生きる術

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生きる術

 あかつきの書斎で、杏奈は一冊の本を広げ、読み進めていた。時々、付箋を貼る。  あかつきに居候して、早六日。  就業時間というものもありはしないが、杏奈は完全に自由時間と思われる時間帯には、アーユルヴェーダの勉強にこつこつと励んだ。  未だに、さしたる仕事はしていないが、今日はちがう。  隔週土曜日、足込温泉に、弁当を納品する仕事がある。  あかつきがバイトとして雇っている料理担当から、その仕事を教わるのだ。  九時五分前…。  十一時には納品を済ませないといけないというのに、しかし、料理担当はやってくる気配がない。  杏奈は応接間を通って、キッチンに入った。  通り過ぎる時、応接間で机に向かっていた美津子をちらっと見たが、動じている様子はなかった。 ─十七食。  十七食のお弁当を作り、配達するのに、二時間で十分…と踏んでいるのだろうか。  杏奈は心配で、美津子が作ったメニュー表を基に、できることをした。まず生米を炊飯器に入れた。  今日は量が多いので、いつもの家庭用炊飯器でなく、ガスを使って炊く業務用炊飯器を使う。  主に事業用の食材が入っているほうの冷蔵庫─キッチンの奥にある─から、野菜を出し、すぐ使えるよう、調理台の上やシンク横に置く。 「おはようございます」  次にどうしよう…と地団駄踏んでいた杏奈は、玄関から快活な声が聞えてきて、ほっとした。 「おはようございます、小須賀さん」  九時五分。小須賀は遅刻の常習犯だったが、美津子は、いろいろな事情でそれを黙認していた。  さすがに少し急ぎ足で、応接間に入って来た小須賀は、座ったままの美津子の前で足を止めた。 「新しい人入ってるんですよね」  小須賀はかすれた声で尋ねた。ハスキーというより、酒やけしたような声だ。 「ええ。メニュー表は彼女が持ってるわ。今日はまだ何も指示していない」  すべては小須賀に任せる。 「はい」 「ご指導よろしくね」  小須賀はキッチンのカーテンをくぐって、入ってすぐ左側の棚に、黒いリュックを下ろす。  少しよれた感じのチェックのネルシャツを脱いで、ティーシャツとジーンズ、という姿になり、腰に紺色のサロンエプロンを巻いた。 「おはようございます」  そんな小須賀の後ろ姿に、杏奈は声をかけた。  振り向いた小須賀は、切れ長の一重瞼、面長、やや幼顔で、年齢はいくつくらいだろうか。三十代前半に見える。  背は中背だが、ひょろりともやしのように痩せていた。  やや色が白く、柔らかそうな黒髪が自然な感じに伸びている。 「おはようございまーす!」  小須賀は気合いを入れるように挨拶を返した。やや高い声で、やっぱり、かすれている。  名乗り合うのも手短に、小須賀は杏奈からメニュー表を受け取り、目を走らせる。 「仕込みどこまでやってあるの?」 「まだ…お米を一升炊飯器に入れただけです。あと野菜を…」 「おっけ!」  キッチンから、少しだけ声が聞えてくる。  美津子は少し口元を綻ばせた。 「米洗っちゃった?」 「まだです」 「じゃあ、半合減らして洗って。洗ったら、これを半合入れて」  小須賀は、コンロと調理台の右側、応接間側のステンレスの戸棚から、雑穀が入った大きなキャニスターを取り出し、どんと机に置いた。 「洗ったら、だよ」  と念を押した。 「分かりました」  杏奈は急いで計量カップを使って米の量を減らす。その米を袋に戻しに行く。 「ニ十分経ったら炊飯して」  その間にも指示が飛んでくる。  杏奈は大きなお釜をシンクに運び、とぐ前にタイマーをセットした。炊飯器のスイッチを入れ忘れたら大変だ。 「小須賀さん、今から、全部の料理作るんですよね」 「そうだよ。基本的に、作り置きはしない。枝豆かそらまめってある?」 