ネズミ穴

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 友人が引っ越すというので、手伝いに行った。 「どこそれ、埼玉?」 「東京だわ」  駅名を聞いたときは郊外かと思っていたが、路線図で確認すると23区内である。駅と駅の区間の短い路線は確かに都会のそれで、私の住んでいるところよりも、断然都心に近い。 「すぐそこに観光地だってある」  友人は胸を張るが、駅前にはスーパーすらない。 「都会の田舎だね」 「失礼だね」  憤慨しつつも気の抜けた顔で笑う友とは、職場で出会った。歳が近いこともあり、互いに本が好きということもあり、親しく話すようになるにはそれほど時間は要しなかった。だが、販売業である。小さな店舗で休みが被ることはほぼないため、休日にこうして一緒に何かをすることは初めてに近い。 「せっかく同じ日に休みがとれたのに、ごめんね」 「まあ、次の時は旅行でもしようよ」 「助かるよ、ほんとに。業者には途中までしかやってもらってなくて」  拝むような仕草でおどけた友人の顔は明るい。 「引越しって、物入りだもんねえ」 「そうなのよ、そんなにお給料高くないしさあ。なのに、なけなしの給料は本代に消えちゃうし」 「それはしょうがないよね」 「あれもこれも欲しいんだよ。欲深くていけないって、よくおばあちゃんに怒られた」  友は遠くを見るように目を細くした。眩しいような、寂しいような眼差しで、唇が微かにほころぶ。  踏切の音を背中に、角を曲がる。雀の鳴き声が賑やかに転がる狭い通りを、さらに折れる。 「ここ、道なの? 狭すぎじゃない」 「火事を出したら近所から袋叩きにあう。消防車が入れないから、プロパンのボンベを持って逃げなきゃならない」 「ウソでしょ」  びっくりする私を横目で見て、友人が笑った。  横並びには歩けないので縦一列になって歩く道の両側は、引き戸の玄関が並んでいる。家の壁に張り付くように置かれた鉢植えの数は、予想外に多い。 「これぞ下町、って感じ」 「いや、もうこれは下町っていうかなんていうか」 「でも、いいとこじゃん」 「うん」  嬉しそうな顔で友が笑うと、私も嬉しい。  どん詰まりの家の前で、友人が立ち止まった。 「ここだよ」 「これはまた」 「味がある」  私の言葉に被せて、友が断言した。  そう。味がある、としか言いようがない。古民家というほどの佇まいでもなく、昭和の終わりか平成の初め頃の古びた家。色褪せた赤い郵便受けが郷愁を誘う。 「君の家はマンションじゃん」 「そうなんだよね」 「郵便受けは銀でしょ、何が郷愁か」  笑って誤魔化した私を軽くこづいて、友はポケットから鍵を取り出した。 「ところでさ」 「なんです」 「ポケットなんだけど」 「うん」  友人はざっと私の全身を見回して、何かを言い淀んだ。 「大人にこんなこと聞くのはなんだけど、ポケットに穴、空いてないよね」 「穴。おそらくは、大丈夫なはず」  言いながら、私は上着とデニムのポケットに手を突っ込んで確認する。デニムのポケットの隅に溜まった糸屑を指先でせせって、これは摘み出すべきかどうか悩んでやめた。 「空いてない」 「ならよかった」 「なんで?」 「いやあ、習慣?」  小首を傾げながら友は玄関の鍵を開けようとして、少しだけ戸惑う。 「引き戸の鍵って開けにくいよね」 「古いからじゃない」  友人の手元を見ながら、呟く。彼女の人差し指の先は、ちょっとだけ短い。そのせいで鍵が摘みにくいからだと思ったけれど、まだ、そう言えるほどの仲ではない気がする。かちりと開錠の音がした。私の視線に気づいた友は、少しだけ笑ってポケットに鍵を戻した。 「ようこそ、わが家へ」 「お邪魔します」  ひんやりとした玄関の中は薄暗く、ほのかに懐かしい匂いがする。 「人の家の匂いだ」 「わかるわ。まだ、おばあちゃんちの匂い」 「自分の家の匂いはわからないけどさ、うちもなんか匂いするのかな」 「するでしょ」 「今度さ」  乾いた唇を舐めて湿らす。 「うちにも、遊びに来てよ」 「うん、行くよー。クッキーパーティしようよ」 「なにそれ」 「お互いのオススメのクッキー缶持ち寄るんだよ」 「絶対楽しいやつ」 「早くこの家も、私の家の匂いにならないかなあ」  笑いながら、丸い敷石の詰められた玄関で靴を脱いで上がった。