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テルミィが住まうヘルライン国には2種類の結婚がある。
一つは、教会で式を挙げて神に誓いを立てる一般的なもの。
もう一つは、領主が神の代理人となり婚姻を認める領主婚。
この2つの違いは、夫婦と認められる範囲が限定されるか、されないかである。
前者は国内全域で認められるが、後者は領主が治める土地でのみに限定される。
領主婚は、両家の事情でどうしても結ばれることができない男女が駆け落ちして、一夜限りでも夫婦になりたいと司祭に泣きつき、困り果てた司祭が領主にどうしたものかと相談し生まれた苦肉の策である。
しかし一度限りのものと思われたそれは細く長く続き、歴代の国王も公式に認めはしないけれど廃止も宣言しないので、領主婚は中途半端な制度となった。
領主婚で夫婦となった二人は領地内で一生過ごすのであれば、正式な式を挙げた夫婦と何ら変わらない。ただ一歩領地を出れば、二人は赤の他人となる。これまで過ごした夫婦としての時間も、築き上げた財も何もかもが無になる。
異国に渡ることが今より遥かに難しい時代には、領主婚は駆け落ちしたカップルの最後の砦だった。しかし貿易が盛んになった現在では、異国へ渡ることはさほど難しいことではなくなった。
それに加えて、妻帯者が独身と偽り未婚女性と領主婚をするという下劣極まりない行いが各地で報告され、領主婚を廃止する領主が続出した。今ではサムリア領だけが領主婚ができる土地となっている。
*
「よくもまぁ、領主婚なんていう廃れた婚姻方法を知っていたな。俺ですら忘れていたぞ」
テルミィの策略を見事に当てたルドルクは、呆れているのか褒めているのかわからない口調でそう言った。
「せ、西部の植物史を、昔……学んだことがあって……その時に領主婚を知ったんです」
「まさか植物史と領主婚に接点があったなんて、そりゃあ驚きだ」
ちっとも驚いていないルドルクは薄く笑いながら手を組むと、肘を膝の上に置いた。次いで組んだ手の上に顎を乗せると、再び口を開く。
「金のなる木が家出したなら、家主は何としても取り戻そうとするよな。でもお前が結婚してしまっていたならば、そう簡単に連れ戻すことはできない。特に権力のある男と結婚したなら、なおさらに」
そうだ。まさにその通りだ。領主婚がささっとできて、自分の特技を利益として受け入れてくれる男──それがルドルク・ニクルだった。
利のある息子の結婚なら、領主は面倒な手続きをすっとばして婚姻証明書を作成してくれるだろう。将来、ルドルクが別の人と結婚したいというなら、その時は王都の教会で盛大に式を挙げればいい。
領主婚は、所詮領地内に限ってのもの。司祭が認めた結婚こそが正式なものなのだから、自分と結婚していても重婚にならない。
希少な種と、便利で役立つ魔法植物を与える代わりに、ちょっとだけ哀れな自分を手助けして欲しい。自分との領主婚はルドルクにとって、さほど困るものではないはずだ。
そう思っていたのだけれど、テルミィの口から出た言葉は全く違うものだった。
「……ごめんなさい」
「いい。別に怒っていないし、気にしてない」
何が「いい」のか、ルドルクはちゃんと言葉にしなかった。しかしテルミィはわかった。
彼は自分が取った行いの全部を許してくれたのだ。
テルミィは身体を強張らせた。無条件に許しを与えてくれる存在など、この世にいないと思い込んでいたから。
「俺はロスティーニ家がどんな連中なのかわかっている。直接顔を合わせたことはないけれど、悪い噂なら明日の朝までお前に聞かせてやれるくらいな。だから領主婚したいお前の気持ちはわかる。賢い選択をしたと褒めてやる」
ルドルクの口調は、縮こまるテルミィを解すような優しい響きだった。
そよ風にも似た慈悲のある深い声に、テルミィは震える唇をなんとか動かす。
「で……でも……私は、貴方を騙そうと……」
「言わなかっただけだろ?それは騙したことにはならない」
どうしてこんな優しい言葉を紡いでくれるのか。どうして怒らないでいてくれるのか。テルミィにはさっぱりわからなかった。
今、わかることはルドルクを利用しようとしたことを、とても悔いていることだけ。
胸が痛い。ただこの突き刺ささるような痛みは、酷い言葉を浴びせられた時のそれとは違うもの。心の痛みに種類があるなんて知らなかった。
「おい、大丈夫か?」
途方に暮れたテルミィを、ルドルクは身体の不調だと思ったのだろう。大丈夫、何でもありません。そう返事をしたいのに、声が出ない。
「大丈夫じゃなさそうだな。少し横になったほうがいい。この顔色じゃ歩けそうもないな──おい、ちょっと持ち上げるぞ」
早口で言いながらルドルクは立ち上がる。大股でテルミィの元に近付き、抱き上げようとしたその時、なんの断りもなく重厚な扉が大きな音を立てて開いた。
「話は聞かせてもらいましたわ」
ノックも無しにサロンに乱入してきたのは、中年の二人の男女だった。
がっしりとした体格の男性はルドルク同様に西部の伝統的な貴族衣装を身に着けており、黒髪に白いものが混じっている。
一方、紫色の瞳が印象的な赤髪の女性は華美を抑えた品の良いドレスを纏い、男性より一歩前に出ている。
二人が醸し出す雰囲気と髪と瞳の色。もしかしてルドルクの両親なのかもとテルミィがピンときた瞬間、ルドルクが荒々しい足音を立てて扉の前に立つ。
「いい年した大人が立ち聞きするなんて恥ずかしくないのですか?父上、母上」
不機嫌を隠さないルドルクを無視して、ルドルクの母親はずんずんとサロンの中に足を踏み入れるとテルミィの前に立つ。すぐに膝を折り、テルミィと視線を合わせてニコリと微笑んだ。
「ようこそ、テルミィさん。サムリアへ。わたくしは貴女を歓迎しますわ」
親しみに満ちた笑みを向けられ、テルミィは石像みたいに固まってしまった。
だってこれまで一度も、こんな眩しい表情を見たことがなかったから。ましてそれが自分に向けられるなんて、天変地異でも起こったのかと思った。
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