「そら豆があります」 「茹でて」  スローライフに慣れ切っていた杏奈は、スピーディーに指示が飛んでくるだけでてんてこまい。  そら豆など、自分ではあまり買うことがなかった。  美津子曰く、わかば(スーパー)で、安売りしていたらしい。  調理台に置かれた野菜を確認しつつ、小須賀は先ほどの続きを話す。 「美津子さんの方針でね。アーユルヴェーダは、作り立ての食事を大切にするんだって?」 「はい。小須賀さん、そら豆って、まずさやから取り出せばいいですよね?」 「そう。あれっ?あんまりやったことない?」 「はい」 「あっそ。それで全部?足りるかな…足りるか。全部取り出したら、包丁のアゴで薄皮に切り目を入れて」 「はい!」 「先に、湯沸かして!」  そう言って、小須賀は適当な大きさの雪平鍋を、調理台にのせて押しやる。 「そこにいっぱい水を張ったら沸かして、塩入れといて。小さじ一くらい」  言われた通りにする。時間がないというのに、一つひとつ切り目を入れなければならないとは泣かせる。 「こんな感じでいいですか?」  ボウルに、調味料と、細かく刻んだバジルを入れている小須賀に、そら豆を一つ手に取って見せに行く。 「いいけど、お歯黒が目立つから、取り除いてね」  お歯黒もか。 「あれっ、これって…」  小須賀は急に気が付いたように、バッとメニュー表を右手で掴んで、目の前にかざす。 「このひよこ豆って…」 「あ、それだけは、朝のうちに乾燥を…」  杏奈が美津子から指示された唯一の仕込み。それは、昨日のうちにひよこ豆を浸水し、今朝水けを切って、ざるに並べ、天日干しにして乾燥させるという作業だった。 「よし、ありがと!」  小須賀は静かに、しかし気持ちよく礼を言う。 「持ってきといてくれる?」 「はい。これが終わってからでいいですか?」 「いいよ」  そら豆の処理には時間がかかった。やっとのことで終えると、杏奈は急ぎ足で居間へ向かう。カーテンを左右に開け放ち、掃き出し窓から降り注ぐ直射日光を浴びたひよこ豆が、床に並べたざるの上にのっていた。  小走りで、美津子の前を往復すること、三回。  キッチンでは大きなステンレスのボウルに、小須賀がスパイスを次々と入れていた。 「そら豆は入れといたから。あと二分くらいしたらザルにあげて。スナップエンドウの筋取っておいてくれる?」 「はい」  細かい作業が続く。  小須賀はガスオーブンのスイッチを入れ、ひよこ豆をボウルに次々と入れ、スプーンで混ぜる。天板を三つ準備し、クッキングシートを敷く。その上にオイルとスパイスをまとったひよこ豆を、重ならないように並べる。  そら豆を一つ菜箸で取り出し、爪を立てる。 「そら豆あがるよ!」 「はい!」 「冷めたら、薄皮むいといて」  やはり、細かい作業が続く。  小須賀はオーブンにひよこ豆を入れたところで、奥の冷蔵庫から大きな瓶を取り出す。 「これだけは、作っておいてくれたんだ」  スナップエンドウに立ち向かっている杏奈は、顔だけ小須賀のほうへ向けた。  大きな瓶に漬けてあるのは、カブ、ラディッシュ、ローズマリー、黒胡椒。ラディッシュの色がついて、カブも薄いピンク色に染まっている。  美津子が漬けたものらしい。 「おれは出品当日にしか出勤しないから、作り置きしないけど、今度自分一人で弁当作る時に、不安だったら、作り置きしておきな。こういう、漬物系とか、味を染み込ませるのに時間がかかるもの以外でも、ね」 「一人で弁当作る時?」 「おれの仕事引き継ぐんでしょ?」  小須賀は新しボウルにザルを重ね、瓶の蓋を開け、ジャッと中のものをザルに上げる。 「ミツさんからそう聞いてるけど」 「えっと…じゃあ、小須賀さんは…」 「なんだ聞いてないんだ。おれは、料理担当が新しく見つかるまでの、つなぎなの」  小須賀はザルに上げた漬物を、食材ごとに分けて、バットに広げる。葉がついたままのラディッシュを、縦半分に切る。  杏奈が一人立ちしたら、小須賀はバイトを辞めるということか。  