使い込まれた廊下の床板がひんやりとしている。 「これ使って。使い捨てのスリッパ。まだ床とかざっとしか拭いてないから。大きい家具は引越し屋さんに運んでもらったんだ。残ってるのは荷解きだけなんだけど、ひとりだといつまでも終わらなそうで」 「連休取れないし、家帰ったらご飯食べて寝るだけだし、そりゃそうなりますよ」 「なんせ、一軒家だから」  友は感慨深げに天井を見上げ、ゆっくりと視線を巡らせた。こぢんまりとはしているものの、二階建ての一軒家である。 「職場は今より遠くなるけど、おばあちゃんの残した家だし」  大きく息をついて、柱に手を滑らせる。 「こんな場所、誰も借り手もいないしさ」 「そうなの、駅近じゃん」 「いろいろ不便なんだよ」 「スーパーないもんね」 「あるわ、スーパーくらい。マックは潰れたけれども」 「マックが撤退する町」 「歯医者とコンビニばっかりなんだよ」  今度は盛大にため息をついて磨り硝子の引き戸を開けると、友人は部屋の明かりをつけた。  ちちち、と天井で蛍光灯が瞬く。 「LEDに変えなきゃなあ」 「やること盛りだくさんだね」 「ほんとだよ。とりあえず、リビングはほぼ片付けたから、こっちからやろうか」  畳の上に緑のカーペットが敷かれた部屋には、放り出されたように段ボールが置いてあった。元々何に使っていた部屋なのか、押入れは襖が外されて、空っぽの内側をさらけ出している。 「物置だったんだよ、この部屋。色々なものが詰め込まれてて、片付けるの大変だった」  唇を尖らせて、ふん、と鼻から息を吐き出す。 「もったいないね、結構広いのに」 「この部屋、日当たりがあんまりよくないし、ネズミが出るし。いつの間にか物置になっちゃったんだよね」 「え、ネズミがいるの? じゃあ、物置に向かないんじゃない」 「そうでもないよ。でも、ネズミには困ったな。ポケットに穴が空いてると、ネズミが持っていっちゃうから気をつけなさいって、おばあちゃんによく言われてた。お菓子とか入れてるとさ」 「そんなに近くまで寄ってくるの?」 「気がつくとなくなっちゃっててね。泣いてると、おばあちゃんが裁縫箱持ってすっ飛んできて、洋服脱がされてさ」  変な当て布されるんだよ、と友は情けのない顔で笑った。 「今もいるわけ?」  それは駆除業者を呼ぶべきではと、私は天井を見上げる。いや、ここは一階だから、壁に穴でもあるのか。ネズミの隠れ場所をなくすために、押入れの襖を取り払ってあるのだろう。なんにせよ、あまり心地の良い話ではない。 「いるんじゃないかなあ。しばらく来てなかったから、わからないけど」 「そっか。じゃあ、ぱぱっと、片付けちゃお」  早くこの部屋から出たくて、私は腕を捲ってみせる。 「どれからでもいい?」 「うん、任せるよ」  手をかけた段ボール箱はずっしりと重くて、思わず友を振り返る。 「本だよ、たぶん。開けたら適当に棚に詰めていってくれればいいから」  壁に沿って置かれた本棚を指差す。 「ああ、日が当たらないなら、確かに書庫には最適」 「でしょ」  ガムテープを指で剥がすと、みっちりと詰め込まれた本が隙間から見える。まとめて数冊をつかみ出し、端から棚に置いていく。数度繰り返したところで、箱の中身が作者順に入れられていたことに気がついて友人を振り返った。 「几帳面だね」 「え、本棚に入ってたのをそのまま箱に入れただけだよ」 「いや、几帳面でしょ。私、本棚はサイズ別にしか分けてない」 「それは大雑把すぎるでしょ」  笑っている友達は、ガムテープに苦戦しているのか、爪の先でかりかりと段ボールを引っ掻いていた。 「開ける時のこと考えてなかった。口いっぱい詰めたから、カッターが使えない」  私が横から手を伸ばしてガムテープの端を剥がすと、額を掻いて眉を八の字に下げた。 「そういうとこ、意外と抜けてるよねえ」 「ひどい」 「まあ、そこがいいとこなんだけど、店長の」 「あのさ」  視線を泳がせて、友人は頬を掻く。 「職場じゃないから、店長じゃなくて、名前で呼んでよ」  上目遣いに言って、ぷいと横を向いた耳が赤い。 