片思いの曲がり角

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大堀を無事にバイト先まで送り届けてから、約束していた場所に足を延ばした。 都心から外れたところにあるその病院は、普段なら近づく用もない場所。 奇遇にも、そこは祖父が亡くなったのと同じ病院で、妙な縁を感じる。 昔は出来たばかりだったから綺麗なイメージが刷り込まれていたが、久しぶりに訪れたそこは記憶の場所とは程遠い。 灰色に染まった建物を見上げながら、10年という時の経過を感じる。 いつの間にか増築されたようで見かけない建物が出来てはいたが、記憶に残っている白い建物も薄汚れているせいか…… 以前よりも殺伐として見える。 あの男がいるであろう建物を見上げながら、俺はゆっくりと足を進めた。 *** あの男に出会ったのは、大堀と出逢った日と同じ日で…… 久しぶりに会ったあの人は、俺が覚えているあの人とは別人に思えた。 太陽がまだ高い時間に『サボカフェ』に訪れてみると、そこは祖父が生前営業していた頃の『サボカフェ』と瓜二つ。 レコードから流れる洋楽は祖父が好んで聞いていたものだったし、懐かしさすら覚える珈琲の匂いに包まれていると…… 子供の頃にでも戻ったように錯覚する。 丁寧に修理された調度品のすべてから醸し出されるその雰囲気は、間違いなく祖父の店で感じていたものと同じ。 似ていたというよりも、そっくりそのまま場所を移しただけのような…… そんな印象を覚える。 準備中の札がかけられた店に入ると、カウンターに煙草を銜えた野暮ったい男が立っていた。 暢気に鼻歌を交えながら、耳に心地よい包丁の音が店内に響いている。 俺が男の前に立つと、少しだけ視線を上げた男と目が合った。 昔は見上げるようにして見ていた目線が、ぴたりと重なる。 猫背や目の下まで伸びた前髪は昔のままで、目つきの悪さも変わっていない。 「でっかくなったな。」 「そりゃ、10年近く経ってますし……。」 「ま、座れよ。珈琲でいいか?」 「頂きます。」 男に促されてカウンターに腰をおろすと、男は慣れた手つきで珈琲を淹れ始めた。 血管の浮き出る男の手の甲が、どこか祖父に似ている気がして懐かしい。 祖父が亡くなったのはもう随分昔のことなのに、男と話していると昨日のことのような気がする。 10年が長いか短いかで言えば、俺には間違いなく前者だ。 それなのに、男の声を聞いていると…… この場所で目を瞑っていると…… その時間すら飛び越えたような、そんな気がする。 「今日は、お前にあわせたい奴がいてな。」 「俺に?」 急に連絡をとってきたからおかしいとは思っていたが、誰かに頼まれたのだろうか? 嫌な予感に眉間に皺を寄せていると、サボテンさんが名前を明かした。 「冴木 悠哉。」 「……聞き覚えがありませんが?」 「透の彼氏。」 透という名前に席を立つと、サボテンさんが煙草を銜えたまま苦笑いを浮かべる。 「おいおい、もう帰るのか?」 「あの人と関わる気はありませんから。」 「あの人って……。実の兄貴にその言い方はないんじゃねえか?」 「10年も家を空けていた人を、とても兄だとは思えません。」 *** 透が家を出てから、約10年程経っている。 しかし、俺の中ではそのことは過去の問題ではない。 むしろ、徐々にあいつがいないことが現実問題として俺の将来に直結している。 周りの大人たちから寵愛を受けて育った透は、その期待をあっさりと裏切った。 両親の期待の的であり、自慢の息子でもあったのにも関わらず、そのすべてを俺に押し付けて透は忽然と姿を消してしまった。 透への期待はまっすぐに俺に向かい、周りに何度も落胆されながらも一先ずその道を目指している。 俺が物心ついた頃、両親の目は既に透にあった。 年が離れているせいか、可愛がられたという記憶よりも放任されていた記憶の方が強い。 家にはいつも親の姿はなく、その代わりにいたのが年の離れた兄だった。 「美しい」という形容詞がよく似合う透は、俺にとっても完璧な兄だった。 眉目秀麗で成績優秀。 見た目に反して運動神経もよく、道場に長年通っていたため武術にも長けていた。 そんな兄をライバル視するような高い志はその頃の俺には全くなく、むしろ尊敬に近い念を抱いていたと思う。 親という存在が近くにいないせいか、年の離れた兄というよりは…… 俺にとっての母であり父であった。 そんな雲の上の存在であった透の秘密を知ったのは、小学生に上がってすぐのこと。 いつものように習い事を終えて家に帰ると、透の靴は玄関にあるのに部屋の電気は消えていた。 暗いリビングに足を踏み入れると、呻き声のようなものが家の中に響いている。 悲鳴のような甲高い声に驚きながら、足音を殺してその声の方へと向かった。 若干ビビりながらも兄の部屋を薄く開けると、ベッドの上には獣がいた。 黒い大きな影がベッドで蠢き、苦しそうな低い声をあげながらしきりに腰を振っている。 その大きな背中に鳥肌がたち、今まで感じたことのない恐怖を覚えた。 獣の下で喘いでいるのが自分の兄だと気がついても、それはまるで肉食獣に喰われているようで…… いつも優しい笑みを浮かべた兄の姿とは似ても似つかず、見てはいけないものを見てしまったということだけは理解出来て そのまま自室へと引き返した。 兄が喰べられてしまうかもしれないということが、ただ怖かった。 獣に喰われ、大好きな兄が兄でなくなってしまうしような気がして、ただただ怖くて泣いていた。 肉がぶつかる音と獣の声、そして兄のあられもない姿。 随分時間の経った今でも、その音や映像は耳と目の奥にこびりつき、記憶にはっきりと残っている。 次の日に兄に会うと、そこにいたのはいつも通りの兄だった。 いつもと変わらない兄に昨日のことを聞くに聞けず、あれは悪夢なんだと思い込もうとした。 でも、それがどういう行為なのか理解できる年齢に達すると…… その悪夢を思い出すたびに、憎しみが湧いた。 何をしても非の打ち所がないと思っていたのに、幼いながらに尊敬までしていたのに…… それを全てぶち壊されたようで、今までの気持ちが真逆となった。 男同士がどうこうなんて、アレがなければ考えることもなかったと思う。 誰よりもきれいなところにいてほしかった人の堕ちた姿なんて、見たくなかった。 知らなければよかった。 忘れられたらよかった。 でも、そんなことはありえない。 兄が嫌いだったのか、ゲイが嫌だったのか…… 俺の中でその区別はすることもなく、同じ問題として捉えていた。 兄を嫌うことはゲイが嫌いなことと同等で、だからこそ大堀が嫌いなはずだった。 俺もあの男と同等なのかと思うと、いまだに釈然としないものがあるが…… 流石にここまで執着する人間に会ったことはないから、きっとそうなのだと思う。 あの時大堀と再開して、よかったのか悪かったのかは分からないが…… いつか来るタイムリミットまでは足掻いてみようと、そんなことを思っている。
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