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真っ白な大型モフモフ犬と共に床に額をこすりつけるテルミィを見て、サロンにいた一同は唖然とした。
得も言われぬ微妙な空気が流れる。壁にかけてある豪奢な時計だけは、澄ました顔で時を刻む。
最初に我に返ったのは、ルドルクだった。
「何やってんだ」
呆れきった声でそう言うとテルミィの前に立ち、断りもなくテルミィの脇に手を入れた。
「っ!?……ひゃっ、え?え??」
突然の浮遊感に驚いて、ルドルクに持ち上げられたと気付いたのは瞬きを3回してからだった。
「おい、こら。暴れるな。……あとそこの犬、お座りだ。お座り」
無意識に足をバタつかせていたことを咎められ、テルミィは持ち上げられた状態のまま気をつけの姿勢を取る。
その一連の動作をハクは遊んでると思ったのだろう。大きな尻尾をブンブン振って、ルドルクの足に纏わりつく。お願い、やめて。
「……こいつ本当に賢いのか?」
お座りの命令を無視して「僕にもそれやって!」と強請るハクを一瞥すると、ルドルクはテルミィにそう問いかけた。その目は明らかに疑っている。
「普段はいい子なんですぅ……本当なんですぅ」
涙目で訴えるテルミィに、ルドルクはどうとでも取れる薄笑いを浮かべ、持ち上げたままのテルミィを床に下ろした。
「あっ」
「おっと」
びっくりするほど優しく下ろされよろめいてしまえば、太くたくましい腕が背中を支えてくれた。
「ご、ごめんなさい……!すみません!!」
バッタのように飛び跳ねてルドルクと距離を取ったテルミィは、ペコペコと何度も頭を下げる。すぐさまルドルクの眉間に皺が寄った。
「こういう時は”ごめん”じゃなくって’”ありがとう”だろ」
「え?」
まるで知らない言葉を耳にしたように首を傾げるテルミィに、ルドルクは何かを言いかけて止めた。
「もういいから、さっさとこれをやってしまえ」
ルドルクがついっと指差したのは、魔法石が入った小瓶と紙。そばにある鞄の口は開きっぱなしで、数種類の花の種が入った袋が飛び出している。
馴染みあるそれらを見て、テルミィは落ち着きを取り戻した。
ちなみにハクはといえば、ニクル夫妻に撫でまわされている。「大きいわねー。可愛いわねー。無駄吠えしないなんてお利口さんねー」と褒められる度にまんざらでもない顔をするハクだが、今朝までは間違いなく小さな物音でも唸り声をあげる警戒心の強い犬だった。
この僅かな時間で、ハクの心境に一体何の変化があったのだろう。
急な相棒のキャラ替えが気になるところだが、今はルドルクに自分の利用価値を見せつける方が先決だ。
テルミィは床に投げ出したままの鞄から、サフィーネの希望に合いそうな花の種を取り出す。次いでペンを握るとどこにでもある粗末な紙に魔法陣を描いた。
「……あ、しまった」
「どうした?」
物珍しそうにテルミィの手元を覗き込んでいたルドルクから尋ねられ、テルミィはへにょりと眉を下げる。
「実は……鉢植えが必要だったのですが、用意してなくて……」
「なんだそんなことか。すぐに用意させる。といっても、俺は花についてはさっぱりだからなぁ……どんなものがいいんだ?」
「一般的なもので、構いません」
「そうか。空の鉢植えでいいのか?」
「で、できれば……土を入れて貰えると……」
「お安い御用だ──ディムド」
メイド3人は既に退出していたが、執事はまだサロンに残っていた。
パリッとした燕尾服姿の初老の彼は、年を感じさせない奇麗な立ち姿でドアの前で起立している。だが、チラチラとハクに視線を向けていた。
眼差しは温かく、ニクル夫妻を羨ましげに見ている感じから、きっと犬が好きなのだろう。
「ディムド。おい、ディムド」
「あ、はい。なんでしょう若様」
「庭師に土入りの鉢植えを用意させろ、大至急だ」
「はっ」
若様の命令で退出したディムドは5分もしないうちに、小ぶりの鉢植えを抱えて戻って来た。
「これで良いのか?」
「は、はい。ありがとうございます」
非の打ち所がない鉢植えを頂戴したテルミィは、ペコリと頭を下げる。次いで魔法陣を描いた紙と花の種。それから大事な魔法石を抱えて、サロンの中央に移動する。
まず魔法陣を描いた紙を床に置き、その上に種を植えた鉢植えを置く。魔法石は右手の人差し指と中指の間に落ちないようにしっかりと挟む。
「あの……それでは、始めます」
床に膝を付いたままテルミィが宣言すれば、ニクル夫妻はハクを撫でるのを止めてルドルクの隣に移動した。
「空と大地に眠る精霊達よ、絶え間なく我を見守る光よ、あなたは恵みの塊、そして私の道しるべ。私は願う、あなたの奇跡を。悠久の命の欠片を今ここに顕現せよ──」
詠唱を終えたテルミィの瞳が水色から金色に変わる。紙に描かれた魔法陣から柔らかい風が浮かび、アプリコット色の髪がふわりと揺れる。
人差し指と中指に挟んだ魔法石が光り輝き、魔法陣の上にある鉢植えは様々な色彩に包み込まれた。
時間にして数十秒。時計の長針が動く間もなく鉢植えを包んでいた光が消えれば、そこには壺型のクレマチスが揺れていた。
「できました。えっと……い、一緒に見てもらえますか?」
錬成したばかりの魔法植物を色んな角度から確認したテルミィは、身体を捻ってニクル夫妻とルドルクに声を掛ける。瞳の色は、鉢植えのクレマチスと同じ水色に戻っていた。
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