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8. 混沌
狭い路地を灯りをつけずに走り抜ける男はトランクを抱えたまま息も絶え絶えになりながら古びた家の扉を開けた。そこに人はおらず使われていない暖炉の底板を捲ると階段が現れた。
外套を引かれてしまい脱ぐしかなかった男は素顔を晒したまま腰を折りその階段を降りていく。
腰に差した短剣が狭い階段にぶつかりカチャカチャと音を立てていたが気にする余裕すら男にはなかった。
やがて階段の先に見えた扉を数回ノックすると返事が返ってきた。恐る恐る扉を開け、部屋に入る。
中は地下とは思えないほど広く涼しかった。
元は密輸したワインの貯蔵庫だったと聞いている。天井高く薄暗い室内にぽっと光が灯る。
「やはり本物はこれのようです」
呼吸を整えながら灯りの方へトランクを差し出す。灯りはゆっくりと足音を響かせながら歩いてくると長いローブで身を包んだ男の姿が現れた。
「見せろ」
そう言われ、トランクを目の前で開いて首飾りを男に向ける。灯りを灯していたのは男の掌に浮かぶ大気でその者が加護持ちであることが容易に分かる。
光は男の指先が首飾りに触れようとトランクに伸びた瞬間、警告をするように青く光を放つと高く燃え上がった。
「...囲まれた」
「は?」
人の気配を察したローブの男はトランクの中からコインを手に取り表と裏を交互に見る。
このコインに刻まれた風の魔方陣には追跡と通信機能が備わっているらしい。こんな姑息な陣を描くのは国の役人だろうが、王妃の首飾りの件を知るのは限られた人間だけだろう。推測するに王家のコインに魔方陣を描くなど愚かな行いをする役人は男の思いつく限り二人いた。その内の一人の顔が脳裏に浮かぶ。
アルバート・ハワード、王女の側近であり騎士の家系であり頭がきれる。
既にここを衛兵で取り囲み、今にも取り押さえに動くだろう。男は指先で魔方陣を拭い去るとコインは圧力が掛かったようにぐにゃりと歪み、折り畳まれる。
「こんな罠に引っ掛かるとは、教国の人間は存外能無しのようだ。」
「な、何を!」
素顔を晒したままの男は首から下げていたネックレスの石を握る。
雫型の青い石は教国の信者である証だ。
そんな物を晒したまま人を殺めて物を盗んだのだから馬鹿にされても仕方がない。
ともかく、これを仕組んだ者に挨拶だけはしておかなければと男は含みを持たせながらローブの下にコインを隠した。
「これは偽物だ。本物はこちらの手にある」
そう告げると男はローブを翻し部屋の奥へと踵を返した。その後ろ姿に馬鹿にされた信者の男は弁明する。
「しかし、あれには魔力は無かった!王妃の首飾りであれば強い魔力が封じられている筈だろう!それにこれは砂の国の姫が高額で買い取っていた、オーナーも本物だと言っていたぞ。お前らが盗んだものが偽物なんじゃないのか!」
ピタリと背を向けていたローブの男は足を止める。肩越しに振り向くその顔は鋭い眼光を放っていた。
「...盗んだだと。」
「ひっ」
「人聞きの良くない言い方はやめてもらおう。俺はお前らのように人も殺さなければ盗みもしない。他人のものを奪って喜ぶお前らのような卑劣な心を持ち合わせていない」
「す、すまなかった。悪気はないんだ」
青ざめカタカタと肩を揺らす男は必死に懇願する。見つめられた瞳が今にも人を殺しそうなほど鋭くそして冷たかったからだ。
「許してくれ。俺は何も知らない」
ローブを翻し、男の元へ戻ってくるとその指先が口許に近づく。
「しーっ、静かに」
まるで子供をあやすように発せられた言葉は男の口許をなぞる指先に続く。
「君は何も知らず、発する言葉の意味も分からず、縫い付けられしこの口は二度と開かれることはない」
「?!ん、んー!」
信者の男は思わず叫び声を挙げたが、気付けばその口許からは唇が消え鼻から下が一枚の皮膚になっていた。
「君自身のマナで縫われているから、女神の加護を捨てるか死ぬかしないと解けないよ。それとも、その短剣で切り開いて見るかい?」
「!」
神の従僕たる男に信仰を捨てることが出来るわけでも、自ら加護を捨てることも出来るわけがない。選べるとすれば、剣で己の皮膚を切ることだけだった。思わず膝まずき、信者の男は血に汚れた短剣を口元に構える。
神に祈るように両手で短剣を握ると剣先を口にあった場所に押し当てた。
「そういえば、古い書物に面白い話があったなぁ。」
嗚咽混じりに血を流す信徒を見下ろしながら男は思い出したとばかりに話を続ける。
「その昔、今は無き国に混沌という神がいたんだ。神は王達のよき友として一緒に国を納めていた。王達も混沌が好きで宴会を開いたそうだよ」
話が耳に入る筈もなく、信徒は痛みに耐えながら皮膚を裂く。血の吹き出る音と男の叫び声が大きくなるにつれ、天井から足音が響いて来た。騒がしくなっても男は話を止めず、ガタガタと震えている信徒の頭を撫でた。
「そして混沌に礼をしたくなった王達は肉の塊である混沌に七つの穴を開けてあげたそうだよ。耳も口も無ければ不便だろうってね」
足音が階段を降りてくる。
そろそろ退散しなければと男は思いながら撫でた髪を鷲掴むと最後に信徒の耳元に囁いた。
「穴が開いた混沌は死んでしまったとさ。」
勢いよく開かれた扉と信徒の男が頭を貫いたのはほぼ同時だった。
衛兵が部屋に流れ込むとそこには短剣で自ら頭を突き刺し倒れている信徒とそのすぐ近くには王妃の首飾りが床に転がっていた。
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