五大元素

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五大元素

「美津子さん」  居間で本を読んでいたら、ひょっこり応接間から現れた杏奈に呼びかけられた。 「掃除マニュアルできました。共有フォルダに格納しておいたので、後で見てください」 「分かったわ」  杏奈はそれだけお願いすると、玄関から外へ出て行った。 ─早いな。  美津子はぱたりと本を閉じた。  今までよりも貪欲に、杏奈はあかつきに影響を与えようとするようになった。  お客対応以外の部分で、あかつきについて知ったこと、ウリになるようなことをまとめて、ホームページのどこに追記するべきか、美津子に提案をしてきた。  インスタのハイライト機能を、意味あるものにしたい。投稿だけでなく、マメにストーリーを発信したいとも言ってきた。  さらに、美津子がしている仕事の中で、自分にできることがあったら手伝いたいと。 ─小須賀さんに、何か言われたのか。  あの日、弁当の納品が終わって帰ってきた杏奈は、ひどく落ち込んでいるように見えた。  返って来た後、小須賀は、残った弁当のごはんとおかずで、杏奈と美津子に先に昼食を食べさせた。  杏奈はいつにも増して口数が少なく、キッチンが気になってしょうがないようだった。  小須賀が片付けの一切を担ってくれていたのだが、それがかえって心苦しかったのかもしれない。  杏奈はなぜ先輩の小須賀が片付けをし、自分が先にご飯を食べさせてもらえたのか分からなかった。  食べるともなしにご飯を食べて、拭く作業は手伝った。  美津子は応接間に移動し、パソコンを起動させて、杏奈が格納したマニュアルを見た。  いろいろと考えた挙句、捻出した仕事だった。  この先、掃除や施術前の準備は、杏奈以外の者がやることも出てくるだろうと思って、マニュアルを作ってほしいと頼んだのだ。  作業の目的、間取り、番号順に書かれた作業手順、ポイント。  分かりやすくまとめられている。作業マニュアルとしては、十分だろう。  あかつきの、主に内装に関する紹介文も、よく出来ていた。そのままホームページに掲載しても良いと思うくらい。  投稿以外にも、インスタの運用としてできることをしてくれたのか、ここ数日、フォロワーの増加率が今までより良い。  事務作業の早さは目を見張るものがある。  美津子は外に出て、杏奈の様子を見に行った。  生垣にしている槙の剪定をお願いしたのだ。傍からそっと様子を見守ると、案の定、杏奈は垣根を切り揃えるのに苦戦していた。  見ていられない。  美津子は結局、杏奈に声をかけた。少し手本を見せて、再び杏奈に剪定バサミを渡す。 ─得意分野を活かしてやるべきか…  畑仕事、車の運転、こういうちょっとした家の整備などは、苦手らしい。  単に経験不足、というだけだが。  美津子は杏奈に、アーユルヴェーダトリートメントを教えるつもりは、まだなかった。  本人はセラピストとしても役に立てればと言っていたし、美津子としても、プレイヤーは多いほうがいいと思っている。  しかし、美津子は、セラピストの仕事を覚えさせるよりも、今は大切なことがあると思う。  その日の夕食後。 「家事には慣れた?」  美津子は杏奈に、そう尋ねる。 「炊事は慣れたと思います。物の位置も、だいたい覚えられました」 「そう。じゃあ、次はセラピストのアシスタントとしての動きを覚えてもらうわ」  杏奈は背筋をピンと伸ばし、嬉しそうな顔をした。 「実際は、あかつきのセラピストは、セッティングから施術、片付けまで、すべて一人で行うけれど、一度に全部は覚えられないから、新人の時はまずアシスタントに入るの」 「はい」 「施術を教えるのは、もっと後になるけれど、アシスタントの仕事だけでも先に覚えておけば、後が楽よ」 「はい」 「明日、実際の動きを説明する。明後日、お客が来るから、さっそく本番よ」  杏奈は胸を膨らませた。新しいことを学ぶことができる。やっと、美津子の仕事を間近で見られる。  しかし、すぐに別のことが気になった。 「美津子さん、じゃあ、料理担当としての当日の動きも、明日教えていただけるんですか?」 「料理のことは、小須賀さんに任せてあるの。当日、いろいろと指導してくれるはず」 「…」 「あからさまに嫌な顔をしないの」  杏奈は顔に手を当てた。自分は嫌そうな表情をしたのだろうか、無意識だった。 「お客に出す料理は、いつも私がメニューを考えて、小須賀さんにポイント部分だけを伝えて、後は彼のセンスに任せているの」  杏奈は弁当作りの時を思い出した。確かに、そんな感じがした。 「でも、明後日は杏奈がメニューを考えて」 「はい。…え?」 「お客に出す料理を考えて」 「…いいんですか」  杏奈は自信なさげに肩をすくめたが、心の中では希望の風船が少し膨らんでいた。小須賀もやっていなかったことを、いきなり、自分にはさせてくれるのだ。  小須賀は、アーユルヴェーダのことを知らないのかもしれない。  それは、先日小須賀との会話の中で察した。  彼には献立を考えさせないのは、そのためなのか。 「ここ十日、あかつきで採れたものだけを使うことで、否応なしに季節感のある料理になっていた。基本的には、二人で食べていたものと、同じように作ればいい」  美津子は、杏奈に食事を作らせながら、杏奈の素の感覚を見ていたようだ。  何も指示していない状態で、どんな料理を、どのくらいの量出してくるのか。  そして、今、杏奈が今まで作ったような料理の延長で良いと言われたということは、素の感覚でやっても、だいたいズレはないと言ってくれたようなものである。  希望の風船はさらに膨らんだ。 「けれど、いくつか、お客に出す食の指針があるから、それは考慮に入れてもらわなくてはならないの」  杏奈は急いで書斎の机に置いてきたパソコンを取りに行った。メモをするために。 ─美津子さんの考える、アーユルヴェーダ料理の要素を教えてくれるってことだ。  となれば、至極重要な情報である。  美津子は箇条書きにした内容を読み上げるように、とんとんっと説明した。  お客には出さない具体的な食材、適切でない食べ物の組み合わせ、積極的に使いたい食材、どういう観点でバランスを考えるか、料理について大切な他の事項。  杏奈は、これまでいくつかの料理教室で、アーユルヴェーダの料理を学んだ。  アーユルヴェーダの本は、日本人、外人問わず、読めるものから手あたり次第に読み、中にはアーユルヴェーダ料理のレシピを紹介しているものもあった。  そこで得たアーユルヴェーダ料理の印象は、ヘルシーという点ではどの人のレシピも共通。  