世界一の悪女

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 離縁誓約書にサインを終えたラジェインは、テルミィの前に立つ。しかしすぐには誓約書を渡すことはしなかった。 「テルミィ、これを渡す前に、一つだけ言わせてもらうぞ」 「はい、領主様。心して聴きます」  これまでで一番厳しい表情を浮かべたラジェインに、テルミィはゴクリと唾を呑む。  手の震えに気づかれたくなくて、テルミィがぎゅっとスカートの裾を握った瞬間、ラジェインは口を開いた。 「こんなにも辛い決断をさせるとは、とんだ親不孝者だぞ!」 「っ……!」 「それに領主様って誰だ?儂のことか?はっ、冗談じゃない。儂はそんな呼び方をしろと言った覚えはない。いいかテルミィ。おぬしは紙切れ一つで繋がった縁だと思っているかもしれんが、繋がった縁は紙切れ一つで切れないことを忘れるな」  ラジェインが言ったことは一つではなかった。しかし、伝えたい思いは一つだけだった。  それをしっかりと受け止めたテルミィは、強く唇を噛む。嬉しいけれど、申し訳なくて、でもやっぱり嬉しい。こんな気持ちになった時、どう言えば良いのかとてもとても難しい。  扉の前で絶品の干し肉を食べたそうにしていたハクは、何かを感じ取ったのか静かに立ち上がると、ゆっくりと近づきテルミィに寄り添う。  冬毛に変わったもふもふが膝に当たり、テルミィの瞳に涙が浮かぶ。今はこう伝えるのが精一杯だ。 「ありがとうございます、お父様」 「……この流れならパパと呼んでくれると思っていたのにな」 「そ、それは……無理ですぅ。ご、ごめんなさい」 「これ、謝るなと言ってるだろう」  苦笑を浮かべたラジェインは、手に持っていた離縁誓約書をテルミィに渡した。  しかしこれで話は終わりではないようで、ラジェインはソファに座れとテルミィに目で指示を出す。  断る理由がないテルミィはソファに座り、ハクは干し肉を名残惜しそうにチラチラ視線を向けつつも、テルミィの足元でお座りをした。  ラジェインもテルミィの向かいのソファに着席すると、おもむろに咳ばらいをして口を開く。  「ところでテルミィ、その粉はどうやって使うつもりだ?」 「あ、えっと……今からルドルクさんを追いかけようと思ってます。確か魔術師さん達と合流するために途中の神殿で数日待機するとルドルクさんが言ってたので、今から向かっても追いつけると思います」 「待て。まさか歩いて行く気か?」 「い、いえ……昼間は辻馬車を使います。夜は……歩きます」 「待て待て。夜に歩くなど危険過ぎるじゃないか」 「でも、私……歩くの遅いし、ルドルクさん達は馬で移動するから……辻馬車だけだと追いつけないです。それに、ハ、ハクがいるから、夜道でも大丈夫です」  自慢気にハクに視線を向けるテルミィに、ラジェインは額に手を当てて天を仰いだ。声に出さずとも「ちっとも大丈夫ではない」と顔に出ている。  しかし、テルミィは気づいていない。それどころか、なんか普段より胸を張っている。  姿勢を戻したラジェインは何かを言いかけて止め、「ぅおっほん!」とわざとらしい咳払いをして話を続けた。 「そ、そうか……それで、ルドと合流した後はどうするつもりだ?見つかったら即刻、屋敷に連れ戻されると儂は睨んでいるが?」 「あ、それはちゃんと考えてます。えっとですね……ルドルクさん達がスコル討伐をする前日に泊まる宿を教えてもらっているので、夜更けに荷物に紛れます。そして翌朝、荷物と一緒に結界まで向かいます。後は……魔術師さん達が結界を解除した瞬間に、これを投げるつもりです」 「……荷物に……紛れる?」 「はい。あ、も、もしかして……ハクが真っ白だからバレると思ってますか?大丈夫です。私、考えてあります。これを用意しました」  これ──と言いながら、テルミィはもう一つの小瓶を布から取り出すと、顔の高さまで持ち上げ軽く振る。小瓶の中の砂がサラサラ音を立てる。 「一応聞くが……それは何だい?」 「ハクの毛を真っ黒にする粉です。これ……水洗いすれば落ちるんですが、闇夜に紛れる優れものなんです」  余程自信作だったのだろうか。最後にえへへっと照れ笑いで締めくくるテルミィに、ラジェインは微妙な顔をした。  テルミィは、毛染めの粉と所持しているだけでも大罪な精神干渉の粉を、どちらも大切に抱えている。そう。テルミィにとってこの二つの粉は同等なのだ。どちらも、ルドルクの危機を救うための手札でしかない。  こんな滅茶苦茶な価値基準なんて誰にも理解できないことだろう。しかしこんな奇抜な考えを持てるのは、誰かをひたむきに愛しているから。 「ルドにはもったいないほど出来た妻だな。まぁ、しかし……しかしだなぁ」  小声で呟いたラジェインは、顎に手を当てる。  このまま引き留めずに送り出したいのは山々だが、実際のところ長々と語ったテルミィの計画は、要は行き当たりばったりの運次第。はっきり言ってしまうと、計画とは言えないお粗末なものだった。  しかし自信満々のテルミィにズバリと指摘できないラジェインは、小さく呻くと立ち上がり机の上にある呼び鈴を鳴らす。執事のディムドを呼ぶために。 「テルミィ、悪いがデイルを護衛につけさせてもらうぞ」  「え?……ど、どうしてですか?」 「儂にはテルミィが志半ばで森で彷徨う未来しか見えないからだ」 「そ、そんなぁー……大丈夫です、私」 「すまない。儂はテルミィが大丈夫と口にする度に、どうしようもない不安に襲われる」  きっぱりとラジェインに言われて、テルミィは少なからずショックを受けた。  信じられないことだが、このグダグダな計画をテルミィは非の打ち所がない完璧なものだと思い込んでいる。  しかしテルミィが反論する暇を与えずに、ノックの音が響く。ラジェインが食い気味に「入れ」と言った瞬間、扉は派手な音を立てて開いた。  無作法なそれにラジェインの眉間に皺が寄る。けれども開いた扉の先にいる人物を視界に入れた途端、テルミィとラジェインは同時にぎょっとした。 「オーホッホッホッ、話は聞かせてもらいましたわ!」    部屋の窓ガラスを揺らすような高笑いをかましながら派手に登場したのは、他領地に居るはずのアイリット・シバインだった。
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