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翌朝、開店前にやってきた昴さんは、今まで見たことがないくらい、冷たい視線を私に向けた。
「こないだのあの人……俺の父親?」
直接すぎる言葉に、なんと言い返して良いか、迷った。
「……昴さんのお父さんは、亡くなったお父さんで……」
「戸籍じゃなくて」
「わからないよ。顔は似てるけど、DNA鑑定したわけじゃないんだし。野々田さんに直接訊いてもらうしか」
「……」
昴さんは沈黙したまま、私を睨んだ。
いつか好きになってもらえるなんて、思ったことはないけど、願ったことはある。その相手に睨まれるのは、さすがに堪えた。
「母さんになんて訊くんだよ……。浮気しましたか、って訊くのかよ」
そうか……。
野々田さんは、結婚して数ヶ月のときに先生と一度だけ、と言っていた。叔母と私は、誰にも、そして昴さんにも、絶対に話さないと、野々田さんと約束した。ここで私が話すわけにはいかない。
「……いいよ。母さんに訊くよ」
「うん……でもあの人は華ちゃんの恋人だよ。あの人は華ちゃんに会いに来たの」
「え?」
「華ちゃんが高校一年のときから好きでいた人。華ちゃんがここでずっと待ってた人。あの人もずっと華ちゃんが好きだったの。事情があって来れなかっただけで。華ちゃんもその事情をわかった上で、待ってたの」
私が言い終わる前に、昴さんが両手の拳でカウンターを思い切り叩いた。ドンっという大きな音と共に振動がして、私は驚いて、ヒッと息を飲んだ。
「華さんをずっと好きなのは、俺だけだよ」
昴さんの目がだんだん真っ赤になっていくのを、私は見ていた。拳もどんどん赤くなっていった。
涙ぐんでいる昴さんを、いつかのように抱きしめたいと思った。でもそれが一番許されないのが私なんだと思った。
私は浅はかだった。叔母と野々田さんを比べてばかりいて、昴さんの気持ちを考えなかった。好きな人なのに。叔母が亡くなって六年経っても、叔母しか見ていない昴さんに、私は優しくなれなかった。
私は、昴さんに叔母をもう諦めてほしかった。少しだけでいいから、私のほうを向いてほしかった。
「私だって……ずっと昴さんが好きだよ」
「は?」
私は泣きながら、震える声で言った。
「昴さんが華ちゃんを目で追ってるのを、ずっと見てきたの。ずっと苦しくて、心臓をギューってされる感じだった。それでも、いつか私を好きになってもらいたくて……だから、いつも笑っていたのに」
もう涙で昴さんが見えなかった。
叶わないと知っていた。
昴さんが優しくしてくれるのが、余計に辛かったのに、幸せでもあった。
「……ごめん」
その声が聞こえたのと、私の体がふわっと暖かいものに包まれたのは、同時だった。
抱きしめてくれた昴さんは、私よりとても背が高くて、私の顔は昴さんの胸の辺りにおさまった。昴さんの匂いなのか、柔軟剤の匂いなのか、フルーティーな香りがした。
「華さんにだって、こんなことしたことないよ。でも、ごめん」
そのひと言で、すべてが終わったことを悟った。
私は抱きしめられたまま、号泣した。泣きすぎて苦しかった。
私を好きにならないのに、私を抱きしめてくれるところが、昴さんの優しさだった。
私はまだ二十九歳だけど、もうこの人生ではこんなに泣くことはないと思うくらい、泣いた。
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