しかし、人によって随分可変性がある、というのも、大きな印象だった。  ある人はこの食材は使わないと言い、ある人はこの食材は使うと言う。  ある人は特定の調理法で作った料理をメニューに加えるし、ある人はそうでない。  それは結局、アーユルヴェーダの料理とは、極めて個人的なもの(オーダーメイド)であることを示している。  最も健康的な料理とは、食べる人の体質や、その時の乱れによって異なるからだ。  しかし、それだけではない。  マーケティング的な事情もあるだろう。たとえば、ベジタリアン料理の需要が高まっていれば、ベジタリアンのアーユルヴェーダ料理を伝える。  受け手にとって現実可能な範囲に、ハードルを下げている場合もある。  たとえば、アーユルヴェーダは出来立てを食べるべきと教えている。しかし、これだけ忙しい現代で、社会生活を送っている者にとって、それはたびたび、現実的ではない。  だから、アーユルヴェーダの作り置きレシピなどといったものが人気を博すこともある。  美津子が述べたあかつきの料理の指針は、しかし、杏奈が知る限りのアーユルヴェーダの推奨事項に、忠実な内容だった。 「お客さまの中には、受け入れがたいと感じる人もいるかもしれないですね」  杏奈の感想を聞いても、美津子は大して問題ではないとばかり、涼しい顔をしている。 「でもあかつきにいる間は、それを食べる他ないわ」 「…」 「理想を崩すことは、いつでも、簡単にできる。だからこそ、あかつきは、立ち戻るべきものを見せなければ」  美津子は悠然と言った。 「あかつきに滞在している時の体の感じ、心の状態に変化を感じられたら、現実世界に戻っても、あかつきの食事の要素を活かしてくれるかもしれないでしょ」  杏奈は感銘を受けた。  お客の不評を買っても、目先の快楽ではなく、真の癒しを得てもらうために、信念を曲げない。  一方、お客の顔色しだいで、料理教室のメニューを変えていたころの自分を、恥じるような心地になった。 「それに、あかつきの料理を、確実に気に入ってくれる人もいる」  あかつきには、自分の心と体を健康に保ち、増進することを希望するお客が来るのだから、健康的な食事なら概して喜ばれる。 「現に、ここ十日間、食事についてそんなに苦しい思いをした?」  と尋ねられて、杏奈は美津子の計らいに気が付いて「あ…」と声が出た。 「いいえ」  杏奈は目の前の穏やかな先達に答えた。  美津子が今避けたいと言ったものは、畑で作っていなかったし、ほとんど買っても来なかった。  畑で採れたばかりの野菜にはプラーナ(生命力)があり、だいたいの場合、出来立てを食べていた。  効率良く作ることを求められたから、素材の味を活かした、シンプルな調理法のものばかり。  知らないうちに、美津子に誘導され、あかつきで提供するべき料理の要素を、杏奈自身が作り、食べていたのだ。  そういえば、最近では、甘い物などのお菓子も欲することが少なくなった。  単純に慣れであった。  しかし、変化も感じている。  お腹が張ることは少なくなったし、体も重くない。午後、眠くなるようなこともない。  これは間食をやめた功かもしれなかった。 ─どこまで思慮深い人なのだろう。  すること、言うことすべてに意図があるかのよう。 「あかつきの食の方針は、このように決めてはいるのだけど」  美津子は片方の手で首筋を撫でながら、嘲笑じみた笑いを浮かべた。 「私は時々、何々は推奨できないとか、今は食べない方がいいとか、誰々には合っていないということが、あまり好きではないな」 「分かります。余計なお世話というか、お説教っぽく捉えられがちですものね」  美津子は少し目を細めて微笑を作った。 「新しい課題を出すわ」  身を前に乗り出して、次の話に移す。 「課題…」 「そう。もう、畑で採れたもの縛りは慣れたでしょう。次に進めるんじゃないかしら」 「はい」 「五大元素とは何か、説明してみて」  今更のような、突拍子もない問いだった。 「あらゆるもの、自然界や私たちに共通して内在し、構成している万物の原因因子です。五つの要素は、空、風、火、水、土」  普段の何気ない言葉のキャッチボールよりも、素早くボールを返す。  美津子は心の中で苦笑した。 「文章問題の答えとしては、正解よ」  五大元素は、サンスクリット語でパンチャマハブータと呼ばれる。  これらは、三つのマハグナ─サットヴァ、ラジャス、タマス─がユニークに組み合わさって生まれ、人間を含む自然界の全てを構成する。  この概念は、個人(内部)が全体(外部)とどのように結びついているかを説明するために使用される。 「あなたの聡明さは、あなたの過去の発信や、今回の提出物を読めばわかった」  いきなり褒められた。  小須賀に批判─しかし正論─されたばかりの杏奈は、褒められる耐性はできておらず、どういう表情をしたら良いやらと戸惑うばかり。 「でも」  戸惑うのも一瞬。すぐに逆説が続いた。 「頭で分かっているということと、経験しているということは、違う」  流れるような言葉がふりそそぐ。 「経験したことしか、人には話せない。杏奈は知識としてのアーユルヴェーダは頭に入っているけれど、もっと感じることが必要だと、自分でも分かっているのではないかしら」  教科書を読み上げているだけで、自分の言葉では話せていない、自分の経験として落とし込めていない。  美津子に痛い所を突かれて、しかし、杏奈は否定できなかった。 「これからしばらくの間」  沈黙を肯定と受け取ったのか、そのまま美津子は続ける。 「身の周りの五大元素を探して。五大元素を感じ、自分の持っている元素が、どのように影響を受け、影響を与えているのか、内外両方のベクトルで感じること」  それが新しい課題。  言葉の意味は理解できるが、五大元素という概念を、実生活の中に当てはめて考えるというのは、ひどく難解に思える。 「それは、例えば空間の中で手を伸ばして、空間を感じる、といったようなことでも良いのでしょうか」 「なんでもいい」  美津子は悠然と言った。 「できるだけ多くを感じて」  午前九時。お客は時刻に送れることなくあかつきに到着した。  美津子と杏奈は、玄関でお客を迎える。 「ようこそ。お待ちしておりました」  美津子はこの日、あかつきの制服─花模様があしらわれた白地の上衣、同じ色の下衣という二部式着物に、赤紫の長い前掛け、それを留める長い帯─姿であった。  美津子の後ろに控える杏奈は、薄化粧だが、さすがに化粧をしていた。  白いブラウスと、黒いスキニーパンツを履いている。  セラピスト以外には決まった制服がなく、美津子と話合って、無難なこの服装にした。 