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テッ、テッ、テッ、テッ……ワホッ!
温室の日陰で惰眠を貪っていたハクが、テルミィとルドルクの会話を聞いて小走りにやってきた。
後ろ足で立ったハクは、尻尾を振りながらルドルクの腰のあたりに前足を置いてハッハッハッとおねだりをする。
「なんだぁ、お前も撫でて欲しいのか?」
嫌がる素振りなど微塵も見せず、ルドルクはテルミィから手を離すと膝を折り、ハクを豪快に撫でまわす。
ルドルクの妻になって早二ヶ月。この一人と一匹の光景はテルミィにとって、もう日常のひとこまになりつつある。
見た目は美しくても、ルドルクは男性だ。暴力で自分を支配しようとしていた兄と年齢も同じだからもっと怖がるべきなのだ。なのに彼に対しては、なぜか怖いという感情が出てこない。
きっと内面がとても優しいことを知ってしまったからだろう。
もちろんこれまで自分に親切にしてくれた人はいた。心根の優しい人だっていた。
両親からは愛されず、兄弟から虐げられる自分を心配してくれた。食事を抜きにされた時は内緒で残り物のパンを与えてくれたし、眠ることを禁じられた時は見張りを買って出てくれ仮眠を取ることができた。
ただその人達はいつも人の目を気にしていた。優しさを与えてくれる時は「内緒ですよ」「秘密にしてくださいね」と言う言葉が必ずセットになっていた。
露骨ではないにしろ後ろめたさを感じさせるその行動に、少し寂しさを覚えたのは事実だ。でも、そうしてしまうのも無理もない。屋敷の主人の怒りを買ってまで守りたいほど自分には価値がないのだから。
そんな中、ルドルクは出会った人の中でダントツで優しい。困惑してしまうほど、とても優しい人だ。
なにせ押しかけ求婚をした自分を妻にしてくれて、こうして時間があれば温室に顔を覗かせてくれる。初日こそ怒鳴られたけれど、それ以降は声を荒げることはないし、ハクのワガママにも根気強く付き合ってくれる。
もったいないほど大切に扱われていると思う。なのに彼は何一つ自分に強要したりしない。それどころか、できないことでも頑張ろうとする姿勢を見せるだけで、無償で手を差し伸べてくれる。本当にこれまでこの人が独身でいたのが奇跡のようだ。
「ーーうわっ、おい、こら!」
ぼぅっとしていたら突然ルドルクの慌てた声が聞こえて、テルミィはハッと彼に目を向ける。
感極まったハクが、ルドルクに全力で飛びついてしまったのだ。
ハクは大型犬だ。羊とほぼ同じ大きさのモフモフの塊が全体重を乗せてくれば、騎士であるルドルクでも受け止めるのは容易なことではなかったのだろう。
その証拠に彼は足を投げ出した状態で床に腰を下ろし、開いている方の手を地面に付けて身体を支えている。
「ご、ごめんなさい!駄目、駄目だよ、ハク!もう、駄目ったらっ」
「いいさ、これぐらい」
慌ててハクを止めようとすれば、ルドルクから優しい口調で止められてしまった。
「……でも、服が汚れてしまいます」
「別にこの恰好なら構わないさ」
カラリと笑うルドルクは騎士の訓練服姿だ。動きやすそうなシャツとズボン。騎士の階級を示す銀の飾り緒がついた上着を肩にひっかけている。
ちなみに飾り緒は、銀が副騎士団長の証で、金が団長の証。
ニクル家が所有する騎士団の騎士たちは皆、この飾り緒に憧れて日々訓練に励んでいる。
テルミィが生まれ育ったロスティーニ家は騎士団を所有していないし、兄は剣の才能に恵まれなかった。そのせいもあってテルミィは、正直言って騎士のことはほとんどわからない。
ニクル家の屋敷は政務を執り行う場所も含まれているから、どれだけ歩いても端に辿りつけないほど広大だ。そんな敷地の中に温室と騎士団の訓練所が隣同士にある。
汗を流して訓練に励む姿を見るとは無しに視界に入れているテルミィは、ルドルクがとても実力のある人で多くの騎士に慕われているのがわかる。そんな彼と共にすごす一時は、嫌いではない。
ワッホ…ワホッ、ワホン!
再びルドルクに撫でくり回されているハクが甘えた声で吠える。
漏らすように笑い声を上げるルドルクのシャツは、ハクのせいで胸元が少し乱れてしまっている。
そこから金の鎖に通された指輪が見えた。自分と同じデザインのそれは、夫婦の証。自分の左指にもはまっている。
テルミィはルドルクの胸元から覗くそれに、見たままの感想を口にした。
「ルドルクさんのは太くて大きいんですね」
「おいっ」
一声あげた後、ルドルクの顔が赤くなる。
「……お前、昼間っから何言い出すんだ」
赤くなった顔を見られたくないのか手の甲で口元を隠す彼に、テルミィの眉が下がった。
「ルドルクさんと私の指輪……同じデザインだけど太さも大きさも違うなって思って……」
「ああ、指輪のことか」
「はい。指輪のことです。あのルドルクさん、何か──」
「いや、いい。なんでもない。指輪のことならそれでいいっ」
自分の言葉を遮って早口でまくし立てるルドルクは、まるで一秒でもこの会話を終わらせたいように見える。
「そうですね、それでいいならそれでいいです」
「ああ、そうだ。それでいい」
一体、なにが良いのかわからない。
けれどルドルクがホッとしたように笑ってくれたので、テルミィは深く考えずこの会話を意識の隅に追いやった。
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