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ふと、どこかからカシスめいた芳香が漂ってくるのを感じた。
見回せば、林じゅうの木々の枝が薄闇のあちこちでキラキラと光り出している。と、目の前の枝から何かがぽたぽたと落ちた。身をかがめて、私はそれを拾い集めていく。燐光をまといながら手のひらできらめくそれは、つるつるに磨かれた真っ黒なオニキスの実。ヘマタイトも、黒いパールもある……
サクリと何か小気味のいい音がして、私は振り向いた。と、彼女の顔のあたりの布が裂けていた。中から小さなものがふわりと出てきて、私は小さく息を飲む。
それは、淡く光をまとう一匹の黒い蝶だった。リボンのような、たおやかな蝶。一匹出てくると、二匹、三匹と続き、緑の光の尾を引きながら薄藍の空に舞い上がっていく。それから、無数の黒いリボンたちが彼女の中から吹き出して止まらなくなる。それらは高く舞ったあと、思い思いの方向を指し、黒い彗星のように散らばりはじめた。
しばらくぼうっと眺めていたが、ハッとして目を戻す。抜け殻になった黒いサテンが、闇に包まれていく林の底に、小さな沼のように張りついていた。
「あ、あの……」
もはや彼女と呼んでいいのかもわからないそれに向かって、私は呼びかける。
「大丈夫……です、か?」
やはりそれは何も言わない。もうしゃべりそうにもない彼女へ丁寧に接する自分はまぬけだったけれど、恥ずかしいことだとは思わなかった。
ほどなく、彼女は動き出した。
シュルシュルと音を立てながら林の奥のほうへ這いずっていき、二度と戻ってはこなかった。
彼女が去ってしまったあとも、木々は静かに瞬き続けていた。
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