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傷口に触れて愛を知る
領主ラジェインの一声が決定打となり、テルミィはルドルクの妻になった。
貴族とは暇さえあればお茶を啜っているように見えて、実はとても忙しい。広い領地を治める辺境伯夫人なら尚更に。
領主婚とはいえ、ニクル家嫡男の妻になったテルミィは、婚姻証明書にサインをしたその日から使用人達にとってニクル邸の若奥様となる。
若奥様の仕事は女主人の補佐役として屋敷の管理の仕事を覚えること。領地の主要な役職の奥様方を招いてお茶会を開き内部状況を把握すること。
貴族は横のつながりを何よりも大切にする。だからこそ早い段階から若奥様の顔をたくさんの人に知ってもらうのは、とても重要なことなのだ。
しかしテルミィはその責務を免除されている。なぜなら領主婚だから。
いずれルドルクはどこに出しても恥ずかしくない妻を娶るだろう。その時に彼に迷惑がかかるような真似だけはしたくない。
自分は居候。空気のように気配を消して、邪魔にならないようひっそり過ごすだけだ。
そう弁えているテルミィだが、何もしないでいるのは気が引ける。これまで無償で何かを与えられたことがなかったからだ。
そんなテルミィが、できることといえばただ一つ──この地で役立つ植物を研究すること。
春も深まり、日を浴びた緑が眩しい。吹き抜ける風が、サムリア全土にみずみずしさを与えている。
一面ガラスに覆われた敷地内の隅にある温室で、テルミィは熱心に書物を読んでいる。
お茶を飲むために用意されたテーブルセットに腰掛けながら、時折、何かを紙に書き、それに大きく丸やバツをつけている。
この温室は領主婚をした際に、ルドルクの両親から記念にと贈られたものだ。
といってもニクル家はさほど花に興味はなかったようで、温室は長年物置と化していた。そこをたった3日で整えてくれた使用人の皆さまの手腕は素晴らしいが、心底申し訳なく思ってる。
「雨季はもうすぐで、西側の乾季は雨季より長い……か。王都とは全然違うんだな。調べてよかった。これなら役に立ちそう。だとすると公園は……うん、かなりある。でもできれは一家に一鉢あると安心だよね。教会と病院はどうだろう……もっといるかなぁ」
「なにがいるんだ?」
「庭を全部使わせてもらえるかなぁ。でも庭仕事が好きな人もいるよね」
「おい、無視か?」
「一軒、一軒訪ねて訊いたほうがいいけど……誰が?私が?それは……無理だよぅ」
研究熱心なテルミィはルドルクが傍に来たことに気付かない。独り言は泣き言に変わり、最終的に両手で顔を覆って俯く。
その途端、自分の手が誰かの手によって剥ぎ取られてしまった。
「っ!?……ル、ルドルクさん!?い、い、い、いつから……そ、そ、そこにいたんですか!?」
背後から覆いかぶさるようにこちらを覗き込むルドルクは、手を掴んだまま苦笑する。
「ちょっと前からだ」
質問に答えたと同時にテルミィの手をパッと離したルドルクは、テーブルの上にある開きっぱなしの本に視線を向けた。
「随分難しいものを読んでるな。どうしたんだこれ。お前の本か?」
突然の来客に未だアワアワするテルミィは、うまく説明ができない。しかしルドルクはまったく気を悪くする様子もなく、本を持ち上げた。
「”西部の風俗史とそこに生息する植物図鑑”か。生まれも育ちも西部の俺だが初めて見る本だな。これは」
テルミィなら両手で持たなければいけない分厚い書物をルドルグは軽々と片手で持ち上げ、しげしげと文字を追う。けれど
「……ふぅーん」
すぐに気のない返事と共に、書物がテルミィの元に戻って来た。
「これはですね、この地に必要な植物を錬成したいとお伝えしたら、領主様がお貸しくださったんです」
「へぇ、何かできそうなのか?」
「乾季に備えて水をたくさん蓄えられる植物を……その……錬成しようかなっと……」
西の果てにあるサムリア領は他国と隣接しているが、その境界線は大きな砂漠なのだ。
テルミィが住まうニクル邸の周りは緑が多いけれど、砂漠に近い地域では乾季に入ると毎年深刻な水不足に悩まされる。
そこでテルミィは雨季に入る前に、水を沢山蓄えることができる植物を砂漠に近い地域に植えようと考えたのだ。
きっと役に立つ。少なくとも迷惑にはならないはず。そう思っているけれど、自主的に動いたことが無いので、ついついルドルクの顔色を伺ってしまう。
「……駄目ですか?」
「駄目じゃないけどなぁ」
含みのある言い方が気になりジッと彼を見つめれば、本日二度目の苦笑いをされてしまった。
「領主様はないだろう、領主様は。他人かよ。父上が聴いたら泣くぞ」
まさかの指摘にテルミィは言葉を失った。
「ま、すぐに父と呼ぶのは抵抗あるよな。でも、一度くらいお義父様と呼んでやれ。そうじゃないと」
「……ないと?」
「パパと呼べと無茶振りされるぞ」
「っ!?……そ、そんなっ」
血の繋がりのある実の父親にもそんな呼び方なんてしたことない。
父親が自分に向ける眼差しはいつも冷たいものだった。視界に入れたことがまるで厄災を受けたような顔をするときだってあった。
そんな幼少期を過ごしてきたテルミィにとって、血の繋がりのない男性に向かってパパと呼ぶなんて無茶振りを通り越して拷問である。でも、自分にできることなら何でもやりたいと思うのも正直な気持ちだ。
「……頑張ってお義父様と呼べるように努力します」
小声で、でもしっかりと意志のある口調で紡げばルドルクの大きな手が頭の上に乗った。
「ああ、猶予がもらえるよう俺も努力してやろう」
ゆさゆさと頭を撫でられ、テルミィはその心地よさに目を細めた。
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