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透さんが仕事で抜けた隙に、俺は仕込みを続けるサボさんに何気なく声をかけた。
「そういえば、冴木さんが店にきたよ。」
俺が冴木さんの名前を出すと、包丁の動きを止めたサボさんが俺をじっと見つめている。
その様子に、やっぱりただの古い知り合いには思えなかった。
「悠哉が?」
親し気に下の名前を呼び、前のめりで俺の言葉を待つ表情に、やっぱり当たりかと複雑な感情になる。
父親のように年齢差のある友達であるせいか、サボさんの恋愛事情は聞きたいような聞きたくないような微妙なライン。
努めて冷静な態度でサボさんに視線を送り、世間話をするような軽いトーンで言葉を繋げる。
「そうそう。急にふらっと……。」
「なんか、言ってたか?」
サボさんのその言葉に、冴木さんの言葉を思い出して、あの時感じたほの暗い気持ちを呼び起こした。
「サボさんの友達だって。」
「それから、長くないって……。」
「そうか。」
静かにそれだけ言うと、簡易椅子にすとんと腰を下ろして煙草に火をつけた。
ゆっくりと煙草の煙を吐き出すタイミングに合わせて、本人に聞けないことを思い切ってサボさんに聞いてみることにした。
「冴木さんって、そんなに悪いの?」
「あー……そうみたいだな。」
誤魔化すわけでもなく、淡々とそういうと……まだ長いままの煙草を灰皿に押し付ける。
そわそわと妙に落ち着かないサボさんの様子に、親しい人の死が迫っていることを聞くのは酷だったと反省した。
「やっぱ、冗談じゃなかったんだ。」
冴木さんの憔悴した顔を思い出して、時間がないという言葉に重みを感じた。
「顔見知り程度のお前がそんなしょげることねえだろ?」
「そう、なんだけど……老衰以外の死って、なんかぴんとこなくて。」
俺にとって、一番近しい人の死は幼稚園の頃に亡くなった曽祖母だった。
あまり接点のない相手だけあって、幼すぎた俺には曾祖母の姿も記憶に薄い。
それでも、母が涙を流している姿を見たのはあれが初めてで、それだけは鮮明に覚えている。
死っていうのがとても哀しいもので、寂しいもので、心を黒色で塗りつぶしていくような感情で。
肌に感じたあの張りつめた空気が、とてもとても息苦しかった。
その遠い記憶を呼び起こしながら、誰かが身体を悪くしていると聞いても……
死というものが俺の生きる現実の生活とは遠すぎて、あまりぴんとこなかった。
どこかに逃げ出したくなるような焦燥感や喉が無性に渇くような息苦しさ。
胸にどしんと重く圧し掛かるような感情は理解が出来ても、俺の短い人生経験では味わったことがない。
「あのさ……。もしかしなくても、冴木さんの相手って透さん?」
冴木さんが人形みたいな美人と表現していたことを思い出しサボさんに尋ねると、サボさんは目を瞠った。
「悠哉が話したのか?」
「いや、でも……なんか、透さんくらいしか浮かばなかったから。」
「そうか。」
その短い言葉に、サボさんが透さんを初めて見たときの表情を思い出した。
透さんと初めて会った時にサボさんは白を切っていたが、あの時既に透さんの顔には覚えがあったのだろうか?