「よろしくお願いします」  この日のお客─優香は、玄関先で礼儀正しく挨拶をした。  杏奈があかつきに来てから、初めての滞在客であった。  背は美津子と同じくらい。平均的な体格で、肩の下まで伸びる黒髪は、微妙にウェーブがかかっている。  美人ではないが、顔のパーツが整った、人当たりの良さそうな女性、という印象だ。  優香の荷物を杏奈に任せ、美津子は優香を書斎へ案内し、ソファをすすめる。自分もその向かいに座った。  道中のことなど、雑談をしている間、教えたとおり、杏奈がお茶を運んでくる。  ピンクティーと呼んでいるそのお茶は、カリンガリ(karingali)、スオウ(sappan wood)、サリバ(Sariva)などのハーブをミックスしたお茶で、血液を浄化し、体をクーリングし、消化を促進する作用がある。  お茶と同系色の花柄があしらわれた、マイセンの華奢なティーカップに入ったピンクティーは、優香の前だけに置かれた。  お茶を出すと、杏奈は居間に移り、書斎からの話声が聞える位置に座った。  美津子は事前に提出された問診票に基づいて、優香と会話している。  新規顧客で、もちろん個人的なつながりもない女性だが、そうとは思えないくらい、美津子は優香のことをよく把握している。 「二泊三日、家を空けても、お嬢さまたちは大丈夫ですか?」 「はい。もう大きいので」 「お二人とも、大学生ですよね」 「ええ。なので家にいることもほとんどないし、もともと、夕ご飯の準備は交代制なんです」 「それは、助かりますね」  問診票、というのをまだ杏奈は見せてもらったことがなかった。  あかつきへ滞在する前に、美津子とお客はオンラインにて、健康に関するコンサルテーションを行う。  土壇場で予約が入った場合を除き、このコンサルは行われ、あかつきに来るまでの間に、体のコンディションを整えるためにできることをしてもらうのだという。 ─身体が浄化されていればされているほど、トリートメントの効果は得やすい。  と、以前美津子は杏奈に教えた。 「さっそくですが、優香さん」 「はい」 「お酒はやめられましたか」  雑談を一区切りするや否や、単刀直入に切り込んだ。  優香は、悪戯を咎められた少女のようなごまかし笑いをした。 「お酒は…ええと…減らせてない、ですね」  美津子は、優香との最初のコンサルの後、あかつきに来るまで、今後一か月の推奨事項を連絡した。  最も重要な提案事項は、優香が週に三回摂取しているアルコールをやめるか、頻度、あるいは量を減らすことだった。 「量はどうですか」 「ああ…量も、ほとんど減らせていなかったです。けれど、つまみを食べない日を作りました」 「そうすると、どうです。その時は飲む量は減りましたか」 「いいえ…ただ、飲みたいと思うお酒が変わりました」 「どのように」 「サワー系やウイスキーだったのが、赤ワインとか、甘味をもつものがほしくなって…」  優香は笑ってごまかしている。  美津子は口元にわずかに微笑を浮かべていた。厳しい印象を与えないためであった。 「私がお酒を減らした方が良いと言ったのは」  あくまで柔らかい口調で、美津子は説明をする。 「アルコール、それも遅い時間のアルコールの摂取は、優香さんの消化力に大きな負担をかけるからです。解毒がスムーズに行われなければ、ちょっとした不調に表れてきます。すでに膨満感やガス、湿疹といった症状が出ていますよね。アルコールを摂る時は夜遅い時間まで飲食していることになり、生活を不規則にさせて、睡眠の質を下げ、疲労感やエネルギーレベルの低下にもつながっています」 「はい」  優香はしおらしく、美津子の話を頷きながら聞いている。 「むくみや体重の増加にお困りでしたね」 「ええ」 「おつまみを減らした時もあったようですが、塩気や油気のあるおつまみは、もちろんむくみや体重管理のために良くありません。でも、適切な食習慣が身に着けば、自然と代謝が強まり、体重が変化することは期待できるんですよ」 「はい」 「このことについて、納得できていない点はありますか?」 「いいえ。ないです」  すんなりと優香は認めた。  お客が言われたことを実践しないのは、珍しいことではない。 「どのような時にアルコールを欲するのでしょう」  美津子は質問を続ける。 「飲酒するタイミングは、決まっていましたね。週末、土日と、平日一回。衝動で飲むというより、決まったルーチンなのでしょうか」 「あ、土日は、そうです」  優香はもじもじと少し体を揺り動かした。 「主人との時間を共有する手段なんです。普段主人とはあまりしゃべらないんですが、このお酒を飲んでテレビを見るっていう時間だけは、一緒に」 「そうでしたね。この習慣ができて、どのくらいになるのですか?」 「下の子が中学を卒業したくらいからなので…四年くらい前から、ですね。平日は、水曜日にフレックスで早く上がれるので、飲みに行ってしまうことが多いです」 「分かりました。優香さん」 「はい」 「お酒をやめる必要性は、感じていらっしゃいますか?」 「はい。やめたいと思っています」 「なぜ、そう思うのですか?」 「やっぱり、冷たいビールとかチューハイとかを飲むからなのか、お腹が冷えて、重たい感じがするし、体の冷えにもつながってるかなって。未病の観点からしても、やめなきゃな~とは思ってます」  美津子は頷いた。 「では、具体的にどうやってやめていくか、また話し合いましょう」  優香一人の意志ではやめられなかった。  たとえば優香のように、普段はアルコールをやめられないお客でも、あかつきに滞在している間は、アルコールをやめられることが多い。  この違いを生み出すのは、他者の管理に置かれているかどうか、それができる環境にあるか、だ。  あかつきに滞在している間の様子を見ることで、優香もまた、環境が変わればやめ得る人なのか、観察する機会はできるだろう。 「お酒の話は、ここまでに。でないと、トリートメントの時間がなくなってしまいます」 「一か月の間に、結果を出せなくてすみません」  優香は謝った。  しかし、美津子は唇を結んで、それには答えない。 「もう一つ、話題に挙げていた、朝と夜の食事のバランスのことですが」 「はい」 「炭水化物は、摂るようになさったのですか」 「それが」  優香は両手を合わせて、口と鼻を覆うようにしてみせる。 「恐くて摂れないんです」 「穀物を食べて、太るのが恐い、ということですか?」 「はい。