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「なんでこんなことになってしまったか、不思議そうね」
倒れた彼女がしばらくぶりに口を利き、そばで見下ろしていた私は飛びのいた。さっきまでとは打って変わって、その声は老女のように低くがさついていた。
「私がこうである原理はよく分からないけれど、あなたが選ばれたのには、理由があるわ」
「理由……?」
「そう。あなたが選ばれたのは、あなたがやすやすと噂を信じなかったから。人間は集団行動をする社会的な動物で、それゆえに、どんな風説にもかんたんに同調しなければ群れを維持してゆけないでしょう? でも、私たちの世界では、それは美しいことじゃないの」
老婆の声で少女のように、黒い塊はしゃべった。
「……三百年」
ぽつりと、彼女は言葉を継ぐ。
「三百年、私は迷子だった。みんなが私の話をするのに、誰にも見つけてもらえなかった。ずっと、いろんなところを渡り歩いていたの。西欧にも行ったし、中央アジアにも行った。カリブや南米や、北アフリカにだって。兵隊、農民、漁師、聖職者、労働者、遊牧民、海賊……なんにでもなった。でも、みんなが私の噂を信じたの。信じる人に、私の姿は見えないの。そうして何年か過ごすと、私の身体は腐って朽ちて崩れるの。とても痛いのよ。でも死ねなくて。見つけてもらえるまで、ずっと命をやり直すの。だけど、ようやくあなたと出会えた」
辺りは暗くなりはじめていた。木々が夕陽を遮るせいか、昼から一足飛びに夜になっていくかのようだ。
黒い塊はまた、何も言わなくなった。
どうすることもできず、私は立ち尽くしていた。
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