんだかひもじい。
これでは栄養が不足してしまうのではと思うほどだ。
暇ができると、甘いお菓子を求めて触手が動く。しかし、あかつきの冷蔵庫やパントリーにありはしなかった。
美津子が帰宅したのが、足音で分かる。杏奈はしゃきっと居ずまいを正して、机に向かった。
「ただいま」
「おかえりなさい」
「今日はバナナが安かったんだけど、杏奈、食べる?」
「食べますっっ」
杏奈は思わず目を輝かせた。
お菓子がふんだんにあった実家では、母が姪っ子のためにバナナを買ってきても、見向きもしなかったが、今やとんでもないご馳走に思える。
しかし、一瞬杏奈を見た美津子の目は「分かってる?」と問うている。
分かっている。
バナナは、バナナだけで食べるのが正解だ。
昼ご飯のデザートに出していいものではない。
「明日の朝ごはんは、バナナと、他に買ってきたフルーツでもいいかもね」
「はい」
杏奈は答えながら、動物にでもなった気分だった。
アーユルヴェーダでは、果物を他の食べ物と一緒に摂ることを勧めていない。
果物は消化が早い。しかし、胃の中に他の食べ物が同居していると、果物の消化がうまくいかず、そこで発酵して未消化物(サンスクリット語でアーマと呼ばれる)になるとされている。
未消化物は、体に有害で、あらゆる病気の元になると考えられているため、未消化物を蓄積しない食べ方、食べ物が重要。
そのため、果物と他の食べ物の組み合わせには、注意が必要なのだ。
その日の夕方。
あかつきに来客があった。
杏奈はその時、二階の客間にいて、車の音がしたので、窓から下を覗いた。
眼下には槙の木の生垣と、土の小道、草原。生垣の一部は敷地側に窪んでいる。その開けた空間に、白いハリアーが止まった。
出てきた人物は、頭髪がないのか、地肌がもろに見えた。服装からして、お坊さんだ。
ドアが閉まる音、ライトの点滅とともに、ロックの音。
杏奈は下に降りた。
「ご縁さま」
玄関から、美津子の柔らかい声が聞える。
杏奈はなんとなく、階段から降りてすぐところ、ホールの真ん中に突っ立っていた。
男の声がするのだが、くぐもっていて、よく聞こえない。しかし、美津子のいつになく朗らかな声色からして、相当見知った客なのだろう。
玄関とホールとを隔てるドアが開いて、杏奈は思わず背筋を伸ばした。
こんなところに無造作に立っていて、聞き耳立てていたと思われるだろうか。でも、逃げ遅れてしまった。
「杏奈」
美津子は棒立ちになっている杏奈を見て、おやという顔をした。両手に、何かが包まれた紫色の風呂敷を抱えている。
来客は、美津子の後ろに続いているのだが、美津子より頭一つ分背が高いため、後ろにいても顔が見えた。
凛々しい眉とは対照的な、穏やかな大きな目を持つ、大柄な男だった。
重ね着した白衣が鮮烈に透ける、涼し気な黒い改良衣を着ているので、一目で僧侶と分かる。
僧侶の目線は、まっすぐに杏奈に届いた。杏奈は、その強い目力にどきっとする。
「杏奈、こちら、足込善光寺のご住職、加藤さん」
「はじめまして、古谷杏奈です」
名乗るのに続けて、あかつきとの関係を説明しようと、杏奈は頭の中で言葉を探った。が、言葉を発する前に、
「ミツから話を聞いていたよ」
と、加藤が言ったので、杏奈の思考はそこで止まった。
新人が働いている(実際には、田舎に遊びに来たけど家事は全部やっている娘か孫のようなものだが)という説明を、美津子はいつしたのか。
「ご縁さまが、杏奈に太極拳を教えてくれるそうよ」
「え?」
唐突な話に間の抜けた声が出た。いつ、太極拳を教えてほしいと頼んだだろうか。
「着替えをする。どこか部屋を貸してくれるか」
「こちらへ」
