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裏方令嬢テルミィの一世一代の交渉
──ちょっと無謀だったかも。
こざっぱりとしたサロンに通されたテルミィは、お目当ての人と対面叶って浮かれて良いはずなのに、後悔の念に苛まれていた。
出窓の向こうは、どこまでも淡い青空が続いている。季節は春。ガラス越しでも新緑が眩しく、鳥のさえずりが微かに聞こえてくる。
カーテンが開け放たれた窓から朝の清潔な光が差し込むこの空間で、猫足のテーブルを挟んだ向こうのソファに座る青年は、ついさっき自分が求婚した相手である。
溜息が出るほどに美しい男だ。同じデザインのソファに座っているが、自分はつま先がやっと床に届くのに対して、彼は長い足を持て余すように足を組んでしっかり床につけている。
艶のある漆黒の髪は丁寧に櫛で整えられており、彼の美しさを引き立たせている。二重の切れ長の瞳は、真っ先にアメジストを連想させる紫色。意思の強そうな眉とすっとした鼻筋は、もはや芸術の域に達している。
西部の伝統的貴族衣装を見事に着こなすことができる長身で整った顔立ちの彼には、きっと恋人がいるだろう。いや、もう婚約者の一人や二人いてもおかしくはない。
彼の名前はルドルク・ニクル。西の最果て”サムリア領”を統治するニクル家の長男であり、次期辺境伯。ニクル家は国王から絶大な信頼を得ており、国内で唯一騎士団を所有している。
しかもニクル家の騎士は魔獣討伐に特化した聖騎士達だ。剣の腕前もさることながら、強靭な精神力と魔を祓う清らかな力を持っている。無論、ルドルクも聖騎士である。
そんな彼の情報はここへ向かう途中の辻馬車で入手した。
年頃の女性が、きゃあきゃあと目を輝かせながら語っていたヘルライン国で一二を争うほどの眉目秀麗で将来有望の御曹司。そんな相手に自分は出会い頭に求婚をしてしまった。
そうするしか他に方法がなかったとはいえ、テルミィは今更ながら自分の無謀さに頭を抱えたい気分である。身の程を知れ!と全世界の人々から罵倒されても仕方がない。
「で、お前の名前は?」
ずっとむすっとしていた青年ことルドルクは、ギロリとこちらを睨みながら口を開いた。テルミィの萎縮していた身体がシャンと伸びる。
「テ、テルミィ……です。テルミィ・ロスティーニと申します」
「ああ、デルハ領の……って、お前……まさかあの伯爵家の娘なのか!?」
記憶を探るように視線を彷徨わせたあと、すぐにぎょっとしたルドルクにテルミィは「はぁ、まぁ」と曖昧な返事をする。
内心、そこまで驚かなくてもと思う。
だが、綿の粗末なワンピースに宝石一つも身に着けていないみすぼらしい姿では、伯爵家の娘と自己紹介されたなら驚愕するのも無理はない。それにずっと裏方として生きて来た手前、ロスティーニ家に三番目の子供がいたなんて信じてなんかもらえないだろう。
「えっと、身分を証明するものは……何かあったかな……うーん……ないかなぁ」
「いい、やめろ。そんなもん必要ない」
足元においていた鞄をゴソゴソと探っていたテルミィの手がピタリと止まる。おずおずと顔をあげた水色の瞳は不安げに揺れていた。
「あ、あの……それってつまり……確認する必要もないほど……その……怪しいということでしょうか?」
自分でも情けないほど震える声で尋ねれば、ルドルクは即座に首を横に振った。
「いや、そうじゃない。ただロスティーニ家にこんな奴がいたことに驚いただけだ」
「そうですか……私、あまり外に出ることがなかったし、デビュタントとかも……し、していないから……ご存知ないのも当然です。すみません」
「は?なんとなくだが違うぞ。俺はロスティーニ家にも、まともな人間がいたことに驚いたんだが」
「……突然求婚する人間は……まともなのでしょうか?」
「ははっ、まぁ……なくはないだろう」
笑い飛ばしたルドルクを見て、テルミィは一つの結論に辿り着く。なるほど。そういう経験はゼロではないということか。
確かに見目麗しいこの人なら、勢いで求婚されることなど過去何度もあっただろう。
言い換えるなら女性に不自由していないからこそ、執事が約束すら取り付けていないのに彼に取り次いでくれたのだ。
門前払いをされなかったことに胸を撫で下ろしたのは事実だが、お先真っ暗なこの状況にこの世の終わりのような顔になる。
自分はルドルクにとって、その他大勢の一人でしかないのだ。
このままの流れでは間違いなく追い出されてしまう。それで済むならまだしも、身分を明かしてしまった以上、家族の元に強制送還される可能性がある。それは困る。本当に困る。
二度と戻らないと心に決めて家を出た。自由を手に入れるために西の果てにあるこのサムリア領に来たのだ。ただこの国にいる以上、女性は誰かの庇護の下にいなければ生きていくことはできない。
だからテルミィは結婚したかった。その相手としてルドルクを望んだのは、純粋な乙女心からくるものではない。
きっと自分を選んでくれるという僅かながらの打算があったからだ。
しかし、ロスティーニ家の名前を出しても彼は動じない。国内随一の魔法植物師の家系なのに。
「あ、あの、私の名前を知って……その……感想は、それだけでしょうか?」
「は?なにか言ってほしいことでもあったのか?」
意味がわからないと眉間に皺を寄せながら質問を質問で返すルドルクを見て、会話をするのも面倒臭いのかと焦る。
当初の予定では相手の出方を見ながら交渉しようと思っていた。でも、お茶すら出されないこの状況では、次の瞬間にも「出ていけ」と言われかねない。
予感は不安に代わりどんどん大きくなる。テルミィは、慌てて足元に置いてあるカバンから小瓶を取り出した。中には七色に光る種が入っている。
「えっと、えっとですね……その……先程お伝えした通り、わ、私は貴方と結婚したいです。でも、ただで結婚してくださいとは、申しません。私と結婚してくれたら、貴方にもですね……利点があったりもするんです。こ、これをどうぞっ」
押し付けるように小瓶をルドルクに差し出す。
「これは……妖精の翼か?」
「は、はいっ。あの……持参金代わりに受け取って、ください!」
「受け取れるか馬鹿!」
にべもない。しかも馬鹿とまで言われてしまった。
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