そこまでは聞いていなかった。 「小須賀さんは、他に仕事を?」 「そりゃあね」 「どんな仕事をされているんですか?」 「レストランと、夜の店」 「えっ?」  杏奈は追加の説明を求めるように小須賀のほうを見たが、小須賀はそれには反応せず、 「スリランカ料理店で働いてたの?」 「はい」 「へえ。アーユルヴェーダって、インドのものだと思ってたけど、あかつきはスリランカ寄りなのか」  美津子がアーユルヴェーダトリートメントの手技を習得したのは、スリランカ。当然、美津子の教え子たちも、その手技を習う。  オイルもスリランカから取り寄せている。  そこに、さらに新しく入ったスタッフは、スリランカ料理に覚えがあるという。  こういうことがあって、小須賀はそう思った。 「アーユルヴェーダ料理教室の先生もしてたんでしょ?」 「あ、はい」 「今日の料理をよりアーユルヴェーダっぽくするには、どうしたらいいの?」  と、言って、小須賀はメニュー表を渡す。  美津子が描いた、弁当のイメージ図がそこには書いてある。ひよこ豆×スパイス、ズッキーニとエリンギを焼いたもの、などのメモ書きが添えられている。  方向性だけは示して、味付けや全体をバランスよく仕上げることなどは、小須賀に任せているのだ。 「基本的に、旬の食材を使うことが推奨されているので、季節の食材を使っていればアーユルヴェーダらしいとはいえます」 「ふうん」  あと、加えるとしたら。  六月は湿潤で、温暖または暑い。春に芽吹いた草花は成長し、日照時間が長くなるとともに、動物も人間も、活発になる。  自然界の性質は、天候によって日々入れ替わるが、大きく見れば、自然界に温、動の性質が増える。雨の日は湿、重の性質、からりと晴れた日は、乾、軽の性質も備わる。  したがって、バランスを取るには、その反対の性質─冷、静、湿(または乾)、重(または軽)などの性質を取ると良い。 「冷ます性質のある食べもの、湿気が多い日には乾燥させる調理法、暑い時期に優勢になってくるピッタを上げないよう、刺激物やラジャスなものも避ける。方向性としては、こんな感じでしょうか」 「ラジャス?ああ、ミツさんも時々使うな。その言葉」  杏奈は目を瞬いた。今のは、ラジャスが何か、知らないという言い方だった。  先ほどの問いかけにしても、杏奈のアーユルヴェーダの知識を試すためのものではなかったのか。 「で、具体的にはどうすればいいの?」 「旬の食材は、その季節に必要な性質を自然と含んでいることが多いので、季節の食材を使った今日の献立なら、そこはクリアです。味付けに、渋味と苦味を入れるのも良いかと思います」 「それって、体調をととのえるための、かなり細かい話だよね」 「そうです」  アーユルヴェーダ料理とは、体調をととのえるために、個人に合わせてカスタマイズされるものだ。  しかし、小須賀が求めているのはそういうことではないらしい。 「もっと分かりやすく。アーユルヴェーダっぽい食材を使うとか、スパイスを使う、とかね」  次の作業として、ズッキーニを手際よく厚めのいちょう切りにしながら、 「この弁当を手に取る人は、アーユルヴェーダのこととか、本当に何も知らないわけ。興味もないかもしれないわけ。そんな人たちに手に取ってもらうには、どうする」 「えっと…」  杏奈は筋を取り終わったスナップエンドウを持ってコンロの方に移動しながら、考える。 「単純に美味しそうに見えるとか、色合いが綺麗とか、自分では普段使わない食材や調味料が使われているとか」 「でしょ。今日のこの図でさ、もう少しその目線で、なんとかできそうなところはないの?」 「ちょっと待ってください。スナップエンドウを、茹でればいいんですよね?」 「うん。少しのお湯でね。さっとでいい」  そこでちょうど、タイマーが鳴った。杏奈は炊飯器のスイッチを押す。 「これ、何分くらいで炊けるんですか?」  杏奈はキッチンに備え付けられた時計を見る。