美津子はホールの奥を示す。その先には、一階の施術室があった。
「杏奈は…」
と、階段近くの杏奈のところまで戻って来た美津子は、杏奈を下から上までなぞるように見た。
朝から会っていたはずだが、杏奈の服装など、気にもしていなかったらしい。
この日も、杏奈は変わり映えなく、白い綿のティーシャツ。それから、生成りの綿のズボン。
「そのままの恰好でよさそうね」
「えっ、本当にやるんですか?太極拳」
杏奈は頭の中で、公園で、胡弓の音楽を流しながら、ゆったりとしたポーズを取る人々の姿を思い浮かべた。
あれを、やるのか。
なぜ。
「私、太極拳やったことないのですけど…」
「そう。体験だと思って、やってみるといい」
「なぜ、いきなり?」
「気をもらえるわよ」
美津子はそう言って、さっさと自室のほうへ去っていく。
一人残されて、どうするべきか立ちすくむ。ここで待っていれば良いのだろうか。
施術室の扉が開いた。
加藤は、先ほどの改良衣から、紺色の作務衣に着替えていた。足は裸足だった。
加藤が近づいてくると、改めてその背の高さに気圧されそうになる。
「外へ行くか」
と、言って、加藤は杏奈の返事も聞かず、そろそろと玄関のほうへ歩んでいく。
美津子とは既知の仲らしい加藤を無下にはできず、杏奈は言われるままに付き従う。
夕暮れの空が赤らんでいた。
遠くにカラスが飛んでいく鳴き声がする。
昼に比べてわずかに勢いを落とした蝉しぐれ。
「熱くはないな」
「何を…」
畑と離れの前庭の間、少し開けた空間で、加藤が平らな土の上に素足を置くのを、杏奈は戸惑いの表情で眺める。
「たまには、土に触れるのもいいものだよ」
そう言って加藤は、すぐ草履を脱いで、両足を大地においた。
後ろで、玄関の戸が開く音がする。振り向いたが、加藤が裸足になっているのを認めると、美津子はなにか心得たように、すぐに母屋の中に戻っていく。
「裸足で立ちなさい」
加藤は言った。杏奈は、一瞬の逡巡の後、言われるままに、サンダルを脱いで、大地に立った。
土は熱すぎないが、熱を帯びている。痛くはないが、小さな石が足裏に当たる感覚がある。
視線を足元から、正面に立つ加藤に戻す。するとそこには、坊主頭なのに不思議と端麗な顔と、人生の表裏に通じた者のもつ深い受容のまなざしがあった。
突然始まった太極拳の指導に、杏奈ははじめ、面くらっていた。しかし、呼吸と連動させてのゆっくりとした動きは、杏奈にも馴染みのあるヨガを思い起こさせた。気付けば必死に、加藤の動きを再現しようとしていた。
加藤の低く落ち着いた声は、心地よい。七分袖の作務衣から除く太い腕は、筋肉質で、指導のために彼が近づくと、その熱を感じた。
「イン─」
「エクスヘイル─」
吸う、吐くの掛け声は、英語を使っていた。
動きの見本を見せる加藤が、掛け声の後に呼吸をする音が、力強く鼓膜に届く。
そのひと呼吸で、普段呼吸が浅くなりがちな杏奈の、十倍ほどの酸素を吸い、また吐いているのではないかと思うほど。
腰幅に足を開き、腰を落としたり、拳を作ったりする、どこか男らしい太極拳の動き。杏奈は抵抗があったものの、柔和な表情ながらも真剣に指導する加藤に、ついていこうとすることで、誠実さを返そうとした。
すぐ後ろで、美津子も同じ型を実践している。
「ふぅ…っ」
ゆっくりとした動きだが、だからこそ、きつい。
杏奈がうっすら汗をかきはじめたところで、目の前の大きな男は、その相好を崩した。
「今日は、このくらいに」
そう言って、右手を拳に、左手を掌にして合わせ、お辞儀をする。
杏奈も、美津子もそれに倣った。
「杏奈は、ヨガの資格は持っていたんだったね」
美津子が後ろから声をかけた。