…実は一度、主人との晩酌を控えようとしたことがあるんです」 「ええ」 「おつまみも自分は食べないで、友達からもらったドライフルーツ入りのハーブティーだけで過ごそうと…けれど、お酒を飲まないっていう頭でそこにいると、今度は、甘い物とか、ごはんとかが食べたくなってくるんです」 「晩酌の時は、夕ご飯は軽めに済ましているのでしたね?」 「はい。穀物は食べませんが。何も食べず、晩酌を夕ご飯代わりにすることもあります」 「お酒をやめようとしたその日は、夕ご飯は食べてたのですか?」 「はい。確か、野菜とか、肉の煮物とかを。でも、やっぱり穀物は食べませんでした」 「そうですか」  壁越しに聞いている杏奈は、極端だけれど、糖質制限をしている人によくありそうな話だなと思った。  しかし、お酒自体にたっぷり糖質は入っているはずなのだけれど…。 「あれなんですよね」  優香は、弁明するように言った。 「やめようと思っていても、主人がお酒飲むときに、飲まないの?と言われると、じゃあ…となってしまって。結局、その日は飲んじゃいました」  美津子はどんな顔で聞いているのだろう。まさか呆れた顔はしてはいまいが…。  杏奈は立ち聞きは許してもらえたものの、表情が見られないのが残念だった。  実際、美津子は、ほとんど表情を変えずに聞いている。  自分の感情はどこかに追い出しているようだ。 「私が穀物を取り入れてくださいと言ったのは、適度な甘味を取り入れて、心と体を満足させるためです」 「はい」  優香はまた、急にしおらしくなる。 「でないと、必ずどこかで、甘味を欲します。優香さんは便秘になりがちでしたね。穀物を摂ることは、適切な排便のためにも、必要なことなんですよ」  優香は納得したのか、していないのか、何とも言えない唸り声を出す。 「アルコールをやめた時、体は甘味を欲するでしょう。その時、どのような甘味を、どのくらいの量摂るかは、気を付けていなければなりませんね」 「ですよね。私、ご飯とか食べ始めちゃったら、きっとたくさん食べてしまう」 「悩みが入れ替わるだけです。アルコールをやめられなくて悩んでいたのが、ご飯を食べすぎて困る、という悩みにシフトするのです。けれど、これを後退と考えるべきではありません。それなら今度は、ごはんを食べすぎないようにどうすればいいか、考えればよいのです」 「うーん、難しいですよねえ」 「ご自身にとっての適量を知るポイントは」  美津子は両手の平を上にして、小指同士をくっつけ、見えない何かを下から掲げるような形にした。 「両手を合わせた時に、軽く盛れるくらいの量が、その人にとっての適量です」 「そうなんですね」 「ええ。これを指標としてください。もう一つは、食べている時に、小さなげっぷが出ることがあります」 「えっ、今まで気にしたことない。私、出てないかもしれない…」 「では、意識してみてください。そして、小さなげっぷに気づいたら、食べるのをやめます」  杏奈にとっては、何一つ、目新しいアドバイスはなかった。  杏奈は酒を飲まないので、酒を止めるのに苦労する人の気持ちは分からない。  しかし健康のためのコンサルテーションをする側になったら、そういう未知の悩みにも、想像を膨らませて対応しなければならないのか。 「最後に、運動の習慣について聞かせてください」 「運動は…通勤の、バス停までの行き帰りだけですね」 「それと、ヨガですね」 「はい。夜、十分くらい、ストレッチみたいなものですけど」 「分かりました。進捗確認はこれくらいに。ここまでで、ご質問はありますか?」  美津子は、優香の質問にいくつか答えた。  それから、あかつきでの過ごし方について説明をする。  滞在中は、アーユルヴェーダの理想的な過ごし方─ディナチャリヤ─に沿って、規則正しい生活を送ってもらう。  食事の時間もなるべく一定にするが、外出は自由にしてもらって構わない。  途中、外を散策したり、体を動かせるようなアクティヴィティーを入れていく。  そして、トリートメントの内容。 「優香さんはアーユルヴェーダのトリートメントは初めてでしたね」 「はい」 「一日目の施術は、アビヤンガという、全身へのオイル塗布を行います」  美津子は、使うオイルの説明などを始める。  話ながら、杏奈が移動する気配と、音を感じた。  杏奈はオイルの説明の前まで聞くと、そっと立ち上がり、応接間の方からホールに出て、二階へ向かった。  二階の施術室で、ベッドのヒートマットの電源を入れ、オイルを湯煎する保温器のスイッチも入れた。  これからここで行われるアーユルヴェーダの施術。  どんな内容か興味深い。  いつか、自分もここで、お客に施術をする日がくるだろうか。  杏奈は両手で指を組み、さすった。まだ完全に滑らかにはなっていない指。  それでも、何かを外に追い出そうとするような熱は、今はその指からは発せられていなかった。 ─火の要素が強かった、ということか。  杏奈は思う。長らく、手湿疹に悩まされていた。  全身に、湿疹が広がったこともある。  杏奈はもともとの性質としては、あまり火の性質があるタイプではなかった。  体は冷えやすく、消化力も弱い。  けれど、その体質を超えて、火の要素が強くなっていた。  ヒートマットはまだそれほど温まっていない。もう少しすれば、じんわり汗をかくくらいの温かさになるだろう。 ─これも、火だ。  自分の身の回りにある五大元素を探すこと。  あのお客にはどの要素があるだろう。  杏奈は先ほどの会話から想像する。  それから十五分ほどの後。  美津子はお客を待っている間、事前準備が適切にされているか確認した。  まず、温度。  エアコンは二十七度、「しずか」モードになっている。湿度は五十パーセント。  ヒートマットの温度は四十度。  オイルは温まっている。  スピーカーからは、明るすぎず、静かすぎない、ピアノの戦慄。  東の窓の内障子は左右に開かれ、窓の外で緑が揺れるのが見える。  ぬかりはない。  お客が着替え終わるころ、客間の外から、そっと声をかけた。  お客は施術用の下着の上に、サロンを巻きつけた姿で施術室に入る。  サロンは、丈の長い巻きスカートのようなもので、施術の直前まで、クライアントはこれを身にまとう。  しかしそのサロンは、すぐに必要なくなる。  まず体重計に乗ってもらい、次にベッドに案内し、施術が始まる。  初めの施術は、ほとんどの場合、アビヤンガから始まる。  あかつきの基本のアビヤンガは、全身、顔、頭まで、全身にオイルを塗布するというもの。  その後ヒートマットに体を包み、汗をかくことで老廃物の排出を促す。  アビヤンガは、パンチャカルマと呼ばれる五つの治療法の前処置としても行われる。  本処置に入る前に、体のデトックスを進めるためだ。  