十一時まで、あと一時間弱。 「ニ十分。十分蒸らし。やっべえ!」  時間が。  跳ね上がるように、小須賀は体を上下に動かした。半分は冗談で焦ってみせたのだが、杏奈は無意識にか眉根に皺を寄せて、曇った表情でまじまじとこちらを見る。 「なに」  それで、小須賀はいささか不満足げな顔をした。 「いいえ」  杏奈は目線を鍋の中のスナップエンドウにうつす。 「なんでしたっけ。えっと、よりアーユルヴェーダ的なお弁当にするには、でしたよね」 「そうかも。でも、今はどうでもよくなってきた。別に今日の献立に不満があるとかじゃないし」  それよりも、手元の作業に集中しなければ、間に合わなくなる。 「アーユルヴェーダの料理人なら、どう工夫するのか、聞きたかっただけ」  やはり、力量を試すような問いではあるが、それを聞いている本人は、答えを知っているわけではないのかもしれない。 「スナップエンドウとそら豆、味付けはどうしますか?」 「軽く塩ふるだけでいいよ。あとオリーブオイルをひとたらし」 「あっ、それをギーに変えたらいいんじゃないですか?熱いうちに」  杏奈は急に、このお弁当をアーユルヴェーダらしくする食材を思いついた。 「ギー、ありますか?」 「あるよ」  小須賀は顔を戸棚に向けた。杏奈はその視線を追い、戸棚の隅に、最近使われた形跡のない瓶を発見した。蓋にマスキングテープが貼ってあり、「ギー」と手書きで書かれている。  ギーは、バターから作られた精製オイル。  アーユルヴェーダでは、最も優れたオイルと名高い。  今の季節、室温で融解しているから、食材をギーで和えても油が固まってしまうことはなさそうだ。 「そら豆だけ、使うオイルをギーにしてもいいですか?」 「いいよ」 「これ、手作りですね」 「いつもはネットで買ってるけど、この前届く前に切れちゃったから、誰かのブログ見ながら作ってみた」  小須賀は杏奈の隣に立ち、フライパンを五徳に置いた。着火器具で火を入れ、オリーブオイル、クミンシードの順に加える。 「それ終わったら、人参の皮むいて、細切りにしておいて」 「はい。どのくらい細く切りますか?」 「キャロットラペ作るの。それをイメージして」 「分かりました」 「人参も、さっと茹でる。ミツはあまり生野菜を弁当に入れたがらない」  それはおそらく、食べる人の消化力を思ってのことだろう。 「できあがった野菜は、バットかボウルに入れて、調理台に並べて。スナップエンドウは半分に切ってね。断面がきれいに見えるように」 「はい」  調理台の上はどんどん料理で溢れていく。  このキッチンで炊事をしてきたから、バッドやボウルの位置なども、だいたい分かっていた。  今までのスローライフな生活が、無意味でないことにほっとする。  小須賀は強火で焼き色をつけたズッキーニとエリンギを、さっとボウルにうつす。  どれもこれも、シンプルな味付けのものばかり。  杏奈はスナップエンドウを切り終わり、人参の皮をむき、長さ三センチ、やや幅が細めの千切りにした。 「お湯作っとくよ」  野菜を茹でるのに使われ、ほとんど汚れのない雪平鍋は、人参を茹でるのにも使い回される。  杏奈は礼を言ったが、湯が沸くまでに、全ての人参を切り終わることができるだろうか。十七人分のキャロットラペを作らなければならないのだ。 「キャロットラペの味付け、どうしようね」  小須賀は今度は、同じフライパンをさっと洗って、再び火をつけた。 「いつもこの場で、考えているんですか?」  何事にも事前準備を万全にする杏奈は、驚いたような顔をして言った。 「そりゃ、さっきメニュー見たばっかりだから」  当然のように言う。フライパンの水分が全て飛ぶと、ジップロックに入ったくるみを手で掴んで入れ、乾煎りする。  いい香りがキッチンに広がる。 「土台はオリーブオイル、レモン汁、はちみつでしょ。ここに、何を入れたらいいの?」  話はキャロットラペに戻っている。 