「はい。ただ、人に教えた経験は少なくて、間も空いているので、伝える技術が落ちてしまっていると思いますが」
「そう。お客が滞在中、ヨガの練習ができればと思って、セラピストの中にヨガを教えられる子がいると、その子に頼んでやってもらっていた時期もあるんだけど」
そこまで言って、美津子は視線を加藤に移す。
「そういう子がいない時は、ご縁さまにお願いして、太極拳を教えてもらっていた」
「そうだったんですか」
となれば、自分はお客さまと同じ体験ができたわけだ。
「太極拳も、ヨガと同じように、呼吸を整えられて、ゆっくりとした動きで、特にヴァータをととのえるのに向いていると思う。杏奈はそう思わない?」
「そうだと思います」
ヴァータとは、アーユルヴェーダが捉える代謝エネルギー─ドーシャと呼ばれる─の一つで、運動のエネルギーを司る。
ヴァータが過剰になっている時、人は物事をスピーディーに進めようとする傾向がある。そのため、アーユルヴェーダでは、反対の性質─すなわち静─を取り入れることによって、バランスを取ろうとする。
ゆっくりとした動きに呼吸を合わせ、集中力を求められるヨガや太極拳は、そのヴァータに向いている、というわけだ。
加藤は、男らしい顔かたちには不釣り合いなほど薄い唇の角を上げ、
「まあ、武道としての太極拳は、また別かもしれないな」
と言った。
太極拳の指導が終わると、加藤は早々に帰り支度を済まし、玄関に立った。
美津子が用意してくれた、水で湿らせた人数分のタオルとバケツ。使い終わったそれを、杏奈は片付けようとしたが、美津子は自らそれを引き受け、加藤を見送るように言付けた。
「どうだった。太極拳は」
と杏奈に感想を求めた。
「難しかったです。型を追うのに精いっぱいになってしまって、呼吸がブレてしまったというか…」
「丹田に意識を向けて呼吸をするといい」
と言って、加藤は自身の臍の、数センチ下あたりを指で押す。
「ここは気が集まる場所」
杏奈もつられて、自分のお腹に触れてみる。
シャカシャカと手をこすり合わせる音がして、杏奈は顔を上げた。
加藤は、こすり合わせた手を肩幅程度に開いた。
「この手の間に、手を」
杏奈は一瞬戸惑ったが、言われた通り、右手を加藤の手と手の間に入れた。
「気を感じられるか?」
言われて、杏奈は右手の感覚に神経を集中させた。
「…少し、温かい感じがします」
三秒ほど、二人は静止した。
加藤が手を下ろしたので、杏奈も手を引いた。
「アーユルヴェーダでも気を重んじるのだろう」
「気…プラーナですか。ええと…はい」
杏奈は、意図の分からない行動の連続に、続けるべき言葉が分からなかった。
戸惑いを隠せない杏奈に、加藤はやはり柔和な表情を浮かべたまま、こくりと頷く。
加藤は踵を返し、背を向けたが、ふと思い出したように振り返り、
「寺に用事があることはないと思うが、時間があったら寄るといい」
と杏奈に言い残して、去って行った。
果たして、加藤が住職を務めていると言っていた、善光寺に行くことがあるだろうか。もし行くとしても、それは加藤とつながりがあるらしい、美津子と一緒に行くのだろう。
しかし、杏奈は初対面の加藤に、不信感は感じなかった。また、会うことがあってもいいと感じる。
直観だった。美津子の時と同じ。この僧侶は、自分に害を及ぼす人ではない。
気が付くと、杏奈は加藤の両手の間に差し出した右手を、左手で支えていた。
右の手と左の手に、何かちがいはあるだろうか。
杏奈は、加藤が「気」を送ったのではないかと感じて、それを探った。
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