大きなバスタオルで、施術をしない部分を覆い、左脚にアプローチする。 「浄化のオイルを塗っていきます」 「はい」  美津子の声掛けに、優香は律儀に返事をした。  オイルはいくつか種類がある。お客の体質や、目的、部位に合わせて、オイルを変える。  温めたオイルを、素早く手に取り、流れるようなストロークで、踝から膝までにオイルを塗布する。  和の空間で、独特の和装姿の美津子が、インドやスリランカで古代から受け継がれてきた伝統医療のトリートメントを行う。  異質な絵だった。  美津子は、背中をまっすぐに伸ばし、股関節から前傾して、常に施術部位が臍の前に来るように、体を移動させる。  広い範囲を素早く塗る。  指先をセンサーのように使い、凝り固まっているところには、丹念にアプローチするが、決して押さない。  優香は、むくみが気になると言っていた。  確かに、膝より下がむくんでいる。  美津子はサイド圧をかけて、テンポよくストロークする。  アビヤンガ自体も、それを行う前のお客の体に、老廃物の蓄積がないほど、うまくいく。  体の深層深部にオイルが行きわたることにより、栄養が与えられ、新陳代謝が活発になり、細胞の生まれ変わりが促進される。  事前コンサルのねらいは、あかつき滞在前に、老廃物をできるだけ溜めないでもらうためなのだが。  足先までオイルを塗布すると、足元から優香の脚全体を見て、脚全体に大きくストロークをかけながら、脚を正しい位置に整えることを意識する。 ─望む者には変化を与えたい。けれど…  左脚を終えた。美津子は、左脚をタオルで覆い、右脚に同じことを行うため、オイルの乗ったワゴンごと、右側に移動した。  九十分の施術のうち、半分が終わろうとする頃。  重役出勤をした小須賀に、杏奈は昼食の準備を教えてもらうところだった。 「教えるといっても、おれは昼食だけじゃなく、同時進行で、夜、朝の料理までだいたい作っておくの。できる時は、昼食の仕込みまでやることもあるし」  調理台を挟んで杏奈と向き合いつつ、小須賀は説明する。 「でも、古谷さんはいつでもキッチンに来られるわけだから、都度用意すればいいんじゃない。お客が食べる直前にできてさえいればいいから。むしろ、出来立ての方がおいしいしね」  小須賀とは、いかにもきまずいドライブをしたばかりだ。  しかし、小須賀はその時の雰囲気を引きずることなく、今日もどこか飄々としている。 「基本的に一人分の食事を出すだけだから、そう難しいことはない。十二時になったらベルを鳴らす。お客が降りてくるから、席に案内する。料理を提供する。お皿が空になってしばらくしたら、回収する」  至って変わったことはない。 「料理を作るのはおれの仕事だけど、他は誰がやるとか決まってない。美津子さんが料理を持って行ったり、皿を下げたりすることもある」 「そうなんですね」 「うん。でも、古谷さんは料理を見て、アーユルヴェーダのうんちく語れるんでしょ」  小ばかにしたような言い方だった。 「お客さんの様子を見て、知りたそうにしている人には、そういうの語ってあげたら。たぶん、美津子さんもそういうの望んでるはずだし」  まさに今思いついたことだが、あながち間違っていないと、小須賀は思う。 「あれ、今日のメニュー表…」  調理台にさりげなく置いておいたメニュー表を、おもむろに見て、 「これ、杏奈が作ったの?」  それに気が付いたのは、いつもと字や説明の細かさが異なるためか。 「はい」 「ふうん…て、じゃあおれなんのために来たの?」  小須賀ははっと顔を上げて、呆然とした。 「メニュー考えた人が作ったほうがいいじゃん。食事の出し方も今説明したし…」  それとて、ラインで連絡すれば足りるくらいの内容だ。 「おれ、帰るわ」 「待ってください」  なぜそういうことになるのだろう。杏奈は調理台に両手を着いた。 「いきなり一人でやるのは、無理です。間違ったことをしていたら、誰が指摘するんですか」 「じゃあおれは監督していればいいってことね」  小須賀はキッチンの隅に置いてある折り畳み椅子を、業務用の冷蔵庫の前あたりで開き、どかっと腰かけた。 「一発合格してね」  杏奈が一人でできるのであれば、小須賀はこれから、バイトに来なくて良いことになる。  小須賀はそれを望むのだろうか。 「あ、お客一人の分だけ作るのもあれだし、まかないの分も含めて、多めに作るといいよ」  スマホの画面に視線を落としながら、小須賀は昔を振り返った。 「前は、複数のお客が同時に滞在することもよくあったんだけど、やっぱりちょっと多めに作ってたな。セラピストの分も考えて」 「そうでしたか」 「あと、美津子さんだな。あの人、食べるものがないと、わざわざ自分で作ったりしないから、食べるようにこっちから声かけるようにしてた」  小須賀はさりげなく気を回せる人らしい。  最近では、杏奈と規則正しく食事をしていたが、忙しいと、食事を後回しにしてしまう性質なのか。  杏奈はボウルを持って、お勝手口から外に出た。  夏至は過ぎた。  今日は風が少なく、梅雨の真っただ中らしい重苦しい曇天だった。 ─雨が降るかもしれない。  杏奈は振って来る前に、庭の生垣の隅に群生している、ゴツコラを摘みに来た。  さといもの葉っぱを縮小したような見た目のハーブ。  セリ科の植物で、味はいかにも体に良さそうな苦味と渋みだった。 ─五大元素。  杏奈は、気が付いた時にこの言葉を思い浮かべる。  そしてすぅ、と息を胸いっぱいに吸う。  どんなに曇りでも気温の高い夏は、火の要素が自然界で優勢になっている。  でも今日は、それに加えて、この重苦しい湿気。  自然界に水の要素も増えている。  ミストの中を歩いて、水を吸った服をずっと来ているかのような日には、体が重くなり、心もどんよりする。  大地が水にぬらされ、土のにおいもする。ピーカンの時には土は乾燥し、さらさらと軽いが、今日のような日は、土が湿り、重く固まっている。  風はないから、風の要素は少ない。  では空はどうだろう。  空は空間のことであり、物が動くスペースのことである。  見えないけれど、大気の中に水の要素が増えれば、単純に、空の中を動く物質の動きは鈍くなる。 ─五大元素を感じ、自分の持っている元素が、どのように影響を受け、影響を与えているのか、内外両方のベクトルで感じること。  課題の前半─外から内のベクトル─は分かりやすかった。  たとえば、夏は外側に火の要素が優勢になる。  外側というのは具体的に、気温が高いこと、日射しが強いことである。  これが自分という内側に影響を与える。単純に暑いと感じ、熱がこもりやすくなる。