「夏だから、熱性のスパイスよりも、爽やかな、スッとするスパイスがいいですよね」 「ミントか」 「あと、フェンネルとか、カルダモンとか」 「フェンネルはきついな。癖がある。カルダモンはいいね」  口を動かしながらも小須賀はお勝手口まで移動し、そこから外に出る。  くるみはどうするのだろう。パチ、パチという音がしている。  様子を見たいのは山々だが、人参から手を離したくない。 「あんまり採れなかった」  戻って来た小須賀はまずフライパンに歩みより、ゆすった。それから手に持っていたものをボウルに入れ、流しで洗う。ミントを摘んできたようだ。 「人参まだ?」 「もう少し…」 「何本切ってるの。弁当の中身は人参だけじゃないんだから、それだけあれば十分っしょ」  そう言われて杏奈は手を止める。 「ラペに入れるのはちみつじゃないほうがいいかなぁ」 「どうしてですか?」 「そのブログに、ギーとはちみつを同じ量食べると死ぬって書いてあったんだけど、知ってた?」  小須賀はいたって真剣な顔つきをしていたが、半分はまともに受け取っていないような、バカにしているような感じがする。  恐らく、死ぬと書いてあったのは、体に害を及ぼす、という意味を誇張表現したものだ。 「じゃあ、無難に他の甘味を使ったほうがいいかもしれませんね」  ギーに関するいろいろな知識は頭の中にある。はちみつとの食べ合わせについても、もちろん知っていた。 「フードプロセッサー出しておいてくれる?」 「はい。これもう、上げますよ」 「いいんじゃない」  杏奈はざるに人参を上げた。 「出したら、味噌、いりごま、砂糖を出しておいて」 「はい」  ピーッと音がした。何かと思ったら、オーブンだった。小須賀がすかさず中のひよこ豆の様子を確認する。よい具合なのか、そのまま蓋を開けたままにする。 「キャロットラペの味付け任せていい?」 「はい」  杏奈は良いのかなと思いつつ、大きなボウルに、先ほど小須賀と話し合った調味料(はちみつはメープルシロップに変えた)を入れ、混ぜ合わせる。カルダモンパウダーも、少し入れた。そしてあたたかい人参を入れ、マリネする。  人参がまだ熱いので、なおのこと、ラペに入れるのははちみつでなくてよかったかもしれない。アーユルヴェーダでは、はちみつは加熱処理されていない「生はちみつ」を、非加熱で食べると決まっている。  小須賀はフードプロセッサーに、杏奈が出しておいた材料を入れ、攪拌した。それを取り出して、トーストしたくるみを入れ、さっと攪拌する。  粗く砕いたくるみを味噌に混ぜる。おいしそうなくるみ味噌だ。ズッキーニとエリンギの付け合わせだろうか。ごはんとも確実に合う。  そのご飯は、今しがた音が鳴って、炊けたところである。 「これに、唐辛子入れてもおいしそうだよね」  くるみ味噌の味見をしながら、小須賀がつぶやいた。 「いや、ピッタが上がるし、唐辛子は入れなくていいんじゃないですか?」 「面倒くさいな」  もはや失笑である。 「お椀にごはん、百六十から百七十グラムよそって」 「まだ蒸らし足りませんけど」 「仕方ない」  釜を開けるとわっと蒸気が立った。混ぜるのもほどほどに、言われた分量を量る。 「一個見てて」  小須賀の手元を見ると、半月切りにされたピンク色のカブが三枚、カーブが外側を向くように、真ん中に三角を作るように、ラップの上に置かれている。  その真ん中のスペースにご飯を置き、包む。 「あっつ」  炊き立てご飯に苦戦しつつ、小須賀は背の低いおにぎりを一つ作った。 「わあ、きれい…」  杏奈は目を輝かせた。ピンクのカブが、雑穀のために紫色に染まったご飯を包み、まるで大きな花のようだった。 「ごはんに色がついているから、カブは白のままでも綺麗でしょうね」 「まあ、それは別の時にやってくれ。これを、あと十六個作って」  綻んでいた杏奈の顔は真顔に変わる。気が遠くなりそうだ。  調理台の上はもうスペースがない。  