サボさんが透さんを見つめる視線は複雑で、苛立ちに似た感情を滲ませていたのは、冴木さんの顔が浮かんだからかもしれない。
それでも、先ほどの透さんとサボさんの関係は傍目には良好に見えたし、むしろ俺に対する態度とよく似ていた。
まぁそもそも、あの透さんが懐いてくれているのに、邪見に扱える人の方が少ないとは思うけれど……。
「でも、すっごい偶然だよな?透さんも冴木さんも最近会ったばっかなのに……。」
「そうだな。」
気のない返事を返しながらも、サボさんの包丁は止まったまま。
どこか遠くを見るような目で細くなったニンジンを手に取り、切るでもなく手の中で転がしている。
「サボさんとも、親しい人なんだろ?」
「親しいかは分からねえけど、昔からの知人ではあるな。」
「もしかしなくても……元カレ?」
「さあ?そんな甘い関係ではなかったけど。」
俺が恐る恐る探りを入れると、いつもはぐらかしてばかりのサボさんが、珍しくぽつりと漏らした。
意外な答えにサボさんを見上げると、いつもと同じように目を細め、愛想のない顔で俺を見つめている。
「なんだ?その顔は。」
「いや、サボさんのそういう話聞くの……初めてだなって思って。」
「あ?」
「サボさんって、いつもなんだかんだとかわしてるから、本当はゲイじゃないのかもって思ったりしてて……。」
「……アホか。」
呆れたようにそう漏らすと、手の中のニンジンをようやく包丁に転がして、乱切りを始める。
見事な包丁さばきを見つめながら、冴木さんの顔を思い出していた。
哀し気な表情を浮かべながらも、その瞳にはぎらぎらとしたものがあり
ヒーローでいたいというまるで子供のようなことを言いながらも、透さんへの愛で溢れていた瞳はやはり大人のそれだった。
何がしたいのかは具体的には分からなかったけれど、もっと話を聞いてみたいという好奇心が湧く。
「冴木さん、この店にもちょくちょく来る?」
「いや、この間の1回だけ。透に会う気がないんだから、もうここには来ねえよ。」
「……そっかぁ。」
――本当に、もう透さんには会う気はないのかな?
もし、俺が冴木さんだったら……
好きな人に傍にいてほしいと思う。
目に見えない死という恐怖を1人で立ち向かう勇気はとてもなく、心身ともに縋っていたいと願うに決まっている。
もし、俺が透さんだったら……
きっと傍にいたいと思う。
全てが終わってから事情を説明されたところで、きっと悔やむに決まっている。
冴木さんの気持ちは分からなくもないけど、それは透さんの気持ちを無視しているように思えて仕方ない。
俺がぼんやりとそんなことを思っていると、サボさんにこつんと拳をぶつけられた。
「余計なこと考えてんじゃねえぞ?」
「え?」
「あいつは透と会わないって決めてる。だから、最後くらい静かに逝かせてやりたい。」
子供に言い聞かせるように静かに言うと、俺の中に反発心が溢れた。
「でも、透さんは……冴木さんと一緒にいたいんじゃない?」
「日向、お前が首を突っ込むべき案件じゃない。」
いつもはひゅうと呼ぶサボさんが、珍しく俺の名前を呼んで咎めた。
有無を言わさない圧を感じて、俺は黙るしかない。
何も知らないくせに首を突っ込むなと言われたらその通りで、俺が首を突っ込んでいい話ではないのも分かってる。
でも、でも……モヤモヤする。
「分かってるけど……。」
「あまり人に踏み込みすぎんなよ。厄介ごとをわざわざ拾う必要はない。」
こういう仕事をしているからだろうか……
人のプライバシーだとか線引きをとても大切にしているサボさんにそう言われてしまえば、大人しく従うしかない。
納得できたわけはないが俺が渋々頷くと、くしゃりと髪をまぜられた。
「それに、本命と遊びで寝るのはやめとけよ。」
「え?」
「最初は楽しくても、絶対きつくなる。」
「そう、かな……?」
抱かれている時は、この上なく幸せだった。
好きな人とのキスやセックスは諦めていた俺にとって、あれはもう夢のような時間だった。
それを手放せと言われたところで、はいそうですかと易々と受け入れることは出来ない。
「振り回されて、遊ばれて、捨てられる。身体が馴染む前にやめときな。」
「サボさんも、そうだった?」
妙に熱のこもった説得に俺がそう聞くと、サボさんの目が哀しそうに揺れている。
言葉はなかったが、顔はイエスと言っているようなものだ。
その目を見ていると、何か文句を言いたかったのに……
言いたかった言葉がすっと引いていく。
「お前の愚痴を聞くのはもう飽きたから、今度は笑える話もってこい。」
「うん。」
いつも悩み相談という名の愚痴に嫌というほど付き合わせているからか、サボさんの笑い声はほとんど聞いたことがない。
サボさんに見捨てられる前に、俺も自分のことくらい自分で解決できるようにならないと。
「本当にそろそろ切り替えねえと、嫁にいきおくれるぞ?」
「いきおくれたら、サボさん貰ってくれる?」
「絶対嫌だね。自分の旦那くらい自分で探せ。」
いつものようにつれないことを言いながら、口元には笑みを浮かべて包丁を握りしめていた。
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