血液の循環が良くなるからか、痒みがあるところが、さらに痒くなることがある。  火は物を燃やし、別の物質に変える。  内側では、変化の欲求が起き、物理的な動きや思考の激しさとなって現れる。  日照時間の長さが、人や動物の活発な活動に影響を与える。  しかし、その逆のベクトル─内から外へのベクトル─いうなれば、自分が世界に与える影響については、あまり考えたことがない。  いかに杏奈の消化の火が強かったり、目標に向かう熱意を燃やしていたとしても、自然に影響を与えることはない。 ─私が、他の人に対して与える影響、と考えれば良いのかな。  ゆっくり歩きながら、それを考える。 ─私が今持ってる五大元素は、何か…。  お勝手口を開けてキッチンに入ると、小須賀は相変わらずスマホを触っていた。  杏奈はゴツコラを軽く洗って、ざるに上げておく。 「ところで、お客さん美人だった?」  小須賀に聞かれて、杏奈は優香の顔を思い出そうとした。  年齢相応に、皺があった気がする。  一つ一つの顔のパーツは、整っていた。 「まあ…」  普通、と言いかけて、杏奈は口をつぐんだ。  自分を棚に上げて、なんだか嫌なやつになってしまうのではないか。  はっきりしない杏奈の答えに、小須賀はそれ以上追求しようとしなかった。 「それで、お客さんの問診の結果、料理をこういう風に変えろっていうような指示、美津子さんから受けた?」 「いいえ。でも…」  杏奈は問診の内容を思い出す。  お酒の話。穀類を避けているという話。運動の話…。  話題は主にこの三つだった。 「もともと、わずかにピッタが優勢なピッタヴァータの人と聞いてたのですが、お酒をよく飲まれているようで、たぶん、食事はピッタを鎮めるようなものがいいんじゃないかと」  小須賀はいかがわしそうな顔をした。  批判的な、というよりも、ヴァータだのピッタだの、そういう概念を使った話がよく分からない、という顔だった。 「具体的にどういう料理?」 「刺激が少ない料理です」 「いつもと変わらないじゃん」 「ええ」  しかし、スパイスは使った方がいいと思う。  スパイスは、だいたいが熱性で、軽く、乾燥させる。  優香はむくみと体重を減らしていた。  微量のスパイスが即効でこれに効くわけではないが、適度にあったほうがいい。  それに、今日の気候。重く、湿度が高く、鈍さのある気候だから、スパイスの軽さ、乾燥性、鋭さが役に立つだろう。 「ちなみに、酒飲みには、ピッタを鎮める料理がおすすめなの?」 「うーん」  杏奈は、首を傾げた。 「そんなに単純ではないですが、概ねそうだと言うべきでしょうか…」 「なんだよ。単純にしてよ」 「と言われても、お酒を飲む程度とか、他の要因によっても異なってきますしね」 「そんなにお酒飲む人なんだ」 「週三回くらいって言ってました。一般的に、どうなんでしょう。私はお酒飲まないのですが、小須賀さんは飲みますか?」 「飲むよ」  あっさり答えた。 「頻度は変動するけど、多い時だと週四、五で飲むかな」  そうなんだ、と杏奈は心の中で言った。そんなに、飲むような人には見えないのだが。 「別に普通でしょ。その人会社員なんじゃないの?」 「はい。でも、会社の飲み会とかじゃなくて、旦那さんとのリラックスタイムにお酒飲むことが多いらしいです。美津子さんは、あかつきに来る前から、晩酌を控えるよう言っていたみたいなんですけど、お客さん、やめることができなかったんですって」  そういえば、優香は最後に謝っていた。 「優香さん、一か月の間に、結果を出せなくてごめんなさいって言ってたな…」 「ふうん。で、ミツさんはなんて言ってた?」 「え?」 「てめえふざけんなって言った?」 「……」  お客を前にそんなこと言えるか。お前が言えよ。  杏奈はのど元まで出た言葉を飲み込んだ。 「でもまあ、そんな責めらんないよね」  先ほどの言葉はどこへやら、小須賀は、今度は優香をフォローするようなことを言う。 「旦那さんとの楽しみな時間…時間というか、楽しむための道具を取り上げるのもさ、無粋っていうか、こっちだって心苦しいじゃん」 「ええ」  それに、美津子には別の負い目もあったのだと思う。  お客ができないと言うなら、お客ができるような環境や、方法を与えるのがこちらの役目。  その方法論を提供してこそ、あかつきにお金を払う価値があるというものだ。  それを、あかつきに来る前からできればベストだったのだが、と。 「ところで、何もしないで話してていいの?」  そういう小須賀は、足を組んで、スマホを片手に持ったまま。 「今日の料理は、すごく早くできるんです」 「大した自信じゃん」 「いや、あまり早く作って、新鮮さが薄れるのもいかがなものかと…」 「いかがなものかって」  小須賀は片腹痛そうに苦笑した。 「じじいかよ。もっと若い女の子らしい言葉使ったら?」  若干のジェンダー問題を含む発言。杏奈は少しイラっとした。 「早めに作ったら。そんなに要領よくなさそうだし、やり直し食らう可能性だってあるじゃん」 「はい…」  やっぱり、この男は時々、好戦的な態度を見せてくると思う。  といっても、お米は炊飯器の予約をすでにかけてあるし、ゴツコラサンボル(ゴツコラとココナッツの和え物)は一瞬でできる。ズッキーニは少し調味してローストするだけだ。  あとはチャナダルと野菜の煮込み。これも、圧力鍋に材料を入れて、煮るだけ。  小須賀が急に立ち上がって、何かを取りに棚まで行った。戻ってくるときに、シンク横の空きスペースに、一つの寸胴が置かれているのに気付いて、 「これ、何?」 「え?」  小須賀に聞かれて、杏奈は寸胴に気が付く。 「あっ、出汁です」 「なんであるの?」 「美津子さんと私の食事を作るのに、多めに出汁を取っておいたんです」 「あんた、レストランで働いてたんでしょ?」  杏奈は、作業が一旦停止する。 「こういう高温多湿な時期はさ、出汁とはいえ、気を付けてなきゃだめだって」 「すみません」 「癖つけといたほうがいいよ。ここで、お客さんが食べるものも同様に扱って、食中毒でも起こしたらどうすんの」 「すみません」 「急冷して、早いうちに冷蔵庫に入れときな」 「はい。すみません、うっかりしてて」  杏奈は急いで寸胴を手に持つ。 「あんたも料理人だろ?」  小須賀はスタッフ用冷蔵庫に向かう杏奈の背中に、追い打ちをかけた。 「もっと自分が作ったものに、愛を持ちなよ」  浴びせられた言葉は、意外にも精神論。 「一服してくるわ」  小須賀はさっと踵を返して、お勝手口から外へ出て行った。  いちいち、棘のある言い方をする小須賀だが、今回も、言っていることは間違っていない。  