ひよこ豆のロースト、キャロットラペ、ラディッシュの酢漬け、ギーで和えたそら豆、スナップエンドウの塩ゆで、ズッキーニときのこのソテー、くるみ味噌。そしてカブの花びらで覆われた雑穀米。  小須賀はスペースを捻出して、クラフト紙でできた長方形のランチボックスを一つ、調理台に置く。  ご飯を一番先に入れ、できた料理を次々に入れていった。 「やばい。若干だけどスペースが余りそうだな」  ランチボックスを覗き込んでみると、わずかだが、まだ何か入りそうなスペースがある。料理を多めに入れれば、埋められなくもなさそうだが。 「すぐできる何か、ある?」 「え?」  小須賀は無理難題を押し付けてきた。 「そうだな、できれば黄色い何かがいいな。黄色がないから」  杏奈は左手にお椀、右手にしゃもじを持ったまま、立ち尽くした。 ─なにか、あるか…。  さつまいもが思い浮かんだが、柔らかくなるまで調理している時間はない。  黄色といえば、ターメリックだ。  はっとして、杏奈は一旦手に持っていたものを空いているところに置き、冷蔵庫の野菜室を開けた。 「なるほど、何もない!」  杏奈は玉ねぎがあればと思ったのだが。 「まあ、無理そうだったらいいわ」 「ポルサンボルでもいいですか?」 「へ?…なんだっけ」 「ココナッツのふりかけみたいな」 「ああ、あれね…」  少し、考える間があった。 「いいんじゃない。やってみて」 「おにぎりは、あとにしますよ…」  杏奈は急いでココナッツミルクパウダーの入ったキャニスターを開け、大き目のボウルに入れて、水で溶く。レモンを絞り、塩とターメリックパウダーを加えて混ぜる。  ポルはココナッツ、サンボルは和え物。ポルサンボルは、ココナッツの果皮を主材料とする、スリランカのコンフォートフード的な料理。  本来は玉ねぎやら唐辛子やらを加えるのだが、加えずに作ったこともある。 「そうか。ターメリック入れれば黄色になるね」 「お腹の足しにはならないですけど」 「まあね。でも彩りは増えるし、いっか」 「味見してください」  評価は、可もなく不可もなく、だった。ちょっと酸味がきついかも、と言われた。  小須賀はおにぎりの続きを任せて、応接間に向かった。 「美津子さん、ちょっと味見を─」 「小須賀さん、ちょっとお話が─」  二人が口を開くのがほとんど同時であった。 「どうぞ」  と、小須賀は美津子に先を譲った。 「僕は、大人っぽい綺麗な人のほうが好みです」  正面に立った小須賀に真顔で言われて、美津子は座ったまま、微動だにせず、瞼だけを二回瞬かせた。 「なんの話ですか。それに、私に先を譲ってくれたのではなかったのですか」  若々しい見た目と、陽気な性格をした小須賀だからこそ、あかつきのかつてのスタッフたちも、彼のセクハラ的発言を笑って流していた。  しかし、そろそろ自粛してほしいものだ。  美津子は小須賀のブラックジョークにそれ以上取り合わず、 「ちょっとお願いがあるんですけど」 「何ですか?」  美津子が真面目な話をする時には、小須賀は至極真剣に聞いてくれる。  小須賀はいくつか質問をし、美津子はそれに答えた。結果的には、小須賀は美津子の要望を受け入れた。  その短い会話の後、美津子はキッチンに赴き、弁当の完成形を確認する。  小須賀は急いで仕上げをした。ターメリックで色付けしたポルサンボルを詰める。さらに、ご飯の上に、塩昆布と、いりごまを飾って、完成とした。 「いいわね」  美津子はこくりと頷いた。  その後は怒涛のように料理を詰めた。  最終的に、美津子の手も借りることになった。  弁当箱を紙紐で固定し、おしながきの小さな紙を挟む。今日の朝、美津子と杏奈が一緒に作ったものだ。 「今度からは、これは杏奈の仕事ね」  隣で作業する杏奈に、美津子は静かに言った。  美津子はさらに、弁当を入れて運ぶためのフードテナーをキッチンまで持って来て、そこに弁当をのせるのを手伝ってくれる。  