513人が本棚に入れています
本棚に追加
手狭なサロンにガタガタと物を動かす音が響く。
執事のディムドとメイド3人の手によって、ソファやローテーブルが壁の端に寄せられていく。
それを横目で見ながらテルミィは床にしゃがみ込み、自前の鞄から錬成に必要な紙と魔法石を取り出す。
ルドルクは諦め悪く父親のラジェインにやめろと訴えている。だがこの部屋にいる誰一人、辺境伯の嫡男に耳を傾けるものはいない。
ラジェインは無視を決め込み、使用人達はルドルクの言葉が聞こえているはずだが顔色一つ変えず、忠実にサフィーネからの任務を遂行している。
辺境伯夫人サフィーネは、ニクル邸での法であり秩序である。そのことを、テルミィは誰に説明を受けたわけじゃないけれど、なんとなく理解した。
「どう?もう少し広いお部屋のほうがいいかしら?」
「っ!……!!」
サフィーネから急に声を掛けられ、準備に集中していたテルミィは、声にならない悲鳴をあげる。驚きのあまり貴重な魔法石を床にぶちまけてしまうところだった。
無様に魔法石を拾う姿なんかをルドルクに見せてしまったら即、終わりである。
「だ、だ、大丈夫です。あの……えっと……ニクル夫人。おそれながら魔法植物を錬成する際に、なにかご希望の植物はありますか?」
できる限りシャキッとした表情を浮かべてテルミィがサフィーネに尋ねれば、彼女は「んー」と頬に手を当て考え込む。
ガラス細工のような透明な花弁を持つ花、風に揺られると鈴の音が聞こえる花、暗闇で光る花。これまでテルミィは兄と姉が望むままに数々の植物を魔法石を使って造り上げてきた。
ただ二人が望むものは全て観賞用だったので、秒で熊を食べる花とか、宝石を産み出す木とかだと術式を編むのに少々時間がかかってしまう。出来上がるまでルドルクは待っててくれるだろうか。
そんな不安が心の中で膨らんでしまったが、サフィーネのリクエストは予想を遥かに下回る簡単なものだった。
「書き損じの手紙を食べてくれるお花が良いわ」
「は、はい!かしこまりました」
二つ返事で頷いたが、ここでルドルクはぎょっと目を見開きながら割り込んできた。
「待て待て待て。ちょっと待て。そんなものできるのか」
「できます」
即答するテルミィの頭の中は、もう術式のことで埋め尽くされている。
「ところでニクル夫人、お好きな花は……ありますか?」
「あら?そんな細かい要望も訊いてくれるの?」
「あ、はい。といっても、手持ちの花の種に限りがありますので、どんなものでもとは言えませんが……私からの質問だったのに……すみません」
「そんな顔をしないでテルミィさん。わたくしお花なら何でも好きよ。あなたにお任せするわ」
「なら、せめて色だけでも……」
「せっかくだから、テルミィさんと同じ瞳の色で」
「了解です」
サフィーネから必要な情報を得たテルミィは顎に手を当て、ブツブツと呟き始める。
小間切れに聞こえてくるその言葉は、テルミィにしかわからない理解不能な言語。しかしその姿は、これまでオドオドしていたそれとは全く別のもの。声をかけてはいけない張り詰めた表情は、万人が美しいと評価するものだった。
間近でそれを見たルドルクは、はっと息を呑むと、尊い何かを見るように目を細める。
対してサフィーネは、なぜかテルミィの肩に手を置くと軽く揺さぶった。
「テルミィさん、取り込み中のところ悪いけれど、ちょっと良いかしら?」
「?……っ、あ……はい」
やっぱり無しと言われることを恐れたテルミィの瞳は、怯えの色を隠せない。
そんなテルミィに微笑みを返したサフィーネはその表情のまま、ついっと手のひらを窓に向けた。
「ワンちゃんを中に入れて差し上げて」
「え?ーー……ちょっと、ハク!駄目!!」
屋敷の玄関前で大人しく待っていなければならない相棒が、信じられないことに窓にべったりと顔を押し付けていたのだ。
鼻先を何度も窓にこすりつけたのだろう。入室するときには一点の曇がなかった窓ガラスはベタベタになっている。普段ならこんな粗相をするような犬じゃないのに。
「申し訳ありません!」
相棒の失態に青ざめるテルミィは死人のような顔になるけれど、サフィーネは「ハクちゃんっていうの?あなたがつけた名前かしら?素敵ね」とコロコロと笑う。そうじゃなくって。
「い、いけません、夫人。部屋に入れるなんて!ハクはずっと洗ってなかったから、泥まみれなんですっ。お屋敷が汚れてしまいます!……わ、私が今すぐ大人しくさせますので」
「あーらあらあら、汚れたなら綺麗にすればいいだけじゃない。それにルドだってこの人だって、今日は身ぎれいにしてるけど、普段は……ねぇ?」
サフィーネが含みのある笑みを夫のラジェインに向ける。すぐに辺境伯は、うむと大きく頷いた。
「魔獣の血は落ちにくいが、泥なら何ら問題ないーーディムド」
「かしこまりました」
いや、問題だろう。そう思ってもっと強く辞退しようとしたけれど、家具の移動を終わらせた執事ディムドの手によって窓が開く。止める間もなく、ハクが勢いよくサロンに飛び込んできた。
毛羽立ち一つないロータス柄の絨毯に、くっきりと泥製の肉球を付けながらハッハッハッと嬉しそうに尻尾を振りながらこちらに近付いてくるハクを見て、テルミィは涙目になった。
「も、申し訳ありませんっ。ウチのハクが……な、な、な、なんていうことをっ」
足元に擦り寄るハクを抱え込んだテルミィは、領主夫妻に向けてハクと共にひれ伏した。
最初のコメントを投稿しよう!