杏奈は冷蔵庫に寸胴をしまいつつ、自分の非を認めていた。それとともに、自分の中にある鈍さ、腰の重さを感じる。 ─土か、私は…。  小須賀はどうだろう。こと杏奈にたいしては、トゲトゲした態度と言葉を浴びせる。  自分が怒らせているからではあるが、その怒りは、火だ。  そして、料理への愛情。料理人としての熱意と捉えれば、これも、火か。  トリートメント後の片付けを、杏奈から免除した。  なぜなら、食事の準備に集中してもらいたいからだ。初めてのことだし、午後のトリートメントの後にも片付けを行う機会はある。  お客がシャワーを浴びている間、ヒートマットの電源を切り、ワゴンの位置を整え、同じ部屋の襖を開けたところにあるシンクに使った道具を運ぶ。  シャワーの音がしている間は、洗い物をするチャンスだ。  アビヤンガの時は、洗い物といっても、オイル、スクラブを入れていた器くらい。  洗い物が終わると、ベッド周りの汚れ、特にオイルが落ちた後を拭き取る。  そこまで終えると、美津子は使い終わったバスタオル持って階段を降りる。  そのまままっすぐ、一階の施術室の隣の洗面所へ向かった。  洗濯機は、大きなドラム式と、縦型の二つがある。  施術で使うタオルやサロンは全て、ドラム式洗濯機で洗っている。  もう一つの縦型洗濯機は、自分の衣類を洗うのに使っているが、長期滞在するお客が使うこともある。  タオルを洗濯機に入れると、まだ回さず、美津子は新しいタオルを持って、施術ルームに戻る。  シャワーの音は止んでいたが、お客はカーテンの裏で、体を拭いている。  お客の準備ができた頃を見計らって、美津子は体重計のスイッチを押し、カーテンの向こうへ押しやった。  常連客の中には、美津子がいても構わずカーテンを開け放って、その場で数値をメモさせてくれる人もいる。  今回は初対面だし、奥ゆかしそうな人なので、美津子はお客がメイクルームへ移動してから、さっとメモを取った。  シャワー室と床の掃除、新しいタオルのセッティングまで手早く済ませて、美津子はまた一階に降りる。 「美津子さん、何か手伝いましょうか?」  階段下にいた杏奈が声を掛けてきた。 「上のことは済んだわ。食事の用意は?」 「はい。もうできてます」  話しながら、二人は応接間まで移動した。 「じゃあ、お客さまが降りてきたら、お茶をお願いね」 「はい」  美津子はいつもの位置に座る。  杏奈は美津子の前で、何をするでもなく、ふわふわ漂っていた。  これは、暇を持て余している時の杏奈の動きなのだ。  こんなことなら、片付けをしてもらうのだった。 「カウンセリングを聞いていた?」  施術前の、優香との話のことだと、杏奈は思って、首を縦に振った。 「優香さんは謝っていたわね」  美津子は、独り言のように言った。 「誰に対して、謝っていたんでしょうね…」  優香は、メイクルームで身支度をととのえた。  鏡台の上に準備されている化粧水や乳液を、顔にしっかり塗った。  午後も施術があるので、化粧はしない。  ドライヤーで髪をかわかして、ブラッシングを終えると、施術室の向かいにある、客間に入った。  八畳ほどの和室で、床の間には水色の紫陽花が飾られている。  シャワーを浴び、体を拭いたが、体はしっとりとしていて、今身に着けているサロンまで、しっとりとしている。  そのまま畳に座るのは憚られ、部屋の隅に置かれているアンティークな机に向かい、椅子に腰かけた。  全身がぽかぽかと温かい。  湿疹が出やすいお腹周りやわき腹に、オイルが染みるかもしれないと思ったが、大丈夫だった。  施術室には持って行っていなかったが、 「ふう」  優香はため息のような吐息を漏らした。  ふと気が付いて、鞄からスマホを出すと、着信が一件、メールが二件入っていた。  着信とメールのうち一件は娘から、調味料の在りかを尋ねるもの、もう一件は会社の同僚からだった。  どちらにも、短く返信をしてから、優香は椅子の背もたれにもたれかかって、もう一度ため息をつく。 ─ふう。  美津子は自分よりも年上だろうが、肌に張りがあり、すっきりと細く、理路整然とした話し方をする、賢そうな女性だった。  厳格な印象は受けなかったが、酒に飲まれている自分に、飽きれているだろうなぁと思う。  いや、飲まれているというほどではないと思う。  この程度飲んでいる人は、世の中に山ほどいる。  自己流の糖質制限─穀物を食べない─の結果、優香は数キロ痩せることに成功した。  この方法は、ある程度理に叶っていると思ったし、目に見えて効果が出たので、信頼している。  副作用として─美津子曰く─便秘になりやすいのかもしれないが、便秘は、糖質制限をする前から始まっている。今に始まった話ではない。  それなのに、美津子は、穀物を食べた方がいいという。  優香は、しかし、ぶるぶるっと頭を振った。 ─やめよう。リラックスしに来たのだから。  優香は気を取り直して、もと着ていたトップスと、白いガウチョパンツに着替えた。  美津子はキッチンで、杏奈の料理の味見をしていた。 「豆カレーが、思ったよりおいしいんすよ」  小須賀は、コンロから離れたところの、キッチンの壁を拭き掃除しながら、意外にも美津子の前で褒めてくれた。  杏奈はやはり、褒められるのはいかにも慣れない、というためらった表情になり、 「カレー…ではないんですけどね」  と付け足した。  今日のメインは、チャナダルと野菜の煮込みである。  チャナダルとは、カラチャナと呼ばれる小さいひよこ豆の、皮を剥いて半分に割ったものだ。  ひよこ豆と同じく、旨味のある豆で、皮がない分、とろけやすい。  杏奈が作った煮込みも、豆が五分ほど煮崩れて、とろみになっている。それでも、食感を感じるほどには、豆の粒感が残っていた。  一緒に煮込んでいるのは、セロリと人参である。  ホールスパイス(粉砕されていない丸のままのスパイス)としては、マスタードシードが目に見えて入っていて、これとは別に、ほのかな清涼感もある。 「ホールスパイスは他に何を入れた?」 「フェンネルです」 「パウダースパイスは?」 「ターメリック、ヒング、コリアンダーです。あ、あとフェヌグリークパウダー」  杏奈のアーユルヴェーダ料理は、味が薄いわけではないが、マイルドで、これといった際立った味や風味を感じない。 「そのスパイスを選んだ理由は?」 「ピッタに良いものと、ヒングは豆のガスを消すために」 「どういう点がピッタに良いの?」 「ターメリックは、肝機能を向上させ、浄血を促します。優香さんはお酒をよく飲まれる方なので。