小須賀と杏奈はバタバタと外出の準備をした。エプロンを脱ぎ、靴を変えて、美津子から車の鍵を受け取る。  美津子のエヌボックスのトランクに弁当を積み込むと、小須賀は助手席側に移動した。そこで、形相を変えて、トントンと窓を叩く。  既に助手席に乗っていた杏奈は、驚いた顔で扉を開けた。 「ちょっと、何やってんの」 「え?」 「そっちが運転しなよ」 「でも…」 「でもじゃない。これから、この仕事全部古谷さんがやるんでしょ?」 「でも、私、ペーパードライバーなんです」 「…」  小須賀は、呆れ果てたという顔で「もういいわ」と吐き捨てるように言って、運転席に乗り込んだ。  エヌボックスは坂を下り、足込町の中心地から、温泉のある上川の方へと向かった。  杏奈は気まずそうに、助手席で身をすくめていた。  ペーパードライバーだと告げてから、明らかに小須賀は怒っている。 「あのう」  車が御殿川沿いを走るようになったところで、杏奈はようやく口を開いた。 「温泉まで、どのくらいかかるんですか?」 「あと五分」  不機嫌そうな声が返って来た。  納品時間の十一時を五分以上遅れてしまったが、温泉の担当者は、それをあまり気にする様子はなく、搬入口へ二人を通した。  陳列は温泉施設のスタッフが行ってくれるという。  出来立てほやほやのお弁当が並ぶのを、杏奈は写真に撮って帰りたいなと思った。  出来立てこそ、最もアーユルヴェーダらしい要素かもしれない。  バックヤードで、やや腰の曲がった、ちりちり髪の女性が検品作業を行い、ハンコを押した。 「見たことのない女の子ね」  悠長な口ぶりで、物品担当・永井は、小須賀に話しかける。 「新しいスタッフさんなの?」 「まあ」  小須賀は、つぶやくような小声で、皮肉った。 「いつまで続くか、分かんないですけど」  納品を終えて車に戻ると、小須賀は杏奈に運転するよう指示した。  杏奈は運転席に座り、シートベルトをし、座席の位置とバックミラーを調整し終わったところで、うなだれた。 「あのう、小須賀さん」  小須賀はシートに深くもたれかかって、面倒くさそうに唸るような返事をした。 「車に乗るの、すごく久しぶりで…あのう、基礎的な部分から、教えてもらわないといけないかも…です」 「車の免許持ってるんでしょ?」 「はい。でも、ペーパードライバーのゴールド免許で」 「おれもそんな危険な奴が運転する車に乗りたかないよ」  先ほどまで、小須賀がキッチンで見せていた陽気な姿は、もうどこにもなかった。  小須賀は、まずエンジンの掛け方から解説しなくてはならないことに絶句した。 ─冗談だろ。  それから、バックする。  完全に車をほとんど運転したことがない者の動きだった。 ─なんでこんな命がけの仕事をおれがしなきゃならないんだ。  小須賀は胸の中でふつふつと不満が募り、それがつい口から言葉となって出てしまう。 「車の運転できないってどういうこと?運搬はミツさんにさせるつもりだったの?」 「えっと…」  杏奈は言葉に窮した。そして、真っ正直に答える。 「あまり…何も、考えていませんでした」  はあ~と隣で大きなため息が聞こえる。  確かに、足込町に引っ越すことになった時、いつか車の運転はできるようにならなければと思ってはいた。  東京にいた時のように、電車で生活できる土地ではない。  しかし、あかつきの敷地内に住むのだから、通勤に関して困ることはない。  が、仕事で車を使うことになるとは、盲点だった。  今思えば、採用してもらえると連絡が来てから、実家にいる間に、教習所に通って、練習をしておくべきだった。 「ここで生きていきたいなら、車の運転くらいできたほうがいいんじゃないの」  ぐさっと胸に刺さることを言う。しかし、正論だから、杏奈は何も言い返せない。 「ここは、複雑な交差点もない。名古屋みたいに、車線変更も多くない。むしろ車線が一つしかない。