「ちょっと、なんで照れるんですか」 「だって、なんか今さら名前で呼んでくれとか」 「こっちまで恥ずかしくなるんだけど」 「君だって、不自然に呼ぶの避けてたじゃないのよ」 「だって、それは、やっぱり今さら改めて呼び方変えるとか」  私まで頬が熱くなってくる。 「じゃ、じゃあ、その、真琴さん」 「なんでしょうか、湯沢さん」 「あ、ちょ、どうして私だけ苗字」  そうか、別に下の名前でなくてもよかったのかと、頭を抱えそうになった私は、思わず友の肩を掴んだ。 「私のことも、名前で呼んでください」  覗き込んだ友人が驚いたように目を見開いて、それから、嬉しげに破顔した。 「わかった。深雪さんて呼ぶよ。いい大人が二人して、何してるんだろね、私たち」 「いやもう、恥ずかしい。ちゃっちゃと片そう」 「呼び名を変えるのがこんなに照れくさいなんて思わなかった」 「本当に」  妙に浮き足だった気分で、私は床に無秩序に置かれた段ボールのガムテープを剥がして回る。 「ありがとね、深雪さん。私、細かい作業はあんまり得意じゃないんだ」  ちょっとだけ短い指先をおどけたように動かして、真琴さんが私を見上げる。 「その指って」 「うーん。千切れちゃったんだよね」 「事故とか?」 「まあ、事故っていえばそうなのかな」  本棚の横に一つだけ置かれた段ボールに手をかける。今までの箱よりも大きい段ボール箱は、やたらに重い。 「あ、それは汚れちゃうからこれ着けて」  真琴さんが放り投げた物を慌てて受け取る。古びた深緑のエプロンを首に掛けて、後ろで紐を結ぶ。 「ずいぶん年季が入ってるエプロンだね」 「うん、大事に取っておいたんだ」  真琴さんが本棚に次々と本を並べながら、楽しげに目を細めた。 「これ、何が入ってるの?」  本にしては大きすぎる段ボールは、ガムテープが念入りに貼ってある。 「わからないけどたぶん、引っ越し屋さんのじゃないかな」 「え?」 「それ詰めたの、私じゃないんだよね」 「お任せで梱包してもらったってこと?」  剥がしてしまったガムテープを見て、私は手を止める。真琴さんはどんどんと、段ボールを空にして、手際よく畳んでいく。 「勝手に梱包されちゃったの。まあ、この部屋、物置だから、よくわからない物を置いておくにはちょうどいいんだ。おばあちゃんの時からそうだったし」  真琴さんを見つめながら、私は剥がしたガムテープを丸めてエプロンのポケットに突っ込んだ。ガムテープが剥がれた段ボールの合わせ目が、ぱくっと開く。 「あれ、深雪ちゃん、そのエプロンのポケット、穴が空いてるね」  丸めたガムテープを握ったままの指先を、私はおずおずとポケットの中で伸ばした。爪の端が穴の入り口を探り当てる。指でまさぐると、穴の淵は僅かに抵抗した後で、するりと私の指を飲み込んだ。指の先端に感じる奇妙な圧迫感と開放感。それから、空気に触れているひんやりとした感じ。 「あらら、深雪ちゃん。ネズミの穴に、落ちちゃったね」  真琴さんが、他よりも短い指先をちらちらと蠢かせて唇に当てる。うっとりと目を細めて、先の欠けた指を咥え込む。 「私の指も、ネズミの穴に落ちたの」  ポケットから引き抜こうとした指先が、ぬっとりと湿った何かに包み込まれていく。 「引っ越し屋さんも、ポケットに穴が空いていたみたい」  開いた段ボールの隙間から、よく見るロゴが入った作業服が見えた。 「大丈夫、穴に落ちても、そうやって、この部屋に戻ってくるから」  段ボールに詰め込まれた丸まった背中は、ぴくりとも動かない。暖かい滑りはもう、私の指を根本まで飲み込んでいる。 「私の指先も、この部屋のどこかにあるはずなの。深雪ちゃんと同じ箱に入るといいな」  叫びたいのに、顎が震えて、喉はひりつくばかりで息もできない。 「おばあちゃんは、私のこと、あれもこれも欲しがって欲深いって言っていたけど」  真琴さんが腕を伸ばして、私の頬を撫でた。腰が、胸が、生温く包まれて力が抜ける。 「欲しいものでいっぱいにして、この家を、私の家の匂いにするの」  少しだけ他よりも短い指先が、私の唇をなぞる。 「私の匂いになってね」  たぷん、と温かい泥濘に沈み込む音がした。
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