コリアンダーも、解毒作用に優れています。フェヌグリークは、排出作用があって、苦味がピッタに良いと思います」  小須賀は、いつしか掃除の手を止めており、飽きれたような顔をする。 「古谷さんって、そういう話する時だけは、よどみなく話すよね」  美津子もまったく同感であったが、それは言わないでおく。 「今言ってたこと、あとで優香さんに説明してあげて」 「はい」  美津子はキッチンを出た。  あかつきで提供する料理は、スリランカ料理である必要はない。  そう言っておいたものの、ゴツコラサンボルのおかげで、ちょっと現地の要素が入りそうだなと思った。 ─小須賀さんは、洋風のハーブ使いがうまいけれど、杏奈はまた別の得意分野がありそうだ。  実のところ、小須賀の今の本職は、イタリア料理店のシェフ、なのだ。  彼はスリランカ料理やスパイス料理に馴染みがあるわけでもないし、ましてや習ったわけでもない。  アーユルヴェーダ料理の理論も、頭にない。  それでも、これまでの他の分野での経験と、もともとの感覚だけで、実においしく、バランスよく仕上げてしまうのである。  しかし、せっかく、数年の間あかつきで仕事をしてくれたのだ。  あかつきから、小須賀にとっても何かいいものを持って帰ってもらいたい。 ─お互い、いい影響を与え合ってくれるといいのだけれど。  それは、料理の質以外のところでも。  実は、小須賀と接することで、杏奈が今までになかった反応を見せてくれることを、期待している。  小須賀は、人の心に土足で踏み込む男…と言っては表現が悪いが、人との間にあまり隔たりを作らない。  気難しい、扱いにくいと、嫌煙されるような人にでさえ、飄々として、その距離を縮め、心を開かせる。  杏奈といくつも歳が離れていない、この陽気な男が、杏奈の陽の気を引き出してくれることを期待していた。  では、小須賀は杏奈からどんなことを学べるか…  優香が階段を降りる音がして、美津子は考え事をストップして、立ち上がって出迎える。 「着替え終わりました」  まだ、ほんのり顔が上気している。  美津子は施術前と施術後の、数値の変化を説明した。  途中、杏奈がお茶をお盆に載せて運んでくる。施術後のお茶は、フレッシュなレモングラスを煮出したレモングラスティーに、ミントを浮かべた清涼感のあるものだった。  それから、午後の施術の説明をする。  ちょうど説明が終わる頃、お昼時になったので、美津子はそのままお客にその場に居てもらい、キッチンへ顔を出した。 「お願いします」  応接間での話が聞えていたのか、杏奈はすでに盛り付けをしていた。  小須賀の姿は、見えない。  美津子は声だけかけると、応接間に戻り、しかし座ることなく、窓の外の様子を伺った。 「雨が降りそうですね」 「そうですね」  明日は、自由時間に、杏奈をつけて外出してもらおうと思っていたのだが。  二人が世間話を始めてほどなく、杏奈が料理を運んできた。  見た瞬間、杏奈は完全に手順を忘れているなと思った。  ランチョンマット、カトラリ、お水とグラス、が先だ。  小須賀は肝心なところで席外し。大方、屋外に出てタバコでも吸っているのだろう。  美津子は杏奈を軽く手で制して、足を止めさせた。  それから、慌てた様子を見せず、ランチョンマットを持ってきて優香の前に置く。 「失礼します」  カトラリを、右側に配置した。  そして、杏奈の方を見て、頷く。  杏奈はしまった、という苦々しい表情をしていたが、それを納め、丸いノリタケのお皿をランチョンマットの上に置いた。 「わあ…!」  諸事、律儀な反応をしてくれる優香は、料理にも、素晴らしいリアクションを見せてくれた。  顔を綻ばせ、手を合わせて口元を覆う。 「おいしそう」  美津子は、気が付かない杏奈の代わりに、グラスとピッチャーをキッチンまで取りに行った。 「今日の料理は…」  戻って来ると、うんたらかんたらと杏奈が説明を始めている。  料理の名前まで述べたところで、 ─もう、戻れ。  と、心の中で念じるも、杏奈はその後の説明─先ほど、美津子が説明しろと言った、細かいスパイス使いの話─に入りかけているところだった。  仕方なく、軽く咳払いする。 「お料理が冷めてしまうので、先にお召し上がりください」 「あ、はい」  返事をする優香の横で、杏奈はまた、しまったという顔をする。  変なところで、杏奈は気が抜けているのだ。  恥ずかしそうに、美津子の横を通り過ぎて杏奈はキッチンに戻った。  美津子は、その杏奈に聞こえるように 「あとでまた、料理の説明をしに来ますから。私もスタッフも、キッチンにいるので、何かあったらこのベルを鳴らしてください」  と言って、スチールの呼び鈴を、料理から少し離れたところに置く。  そうしながら、美津子は杏奈が出した料理に視線を走らせた。  五分づき米と、チャナダルと野菜の煮込みが、ほぼ一対一のバランスで、皿を埋めるように盛られ、その境の部分に、輪切りにしたロースとズッキーニが整然と並んでいる。  ゴツコラサンボルは、皿の端に、多すぎない程度に盛られている。 ─緻密だな。  こういう発想は、自分には出て来ないと思う。かわいらしい、女性には喜ばれそうな見た目だ。  杏奈は割と、こういうところにこだわる。おそらく、好きなのだろう。  キッチンに戻ると、杏奈がすぐさま不手際を詫びた。 「気にしないで」  小須賀もさすがに気まずそうに、 「すみません、僕が見てなかったので」  美津子はかぶりを振って、二人にも昼食を摂るよう勧める。 「美津子さんは?」  杏奈は、小須賀がさっき言っていたことを思い出して、訊く。 「午後の施術の前に、自由時間があるから、その時に食べるわ」 「私もその時でいいですか?料理の説明に行くタイミングを見ていたいし、あとで、料理の写真を、そっちで撮りたいので」  別に、ダメという理由もないので美津子は承諾する。  そういえば、美津子と小須賀でお客対応をしている時は、あまり商用の写真を撮ることはなかった。  さっそくその日、杏奈がインスタにアップしたあかつきのお昼ごはんの写真には、他の投稿よりも多くの「いいね」がついた。  写真と内容は、もちろん事前に美津子が確認した。  杏奈にインスタの運用をさせるのは、しばらく先にするつもりだったが、ネタがあるなら、その都度投稿すれば良いと思い直した。  変なところで気が回らない杏奈だが、こういうコツコツとした、マメなところは長所だ。  小須賀が、そこから学び、刺激を受けるとはあまり思えなかったが…
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