歩行者や自転車も少ない。ここで運転できないっていうなら、もう免許返上したほうがいいよ」 「はい」  どのくらいアクセルを踏むと、どのくらいスピードが出るのか。  標識がない場合、何キロで走るのがいいのか。  うまいブレーキの踏み方。  あかつきまでの短い道中、勇気を出して杏奈は質問をする。小須賀は、面倒くさそうに、でもちゃんと答えてくれた。 「あかつきに来てから買い物はどうしてたの?」 「美津子さんがするって言って…あ、でもそれは、私が運転できないこととは別の理由で」  その経緯を知らない小須賀に説明をしようとするが、運転に必死で、頭が回らない。 「あかつきに来てどのくらい?」 「明日で一週間です」 「その間何してたの?」 「母屋に慣れるために…ひととおり家事をしてました。あと、ホームページとかSNSのこととか」  言いながら、杏奈は気持ちがしぼんでいくのを感じる。まだ何一つとして、仕事といえるようなことをできていない。 「で、ミツさんの助けになるような提案はできたの?」 「いえ、まだ…」 「じゃあ、ミツさんの仕事を手伝ったりは?」 「美津子さんがどういう仕事をしているのか、パソコンでやっていることはよく分からないので…」 「聞きなよ」  小須賀は呆れたと言わんばかりだ。 「何してるんですかって。私にも手伝えることはありませんかって。仕事取りに行きなよ!」 「そう…すべきでしたね」 「暇でも給料もらえる会社とは違うんだよ。あかつきに仕事が入るように、杏奈自身ができることしないとどうすんの。営業マンが仕事取ってきてくれるわけじゃないんだよ」 「はい」  そんなことは分かっている。でも、具体的にどうしたらいいのか、分からなかったのだ。  杏奈はまだ、あかつきのことを、一部しか、点でしか見られていない。  俯瞰して物事を進めている美津子からは、今はまだ、あかつきのことを知るだけで良いと言われたのだ。  しかし、小須賀にどやされて、杏奈は気づいた。  甘かったのだ。美津子の言葉に甘んじてしまった。しかし、何ができたというだろう…。 「運転、実家ではどうしてたの」  小須賀の詰問は続く。 「実家では、自転車で生活を…あとは、両親に頼んだりして」 「都合のいい時に送り迎えしてくれる男がいるってわけでもなさそうだしね」 「…ええ」  小須賀はまた、ため息をつく。 「男もない。気も利かない。仕事も半人前」  こんなにあけすけに、批判されたのは久しぶりだ。さすがの杏奈も、イラっとしてきた。というより、怒りを生じさせねば、涙が出そうだった。 「もっと、一人で生きていく術、身に着けたほうがいいんじゃないの」  唇を結んで、はいと返事をすることしかできない杏奈であった。  あかつきの駐車場に着いてからも、小須賀の指導は続いた。  駐車ができるようにならなければはじまらない。  小須賀は車から降りて、外から指示を飛ばした。 「あのね」  運転席側の窓を通し、小須賀は杏奈にアドバイスをする。 「難しく考えんで。右に車を寄せたいなら、ハンドルを右に切る。左に寄せたいなら、左に切る」  杏奈は頷き、もう一度チャレンジする。  小須賀のそのアドバイスは、分かりやすいと思った。  何回目かの練習で、杏奈はなんとなく感覚をつかんだ。 「いいじゃん」  杏奈はふう、と安堵の吐息をつく。手にいっぱい、汗をかいていた。  手厳しいことを言われたが、小須賀のアドバイスは的確だし、ここまで練習に付き合ってくれたのは、面倒見がいい、と思わなくもない。  ただ、先ほどずかずか言われた言葉の数々が胸に突き刺さり、杏奈は内心穏やかではない。  窓を閉めたところで、杏奈は慌てて、再び窓を開けて小須賀を呼び止める。 「すみません、エンジン切るところまで、見ててもらえますか…」  小須賀は思いっきり冷ややかな顔をした。
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